175. 虎の挑戦状
この時代の武士はだいたい喧嘩っ早い。
口より先に手が出る、足が出る。親父殿も大概だったが、遠縁の信純と俺が棒を振り回して暴れていても誰も止めない。静止役は岩村城におらず、小姓たちは見慣れた風景なので遠巻きにしている。
その隙に、揃って城を抜け出した。
伝令のふりをして馬を駆る俺たちを、城門を守る兵士は疑うことなく通してくれた。
「いや少しは疑えよ」
「目立たない風貌でよかったよね」
「うるせえ」
兵士たちが警戒するのは森の向こう側だ。
奇妙丸たちを追って、山県某の手勢が国境付近ギリギリで留まっている。踏み越えてはいけないラインを弁えているのはいいことだ。奴らとしては、城へ逃げ込まれる前に捕まえたかったのだろう。一体何をやらかして怒らせたんだか。
俺たちは何食わぬ顔で峠を越え、街道を通って信濃国に入る。
「ねえ、本当に甲斐まで行くの?」
「いや、俺の勘が正しければ迎えが来ているはずだ。本人に直接聞いた方が早いからな」
「そう考えて即、実行に移すのは三郎殿くらいだよ」
「ははっ、タイムイズマネーってやつだ」
「! 三郎殿、前っ」
俺は慌てて手綱を引いた。馬の嘶きが森に響き渡る。
申し訳程度に整備された街道に、熊面の親父が仁王立ちしていた。山県昌景は赤備えだと聞いているので、黒い具足の熊男は武田家臣の誰かか。
こちらを鋭く睨みつけながら腹に響く声を張る。
「織田尾張守殿とお見受けいたすっ」
「……一発でバレたね」
笑い上戸の発作をかろうじて堪える信純を睨みつける。
他人のふりをしてもよかったが、こちらの行動を読まれているなら抵抗しても無駄だ。武装した兵士がわらわらと出てきたものだから、さすがに顔が引きつる。こんなところに兵を伏せておくんじゃねえよ。
ここで睨み合っていても仕方ないので、咳払いをひとつ。
「我が道を阻む者、名を聞こう」
「武田家臣、
「ふん、貴様が案内役か」
「どうぞ、ご安心を。このようなところで首を獲る、などと無粋な真似はいたしませぬ。ただ大人しくご同行いただきたい」
「であるか」
にこりともしない男は大いに呆れているらしい。
腰回りに妙な視線を感じるので、近くにいた兵士に刀以外の道具を預ける。片手鍋に始まって荒縄や火打石に携帯食料、塩や薬草類はもちろん、なめした革と金属類と竹とエトセトラ。一つずつ並べるだけで辺り一帯が道具だらけになる。検分するのは構わないが、ちゃんと片付けてくれるんだろうな?
何故か、隣の信純までが呆れた顔になっていた。
「重くないの?」
「すごいだろ、俺流サバイバルグッズだ。一応、鞄と短筒は置いてきた」
「十分あやしいから」
道理で出発早々、妙な溜息を吐かれたわけだ。
何を言っても無駄だと、俺のやることだからと早々に諦めたらしい。そんなこんなで雑談しつつ、護衛なんだか監視なんだか分からない兵士諸君を巻き込みつつ、わりと和気藹々とした空気のままに信濃国の森を歩いていった。
信玄も別荘感覚で、あちこちに庵を持っているという。
なんて羨ましい。
「俺、隠居したら苔生した庵を建てて、そこに住むんだ……」
「道三殿の庵があるじゃない」
「それだ!」
「ぶはっ」
背後で熊男が睨んでいる気配を察知。
笑いの発作が始まった信純を引きずり、庵の中へお邪魔しまーす。
はい、今此処。
どれくらいの広さまでが庵と呼んでいいのか分からないが、俺たちの招かれた庵は結構広い。門があって、井戸があって、庭らしき一角もあって、壁で仕切られた部屋がある。そんな堂々とした佇まいが、森の中に突如として現れたのだから驚いた。
綺麗な少年に案内される。
男娼か、男娼なんだろうな。色小姓っていうもんな。老いてますますお盛んなのはいいことだが、せめて女にしとけよ。ハーレム上等。
「虎のおっさん、いるかー」
