172. 於次丸と石松丸

 京での雑事を終え、美濃は岐阜城へと舞い戻った。

 最近は護衛が、ご威光がと周囲が鬱陶しくて嫌になる。

 護衛が雨墨だけでも無事に帰ってきたというのに全く信用がない。いや、連中の言いたいことも分かる。将軍家の後ろ盾となった今、織田家は各方面から注目される戦国大名となった。とりあえず大人しくしている畿内の西側よりも、美濃・尾張の周辺が少しザワついていると聞いた。それと紀伊国の畠山氏もか。家族旅行を兼ねた伊勢神宮、熊野三山への参拝で警戒させてしまったらしい。

 可能性だけを見れば、なんとなーく包囲網の構図が見える。

 六角親子にトドメを刺せない長政は、やはり父親をどうにかできないのだろう。俺にできないことをやれとは言えないので、朝倉義景には九十九茄子を贈ってみた。

「もったいない。ああ、もったいない」

 勿体ないお化けになった細川様が、義景の書状を持ち帰ったのが初夏のこと。

 義景にとって叔父にあたる宗滴が所有していたのなら、朝倉家に戻すのが正しい。あるべきものはあるべき場所に、だ。松永弾正は一千貫という大金を叩いて買ったらしいが、本来の所有者に戻したいという俺の考えに賛同してくれた。

「本当に信長様は、変わり者ですよ」

「まだ言ってんのかよ、藤孝。いいじゃねえか、これで包囲網の一角は崩れた」

「包囲網、ですか」

 一通り説明したのに、細川様は半信半疑だ。

 阿波在住の三好残党がしつこく反勢力の糾合を呼び掛けている。

 明智光秀は「ほら見たことか」と鼻で笑い、義昭に諫められていた。そこでまた俺を睨んで、義昭に……という悪循環も一種の通過儀礼だ。慣れてくると、大して痛痒も感じない。

 それが腹立たしいのか、上洛する度に毎日訪問を受ける。

 実は暇なのか、明智十兵衛。

 顕如や日乗上人がいる時は、彼らに相手をさせている。きっと友達がいなくて喋りたいだけなのだ、できるだけ相手をしてやってくれと義昭が頼んでくるから仕方ない。湯を張った風呂に驚いて処刑釜茹でされると青ざめた後、のぼせて倒れた。

 明智十兵衛光秀、なかなかに残念な男である。

 嫁はいるのかと聞いたら、とんでもない醜女だから見せられないと言われた。相変わらず俺の好色なイメージは拭えていないらしい。今も昔も、生まれる前から数えたって抱いた女は三人の嫁だけである。

 南美濃の佐藤紀伊守の娘、八重緑はお五徳の侍女にした。

 もちろん、手は付けていない。

 お五徳の嫁入りに同行していったはずだが、思いっきり振り回されているんだろうなあ。ちょっと悪いことをした、と思わなくもない。三河国で良人イイヒトを見つけられたらいい。

 さて、話を戻そう。

 地図を広げて外交問題について悩んでいるところだ。

 細川様が戻ってくるのに合わせて、信純と尚清を呼んでおいた。各地に散っている側近たちも一度集めて、今後の方針を確認する必要がある。最悪、畿内から手を引くことになってもいい。美濃国と尾張国の平穏を守るのが最優先事項だ。

「いい加減、奇妙丸を呼び戻すぞ。半兵衛に問い質したいことがある。書状じゃあ、適当に逃げられそうなんでな」

「何をやらかしたのさ、竹中殿」

「まだ確証がない」

「……まあいいけど。遠山家の件は、話がついたよ。お艶様の子供を遠山家の養子に入れて、家督を継がせる。織田本家の血を引く子供が岩村城主になるわけだから、東の抑えは心配しなくていい」

「成程。確かにそれなら――」

「ちょっと待て。又六郎、正気か?」

「やだなあ、こんなことで冗談言わないよ。狂ってもいない。お艶様の承諾も得ているんだ。三郎殿は、大事な叔母上の意志を無下にしないよね」

 てめえが上手く言い包めたんだろうが。

 世間一般的な認識としては信純がお艶にベタ惚れして、俺に強請ったことになっている。だが実際はお艶が信純にベタ惚れなのだ。織田家にとって必要なことだと説得されれば、彼女はあっさり頷く。甲斐国に一度攫われてから、多少の危険では動じなくなってしまった。

 そして信純は実力以上の成果を得るために、愛する者を囮にするつもりだ。

 ここでド阿呆がと怒鳴りつければ、織田の結束を懸念する者が出てきてしまう。

 大きく息を吸い込み、そのまま吐き出した。

「景任は」

「隠棲してもらう。あ、お艶様の子供は坊丸っていうんだ。さすがにまだ幼すぎるし、後見人を誰か用意してほしいんだけど……、やっぱり図々しいお願いかなあ。ああ、誰もいない場合はお艶様が女城主として岩村城に」

「信純殿」

「何かな、細川兵部殿」

「武田の西上作戦、現実味を帯びてきたとお考えでしょうか」

「武田軍が、という意味なら合っている。武田家重臣の山県昌景と秋山虎繁が西へ動く兆しあり、との報告を受けた。確かな筋からの情報だよ。まあ、これが不思議なんだけどね。信玄公は上洛の意志どころか、東美濃へ侵攻する命令なんて出していないんだよ」

 思わぬ情報に、尚清と細川様が顔を見合わせる。

 俺は俺で、熱くなりかけた頭の中が冷えていくのを感じた。

 信玄主導で行われる進軍なら、まだ交渉の余地はある。同盟関係を踏み越えてでも来るのなら、信玄にも覚悟があるということだ。甲斐国へ物資の輸送は続いており、織田家との関係悪化は自分の首を絞めるも同然。

