【挿話】 太郎と奇妙丸

 その寺には広い庭があった。

 石で整えられた川には魚が泳ぎ、山を模した小さな丘には可憐な花が咲く。きちんと手入れされ、枝ぶりも整えられているであろう木々がぐるりと囲む。

 自然でありながら、人為的な景色に一人の僧侶がやってきた。

 川の淵に佇んでいた少年の隣に並ぶ。

「お待たせいたしました、奇妙丸様」

「それ、くすぐったいから止めてください。太郎殿」

籌山じゅざんで結構ですよ」

 穏やかな笑顔で告げられて、奇妙丸は眉を寄せた。

「私は、嫌だ。そんな名前……」

「父を謀略に落とそうとしたのは事実。そして負けたのも、本当のことです。虎昌や皆を死なせた罪もまた、一生消えません。ああ、そんな顔をしないでください。あなたが背負うことではないのですから」

「太郎殿、私は美濃へ帰らねばなりません」

「そうですか」

「だから一緒に……どうか! 私の支えとなって、いただけませんか? このままでは織田と武田の同盟関係は崩れ、戦が始まってしまいます。そうなる前に」

「奇妙丸様」

「私は未熟です。まだまだ学ばねばならないことは多い。でも、それでも時間がないんです。私は織田家嫡男として、父の元へ帰らねばなりません」

 奇妙丸は必死だった。

 甲斐国へ来て知ったのは、味方の重要性だ。譜代家臣は世代交代してもついてくる者が多い反面、家中への影響力も強い。上手くまとめきれずに謀反を起こされたり、離反されたりする場合もある。だから自分にだけ忠誠を誓ってくれる者が必要になるのだ。

 心から信頼できる存在が欲しかった。

 どんなことがあっても、奇妙丸についてきてくれる甚九郎たちのような側近がいい。信長は自らの側近に生まれた子供たちを宛がうつもりだろう。しかし平八の義兄・松千代のように、幼くとも信長へ仕えたいと思う者もいる。

 太郎義信は、あの上杉輝虎とも戦った経験のある武将だ。

 桶狭間の戦い後、今川領への侵攻を決めた信玄と意見を違えたために廃嫡となった。義信の味方が少なかったせいで、謀略に負けたのだ。傳役をはじめとする側近を失い、地位を奪われ、信濃東光寺に幽閉されてしまった。謀反を企てたためだと聞いた。

 甲斐・信濃をうろついている時、この寺へ立ち寄った。

 偶然ではない。川中島の激戦を知る若武者を見てみたいと思ったからだ。そして義信が廃嫡・出家にまで追い込まれた遠因、桶狭間で義元を討ったのは奇妙丸の父だ。因縁めいたものを感じずにはいられなかった。

 どんな人物かと思えば、穏やかに微笑む青年僧だった。

 不遇の身の上であっても家族を大事に想い、民を慈しみ、国を守らんとする志は消えていなかったあ。年の離れた兄がいたら、こんな感じだったのかもしれない。そう思った奇妙丸は監視の目を盗んで、毎日通った。

「図々しい願いだと言うのは分かっています」

「奇妙丸様」

「どうか、私を支えてください。お願いします!」

「……虎の尾を踏むことになりますよ」

「かまいません」

 もしも奇妙丸のせいで戦が始まるとしても――。

 ふと、松姫の面影が脳裏をかすめた。よくできた人形としか思えなかった彼女は最近、ようやっと人間らしく思えてきたところだ。しかし美濃への旅路は楽なものではない。ろくに外へ出たことのない彼女には到底耐えられそうもなかった。

 ここに、置いていくしかない。

 そうしたらきっと、二度と会えない。

 ちりっと胸の奥で痛みを覚えた。妻として迎えるはずの相手であり、妻として見ることは難しいだろうと思っていた相手でもある。ただ、その涙を見るのは少しだけ辛い。

「奇妙丸様。そのように悩むくらいなら、選ぶべきではありません。私はいいのです。遠くない未来に死ぬとしても、私のために死んだ者たちを弔うことはできました。もはや今川家にも、武田家にも味方する気はありません」