「あっ」
非公式の対談だ。作法なんか気にしていられるか。
少年を押しのけて障子を開ければ、肘置きに体を預ける老人がいた。剃髪してから久しい頭は毛の一本も生えておらず、代わりに顔の半分が白くてフサフサなものに覆われている。小太りな体型からして、赤い帽子と赤い服が似合いそうだ。
「よう来た。おぬしらだけかの」
「ああ」
「そういうところは変わらぬか。やれやれ」
まあ座れ、と勧められるままに俺たちは腰を下ろした。
小姓は席を外すように言われ、さりげなく整えられた庭が障子によって見えなくなる。そうやって締め切られた部屋の中で、俺は鼻をヒクヒクさせた。
この臭いは覚えがある。
「痛み止めか?」
「ほう、さすがじゃな。臭いだけで分かるとは」
「たまたまだ」
痛み止めと止血、消毒は必然的に詳しくなった。
戦には怪我がつきものだ。せっかく拾った命も怪我がもとで動けなくなり、死に至る時もある。的確な処置を早く行えば、酷いことにはならない。
「体、かなり悪いのか」
「情けない顔をするでないわ。今日明日に死ぬことはあるまいよ。わしの場合は持病のようなものじゃ。死ぬ時がくれば、おのずと分かる」
「…………そうか。じゃあ、本題だ。軍を退いてくれ」
「退いてもかまわぬが、条件がある」
「俺にできることなら何でも言ってくれ。そのために出向いてきたんだ」
「そんなに戦が嫌いか」
「ああ、嫌だね」
俺と信玄は、しばらく睨み合ったまま動かなかった。
義信事件を含めて家臣の暴走があったとしても、信玄が状況を把握していないわけがない。でなければ俺たちはここでこうして会っていない。全て知った上で止めなかった、あるいは止められなかったのだ。
ややあって信玄は疲れたような溜息を吐いた。病による体力低下は深刻か。
「武田は遠からず滅びる」
思わぬ言葉に、俺は息を呑んだ。
信玄は静かに続ける。
「四郎では後ろ盾が弱すぎるのじゃ」
「諏訪勝頼殿のことですね。騙し討ちのような形で諏訪家を潰して、山本道鬼斎の手引きで姫を娶って生ませた子というわりには、なかなか聡明な若者であると聞いていますが」
「詳しいな、又六郎」
「冬姫様の婿になったかもしれない人だからね。できる限りの情報を集めておくのは当然だよ」
「おい、おっさん!」
お冬までいなくなったら、俺はどうすればいいのか。
そもそも諏訪姓を名乗っているらしい勝頼だって、いずれは織田家と敵対するのだ。確か長篠の戦いでは、武田方の総大将が勝頼だった。覚えているのは戦があったことだけで、負けて落ちのびた勝頼がどうなったかは知らない。不安要素は長政だけで十分だ。
非常に癪だが、ここは鶴千代に頑張ってもらうしかないな。
織田家臣に嫁ぐのであれば、お冬は手元に残る。岐阜城下に北畠屋敷を作らせるのもいいし、今まで通りに城で生活してもいい。本当は、どこにも嫁いでほしくない。茶筅丸以下、三人の子供たちが手元を離れていったのだ。
あー、本当に決断早まった。
頭がどうにかしていたとしか思えない。いや、今は於次丸がいる。満を持しての帰蝶懐妊というのも期待できる。岩村城へ向かう前日まで頑張ったしなー。
娘でもいいんだけどなー。
「それでだ。どうやら奇妙丸が、太郎を連れていったようなのでな。うつけ殿の養子に迎え入れてもらえぬかの」
「は?」
ちょっと待て、途中の話を聞いていなかった。
信純を振り返るが、こちらも驚いている。
「太郎って、太郎義信殿のことですか? 信玄公への謀反を計画し、廃嫡されたと聞いています。亡骸は手厚く供養して、幽閉先の寺に墓も建てたと……」
「その太郎の命をのう、奇妙丸が拾って持ち帰ってしもうた」
「はああぁ!?」
「出家しただけなら見逃しもするが、国外に出られたとあっては仕方あるまい。死んだはずの太郎が生きていたとなれば、四郎の地位も揺らぐ」
