174. おんな城主 岩村殿

 俺はすぐさま信治、信興に早馬を飛ばした。

 尾張の弟たちに連絡を取ることにしたのは、これはもう東美濃だけの問題じゃないと判断したからだ。武田軍が本格的に動いたとすれば、各地に潜伏している反勢力が動き出してもおかしくない。信玄のことだから、家臣の勝手な行動であるとすっとぼける可能性もあるが。

 そうだったらいいなー、という願望も未だある。

 誰が好き好んで戦をしたいものか。

 そういう意味で龍興の変貌は歓迎すべきことだった。すっかり長島に根付いている長益には、奈江の安全確保をくれぐれも怠らぬように頼んでおく。伊勢国内はまだまだ不安定だが、意外にも三七が上手くやっているようだ。

 具房は何故か、長利を師と仰いでいるらしい。

 そんなに痩せたのが嬉しかったんだろうか。フラフープを広めたいという要望があったので、投げ輪の遊びを教えてみた。やり方は単純なのに、なかなか奥が深いと人気だ。

 茶筅丸は早く元服したい、と言ってきている。

「平和なんだか、そうじゃないんだか分からんな……」

 遠く離れていても、こうして声が届くのは嬉しいことだ。

 メールや携帯電話が懐かしく思ったりもしたが、家族から直筆の文をもらうのは感慨もひとしおだ。彼らの肉声(幻聴)による再生も余裕。妄想万歳。

 お市からは長政が最近悩んでいること、お五徳からは義父・家康が何やら仕掛けようとしているらしいことを報告してきた。織田の女たちに限らず、戦国時代を生きる女たちはしたたかだ。下手に隠そうとしても悟られる。

 気付いていないふりを、しているだけだ。

 考えている間に日が暮れて、夜が明けてしまう。

 帰蝶と二人だけの食事は結婚して間もない頃を思い出させた。蜜月の前、まだ二人の関係がちょっとぎこちなかった頃。嫁の顔をおかずに、しょっぱいだけの食卓を囲んでいた。

 一汁三菜揃った食事は、豊かさの証である。

 豆腐の味噌汁に胡麻の和え物、焼き魚、根菜のごった煮。人参や牛蒡のように薬扱いされていた食材を加えることで、随分と彩りが良くなった。絹ごし豆腐の完成はまだ先だが、無性に食べたくなる麻婆豆腐のために明の調理人を招きたいくらいだ。

 食への欲求は留まるところを知らない。

「今日は朝から豪華ね」

「お濃、すまん。また城を空けることになった」

「迎えに行くの?」

 朝餉をかき込む手が止まる。

 そういえば、帰蝶には独自の情報網があるんだった。

 奇妙丸の遊び相手である平八は、昨日から岐阜城で療養中だ。お艶が生まれても間もない坊丸と共に岩村城へ向かったことだって、東美濃で何か起きていると考えるのが自然である。

 吉乃は分からなくても聞かない。

 奈江は勢いで問い詰めてくることもあるが、だいたい顔に出る。

 そして帰蝶は大まかなことを把握した上で俺に確かめることもなく、できる範囲で自発的に動いてくれる。あくまでも後方支援に徹するから、俺が気付くのは全て終わってからだった。

 手を伸ばし、彼女の頭を撫でる。

「な、何?」

「よしよし、お濃は可愛いなあ」

「誤魔化さないでちょうだい」

 そう言いながらも、手を振り払うことはない。

 ほんの少しだけ緩んだ目元が赤く見えるのは、俺の願望かな。

「大丈夫だ、奇妙丸は自分で戻ってくる。美濃の蝮と、尾張の虎の血を引いているんだぞ。この程度のことで手を貸していたら、茶筅や三七がむくれる」

「悪運の強い、大うつけの血も引いているわ」

「だからさ、きっつい仕置きをしてやれ。母親の特権だ」

「まあ」

 目を見開く帰蝶に笑い、軽く唇を合わせた。

 味噌の味がした。

 初キスはいつだったかなー、なんて女々しいことを考えてしまうのは本調子じゃないせいだ。ここしばらくは帰蝶を抱き枕にして寝たので、体は元気になった。ついでに子供も、と思うのは欲張りだな。こればっかりは授かりものだ。

 それこそ俺の子供とその子供が同年代、ということもありうるだろう。

「あなた」

 帰蝶の柔らかな手に、くぐもった声を絞る。

 子供はいつか巣立っていく。乱世だから一般基準よりも早まっただけで、孫はきっと可愛いはずなのだ。隠居したら、孫たちに「おじいちゃん」と呼ばれる夢は捨てていない。

 なんかこう、色々と飲み込めない感情があるだけだ。

 孫は可愛い。娘の婿は憎い。息子の嫁はかわいい、たぶん。

「行ってくる」

 食事を終え、支度を済ませ、帰蝶を抱きしめる。

 俺が本当は「どこ」へ行こうとしているのかを知れば、彼女は止めるに違いない。どこまで情報を掴んでいるかにもよるが、ここ数年で織田家は急成長しすぎた。俺の立場は以前とは比べ物にならないほど影響力を持っている。

 それくらい、自覚している。分かっている。

 だから俺の、我儘だ。

「ご帰還をお待ちしております。どうか、無事で」

「ああ」

 やっぱり気付かれてるんじゃねえか。

 小さな疑惑は互いに言わないまま、繋いでいた手を放した。出立する時はよく羽織っていた女物の打掛はない。門前には、草袴に軽武装の親衛隊が待っていた。俺にも小姓が装着させようとするが、無視して馬に乗る。