「私は織田の者です!」

 そう叫んで、義信の手を取った。

 冷たい指を額を押しつける。相手の慌てる気配を感じたが、どこかでこうやって敬意を示す場面があったのだ。奇妙丸は織田家の嫡男だから、膝をつくことはできない。義信を主君として仰ぎたいのではなく、家臣に迎えたいのだ。

「我が父・信長は民を慈しみ、家臣を重んじ、家族を愛する男です。私はそんな父を誇りに思うし、そういう男になりたいと思っています。信玄殿が間違っていると今も思うのなら、私と共に来てください。もう一度、戦う覚悟を――…っ」

 その時、ぞわっと悪寒が走った。

 木々の間から、平八と勝三が現れる。

「若様っ」

「大変だ、全部バレた!」

「ばれたとは、どういうことですか?」

「説明は後です。勝三、馬と防具を。平八は、太郎殿を縛るんだ」

「え!? は、はい」

 程なくして半兵衛と利治が数人を引きつれてきた。

 全員が険しい顔をしていることから、状況がかなり切迫していることが窺える。奇妙丸は手早く装備を整え、愛馬に跨った。平八は何度も謝りながら、慣れた手つきで義信を馬へくくりつけている。やけに木々がざわめいていた。

 利治がくれた刀を、腰に差す。

「囲まれております」

「武装しているのか?」

「はい。率いているのは山県三郎兵衛尉、飯富の赤備え数百です」

 それを聞いた義信が顔を青ざめさせた。

 三郎兵衛尉の諱は昌景といい、飯富虎昌の弟だ。義信事件の後、山県に改姓した。義信たちの計画を信玄に密告したのも昌景である。当時の状況は想像するしかできないが、奇妙丸のことも昌景が密告したのかもしれない。

 利治たちは甲斐国の内情を探り、土地の改善に努めてきた。

 少しでも国内が潤えば、他国への侵略する意義が薄れていく。そう思っていたのだが、事態は悪い方向へ動き出してしまった。信長ならもっと、と考えてしまう頭を軽く振る。

 美濃へ、帰らねば。

 その気持ちは一層強くなった。

「あ、そうだ。若様」

「半兵衛、何か気になることでも?」

「うん、気になるっていうか。若様がそうしたいっていうなら、寄り道するくらいの余裕はなくもないよって、言いたかっただけ」

 勝三が、平八が、馬上の奇妙丸を見つめる。

 利治は忙しそうにしていたが、一瞬だけ目が合った時には微笑んでいた。どんな選択をしても、どんな無茶ぶりでもかまわない、と言ってくれたような気がした。半兵衛に問いかけられるまでは迷わなかったのに、彼女の泣き顔がちらつく。

「若様、急ぎましょう」

「甚九郎」

「何もかもを手にすることは、不可能です」

「そう、だな」

 気を失っているらしい義信を見やり、噛みしめるように呟いた。

 己はちっぽけな存在で、この両手で掴めるものはほんの僅かだ。その僅かなものですら、気を付けていないと隙間から零れて落ちる。

 一度、きつく目を閉じた。

「……ごめん、松姫」

 恨んでもいい。憎んでもいい。

 きっと美濃へ帰ったら、岐阜城での謹慎を命じられるだろう。謹慎が明けたら、元服する。そして松姫ではない誰かを、正室として迎え入れることになる。

 奇妙丸は武田家のために、何かしたかった。

 それは織田家のためにもなると思っていた。

 だが周囲の考えは違っていた。やり方が間違っていたのかもしれないし、そもそも義信を助けようとした時点で敵意を抱かれていたのかもしれない。信玄たちの考えていることは、もう奇妙丸には分からない。