「追手の軍って、それかよ」
なんということだ。
そこまで大事になっているとは思いもしなかった。信純が知らなかったのは、義信と面識がなかったからだろう。奇妙丸か本人が名乗らない限り、そんなの分かるはずもない。
「ってことは何か? もう賽は投げられてんのか」
「ふん、内々に収めるつもりはないぞ。良い機会でもあるしの」
「どんな好機だよ!? 何度も言うが、俺は戦なんかしたくねえんだ」
何とかならないのかという叫びは、喉の奥まで出かかっていた。
奇妙丸がやらかしたことはある意味、信玄にとって救われた面もあったんじゃなかろうか。親子関係が悪かったとは聞いていない。むしろ川中島の戦いでの武勇を伝え聞く限り、かなり期待されていたと思われる。
義信が謀反を起こした後、今川領への侵攻が始まった。
その義信を拾って、
「うーん。廃嫡されているから武田家は関係ないし、三郎殿の養子にするのなら問題ないかなあ。対外的には隠し子とでも言って」
「無理ありすぎるわ! 太郎の年を考えろ、よくて弟だろ」
「そこはほれ、末姫の婿に」
「今すぐ首獲られてえか、おっさん」
バツが悪そうな顔をして黙る信玄を一瞥し、それから信純を見た。
「又六郎」
「……嫌だよ、お艶様に嫌われたくない」
「大丈夫だ、心配するな。あの人はこまけーことは気にしない。むしろ、弟みたいな息子ができたと抱きしめて喜ぶかもしれん」
「想像するだけで斬り殺したくなるんだけど」
「俺の子供にする方が問題あるだろ!」
「お艶様には坊丸がいるから十分だよっ」
「藤左衛門家は?」
「なくてもいいんじゃないかな」
そんなに嫌か。嫌だよ。俺も嫌だ。私も嫌だってば。
イヤイヤを繰り返して、最終的にジャンケンで決めた。イザという時には強い俺の悪運が勝利のラッパを吹き鳴らし、敗者たる信純が畳に突っ伏している。
「話は済んだかの」
「おう」
「
「なんでそうなる!! だから、俺はっ」
「動き出した時は止められぬよ、尾張のうつけ」
分かるだろうと諭されても頷きたくない。
そうとも、俺は戦いたくなかったのに戦わねばならなかった。勝てる戦しかしないと豪語しつつ、なりゆきで開戦に至った回数の方が多い。
「四郎のためにも、敵はなるべく減らさねばならぬ。それに何度となく出された上洛命令にも従っておらぬしの。だが公方様のために、おぬしは武田を討たねばなるまいて」
「そんなこと言ったら、他の所にも攻め込まなきゃならなくなる」
「当然じゃな。公方様の後ろ盾となり、幕府を支える家柄となった以上は幕府に従わぬ者を排除する。それがおぬしの役目であろう」
本当は分かっていた。
上洛命令を無視したという名目で、伊勢国を併呑した。南近江の六角氏をどうにかするためだったとはいえ、その後の畿内統一までは勢い任せだった。望んでいないから馴染まない。同盟相手だからと、同じように上洛命令に従わない信玄を見逃している。
俺の心は矛盾だらけだ。
だから胸糞悪くて、イライラが収まらない。
「甘さを捨てよ、うつけ殿」
「だが、ことわ」
「捨てられぬなら、捨てさせるのみ」
この日、織田と武田の同盟は破棄された。
必然的に奇妙丸と松姫との縁談もなくなり、両国間の交流も途絶える。国境付近に留まっていた山県・秋山軍は俺たちが岩村城へ戻るのを見届けてから、それぞれの城へ戻っていった。
********************
※筆記用具と酒徳利と武装はサバイバルセットに含まれません
秋山虎繁...史実では、お艶の方の再婚相手になる人。
信濃国に所領を持ち、武田二十四将の一人に数えられる。本編では信純と因縁があったりなかったりするかもしれない
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