「と、殿……」

「間違えるな、松千代。戦をしに行くわけじゃねえ」

「ですが」

「くどい。異論があるなら、城に残れ」

 息子と同じくらいの少年が涙を溜める様に、罪悪感が募る。

 たった一人で突っ込んでいく自由は、とっくに奪われた。前科があるから、無理を通せない。こいつらを振り切って(あるいはこっそりと)飛び出していけば、総出で探し回られるのは目に見えていた。

 俺は存在こそチートだが、武力で無双はできない。

 未来の知識や常識があるだけで、大して頭がいいわけでもない。されど俺こそが、ノブナガ。アイアム信長。遠い未来にそう伝えられたように、織田と武田が戦うのなら戦おう。

 その前に虎の真意を確かめてやる。


**********


 やっぱり素通りするわけにはいかないよな。

 ってなわけで俺たちは今、岩村城へ来ておりまーす。城主だった遠山さんを追い出して、織田弾正忠家の血を引く坊丸が次期当主……ってのはさすがに幼すぎるので、親父殿の妹・お艶の方が後見人として現当主の座についておりまーす。

「って、うおおおい!!」

 マジでか。事後報告かよ、信純め。

 うちの嫁たちと違い、お艶には政の知識がない。俺を出迎えた彼女は疲労のひの字も見当たらないことからして、そっち方面は信純たちが管理しているのだろう。まあ、城主の仕事をきっちりこなしている人間の方が少ない時代だ。

 現代も似たようなもんだって? 知るか、そんなの。

「じー、じー」

 夏もまだなのにセミが鳴いている。

 お艶の傍には、当然のように信純がいた。

 任せていた犬山城は、留守居役として従兄弟の信昌が詰めている。そのまま城主に据えてしまってもいいかもしれない。どうせコイツは、愛する妻・お艶から長く離れられないのだ。

「じーじー、じー」

 それにしても、一体何なんだ全く。

 季節外れのセミが煩いと思っているのは俺だけらしい。

 お艶は平然としているし、信純の奴は体を丸めてプルプル震えているし、まさかのツッコミ待ちか。降りていって思いっきり叩くべきか? 彼らの後ろには若い女が赤ん坊を抱えている。暴れたり、騒いだりしないだけ大人しくていい子だとは思う。

 キラキラした大きな目で、俺を見つめていた。

「じー!」

「……こっち見んな」

「あら、失礼ね。お爺様が同じだと教えただけよ」

「ぶはっ」

 しれっと答えるお艶の横で、信純がとうとう噴き出した。

 確かに間違っちゃあいない。

 親同士が兄妹だから、俺と坊丸は30も離れた従兄弟になる。信光叔父貴の遺児である信成たちとも従兄弟だ。そして信広の娘・伊予は姪である。ほとんど会わないままに丹羽家へ嫁入りしてしまったので、長秀の嫁というイメージが強かった。

 頭では理解できるが、何とも微妙な気分だった。

 出産祝いを贈った時には「めでたいなあ」くらいにしか思わなかったのに不思議だ。そして坊丸はまだ「じー、じー」言っている。無視されているのが気に食わないらしい。

「爺じゃねえ、叔父さんだ」

「お、おー? おー」

「おじさん」

 坊丸セミが黙る。

 仮にも織田家の血を引く者だ。信純の子であるなら、きっと頭もいい。幼いながらに知性が感じられそうな目を見つめ、俺はゆっくりと繰り返した。

「お、じ、さ、ん」

「…………」

「言ってみろ、坊丸。おーじーさーん」

「おじい!」

「違うっ」

 期待して力が入っていた分、思いっきり崩れ落ちた。

 坊丸は坊丸で、自信満々に言い放ったものを否定されて不満げである。信純はまた爆笑しているし、お艶は慈母の微笑みで息子を撫でている。

「いいよもう、爺で。そのうち爺になるし」

 お艶が片眉を上げた。

「さすがに早すぎるでしょう?」

「え。まさか奇妙丸様が……」

「それはない」

「そっか、良かった。松姫に子が生まれたら、人質として利用されかねないからねえ。厄介事の種は少ないに限るよ」

「馬鹿息子と愉快な仲間たちはどこだ」

「会うの? 今?」

 夫婦で不思議そうな顔をしないでほしい。

 坊丸も親の様子を見て真似っこしては、乳母らしき女の膝から落っこちそうになっていた。お艶もたぶん、分かっていない。信純は相変わらず、俺の思考を読むのが上手かった。

 ここに奇妙丸たちがいないのはおかしい。

 俺がわざわざ言い出す前に連れてくるべきなのだ。そうしなかった理由は一つしかない。馬鹿息子どもに一発くれてやる前に、どうしても――。

「やっぱり行くんだね、三郎殿」

 ため息交じりに呟く信純を、俺はじろりと睨む。

「今更止めんなよ、又六郎」

「止めないよ。ついていくけど」

「はあ!?」

「だって、ねえ。三郎殿は、誰かが見張っていないと危ないから。尻拭いはしないとか言っておきながら、結局は放っておけないところとか結構気に入っているんだよ」

「歩く火薬庫みたいに言うな。後半が余計だ」

「点火よーい」

「しねえよ?!」

「相変わらず仲がいいんだから。あっちへ行きましょ、坊丸」

 さっさと出ていくお艶たちの背を見送る。

 乳母を受けた方も人妻なのだろうが、お艶の色香がえらいことになっていた。ふりふりと揺れる美尻はさながら男を誘う商売女のそれだ。本人に自覚がないのが厄介である。嫁以外は抱かない主義の俺でも、ついつい目が追いかけてしまう。

「AV女優」

「殴っていいかな?」

「ダメ、それアカンやつ! 斬れちゃうから、スパッといくから!!」

「大丈夫、優しくする」

「アッ――!!!」

 前略。愛妻家が多いのは佳きことかな。

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