 今はとにかく、生きて戻ること。

 義信を信長に会わせ、織田家臣として認めてもらうこと。

 かっと目を見開いた。

「行くぞ! 包囲を突破し、ここから脱出するっ」

「おおっ」

「半兵衛、先導役は任せる。利治と甚九郎は露払いを」

「はいはーい、お任せあれ」

「承知しました」

「若様はくれぐれも、前に出すぎませぬよう」

「俺たちがいるんだから平気だって。なあ、於八」

「う、うん」

 心強い返事を受け、奇妙丸は馬の腹を蹴る。

 まさかの正面突破に驚きを隠せなかったが、これも半兵衛の策に違いない。たちまち赤備えの兵らが見えてくる。彼らも驚き、呆気にとられているようだ。

「ひゃーっははあ! 轢き殺されるか、斬られるか、好きな方を選ばせてやんぜ!!」

「向かってくるなら……容赦は、しないっ」

 勝三と平八につられて、奇妙丸も腰のものに手をやろうとした。

「若様!」

「……っ」

「抜いてはなりませぬ!」

 甚九郎の声に、慌てて手綱を握り直す。

 あちらが殺る気であったとしても、奇妙丸は手出しできない。表向きは同盟関係が維持されているため、家臣同士のいざこざで片付ける必要があった。それでも囲みを突破した後、山県軍は追手として国境付近へ迫ってくるだろう。

 己の甘さが悔しい。

 情けない。口惜しい。己惚れていた過去の己が憎い。

「若君、こちらへ!」

 見知らぬ男が呼んでいる。

 だが半兵衛が迷わず進路を変更したので、奇妙丸たちも後に続いた。

 熊の毛皮を羽織った男は、一見して農民のような男たちを何人も従えている。全員がお面で顔を隠しており、槍や鉄砲などを携えていた。異様な風体にもかかわらず、粗野な印象は受けない。どこか統率された軍隊を思わせる一団の中で、毛皮の男が進み出た。

「いやはや、人生は先が読めぬから面白い! 人攫いの片棒を担ぐことになろうとは、さすがのわしも想定外でござる」

「……お前は何者だ」

「いやいや、名乗るほどの者では」

 奇妙丸がじーっと見つめるので、根負けしたように渋々名乗った。

「信濃の武藤喜兵衛と申す」

「そうか、私は」

「あいや! いやいや、待たれよ。これでも武田家臣の末席に名を連ねる者でして、うっかり通過させしまった若衆の素性を報告せねばなりません。ええ、織田の若様の顔など存じ上げませんので報告しようもありませんがね」

「ならば、私も忘れよう。物好きながいたことは、父に報告する」

「はは、ありがたき幸せ」

 頭を下げる男に倣って、配下の者たちも頭を下げる。

 少数で強引に突破してきたものの、山県軍はすぐ背後に迫ってきていた。蹄の音に反応して、毛皮の男たちが殺気立つ。それぞれの得物を構えた先は、追手の来る方角だ。

 奇妙丸はきゅっと唇を引き結んだ。

 礼は言わぬ。名乗ることも許されぬ。

 信濃といえば、甲斐国の北だ。大半が武田領となっているが、国人衆の全てが信玄に従っているわけではない。北の国境は上杉領、と接している。そのため、何度となく戦火に見舞われてきた。武藤喜兵衛と名乗った男も、信濃国人衆の一人かもしれない。

「ご武運を」

 喜兵衛の笑みを、白煙がおぼろにした。

 追手と奇妙丸たちを切り離すかのように、銃弾が走る。音に怯えた馬が嘶き、それを宥める間もなく再び走り出した。ひたすらに美濃へ、西へと――。





********************

武藤喜兵衛の正体は後程…



武田家臣について...

太郎義信(嫡男)の傳役が飯富虎昌おぶとらまさ、その弟(または甥)とされるのが源四郎昌景げんしろうまさかげ

飯富家は武田譜代家臣で、虎昌は宿老中の宿老だったという

昌景は信玄の近習から使番に出世し、多くの武勲を立てている


飯富の赤備え...

虎昌の部隊は赤い武装で統一されており、その武勇は武田軍団の中でも有名だった。虎昌の死後は昌景が引継ぎ、更に真田幸村や井伊直政に受け継がれていった

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