「分かってねえのは家臣どもか」

「織田家に一泡吹かせて、諏訪御料人が生んだ四郎勝頼を担ぎ上げる算段らしい。まあ、甲斐国は甲賀忍も多いから。六角残党と密書でも交わしているんだろうね」

「殿! 若様のお命が危のうございますっ」

「叫ばなくても分かっている。尚清、三河国へ急使を出せ」

「はっ、承知しま…………三河、ですか?」

「駿河は武田領になったと聞いたが、遠江国がどうなったか知りたい。徳川領になっているなら良し。そうじゃない場合は――」

「早馬にて確かめさせましょう」

 最近、情報収集が杜撰になってきた気がする。

 範囲が広すぎるせいもあるが、多忙を理由にしちゃダメだな。大きな動きに慣れすぎて、小さな動きを見落としがちになっている。家臣団が良く働いてくれているから、織田家は何とかやれている。感謝はどれだけしてもし足りないくらいだ。

「殿」

「なんだ、藤孝」

「但馬攻めを進言いたします」

「話を聞いていたか? 今は武田に対する防衛線を」

「織田家が警戒態勢を敷いたと分かれば、若様のお立場はより難しくなりましょう。あくまでも友好関係を保ち、殿がそれを信じていると思わせるべきです」

「播磨や因幡の連中が黙ってねえぞ」

「その時はその時でしょう」

「だがな」

 涼しい顔の細川様に言い募ろうとした時、利之が駆け込んできた。

 俺と目が合う。晴れやかな笑顔で、大きく頷いた。

「無事にお生まれになりました!」

「よし!!」

 思わず拳を固め、立ち上がる。

 なんとなく一同を振り返ってみたが、誰もが微笑ましそうな顔になっていた。去年の暮れから落ち着かなかった理由を知っているだけに、俺の浮かれた様子がおかしいのだろう。

 何人生まれても、子供は可愛い。

 途中で何人かとぶつかりそうになりながら、大股で歩いていく。今回はかなり安定していたとはいえ、いつだって出産は真剣勝負だ。とうとう駆け足になって、その部屋に飛び込んだ。

「奈江!」

「あら、珍しい。お早いお着きですこと」

「皮肉か」

「だって三七の時も、お冬の時も」

「おぎゃあっ、おぎゃあっ」

 奈江の愚痴を遮って、元気な声が聞こえてきた。

 出産に協力したのだろう。玉の汗を浮かべた侍女が、誇らしげに赤ん坊を抱えている。男だと言われても、顔を真っ赤にして泣きわめく様子からは判別がつかない。何人の赤ん坊を見ても、そういう目利きだけは養われないようだ。

 ぷっくり膨らんだ頬に触れようとしたら、手を握られた。

 加減が効かないのか、思ったよりも力が強い。

「於次だ」

「え?」

「この子は於次丸と名付ける。奈江が何か思いついていたのなら、それでもかまわないが」

「いいえ、いいえ……! 生まれて初めて呼ばれた名だもの。ええ! それにしましょう、それがいいわ!」

「そ、そうか」

 出産後とは思えない元気な様子に、ちょっと驚く。

「ふふっ、吉乃やお濃様に自慢できるわあ」

「止めてくれ」

「お濃様は、あたしたちには優しいの。おあいにくさまっ」

「おぎゃああっ、ぎゃああんっ」

「ご生母様も、御子も本当に元気で何よりです」

「おちよもな」

 今回も産婆を務めたおちよが、ニッと笑う。

 白髪だらけの皺だらけの彼女は、老いてますます快活だ。妻を外へ出したがらない恒興を叱り飛ばすため、畿内まで押しかけていったのは去年の話である。その時に、ちゃっかり嫁の荒尾も連れていったのだから感心する。

 それで側近の妻たちも皆、夫の慰労に向かった。

「吉法師様の御子は、みーんな見てさしあげますよ。さあさ、今日はここまでです。お鍋の方も休まなくてはなりませぬゆえ」

「分かった、分かった」

 押されるまま部屋から出る。

 そこには、目を真っ赤にした秀吉が待っていた。

「酷え顔だな」

「生まれました、信長様! とうとうわしにも子供が……っ、ねねの子供が!」

 それ以上は言葉にならなくて、泣き崩れる。

 震える肩をぽんぽん、と叩いた。

 おねねは秀吉が惚れこんで求めた恋女房だが、婚儀を挙げてから間もなく死産したという。それから子宝に恵まれず、奥様戦隊の中でも一人だけ子がいない状況は辛かったに違いない。奈江とほぼ同時期に分かった懐妊の報にも、秀吉はあまり喜ばなかった。

 また死産、あるいは流産するのではと危惧したのだ。

 帰蝶からは養子縁組の話も出ていた。

 俺に新たな男児が生まれたなら、その子を秀吉とねねの子供として育てさせたらどうかと。長く子に恵まれなかった苦悩は、帰蝶が一番よく分かっている。

 俺自身、よく仕えてくれている秀吉ならと思っていた。

「名はもう決めたのか?」

「石松、と」

「プロボクサーか、渡世人みたいな名前だな」

「へ?」

「安定するまでは奈江と共に、岐阜城で生活しろ。できる限りの融通はきかせてやる」

「あ、ありがとうございます!! ねね! ねねーっ」

 嫁の名を連呼しながら、走っていった。

 俺は俺で、帰蝶を探すことにする。吉乃のことも頭に浮かんだが、帰蝶はなかなか子ができにくい体質なのかもしれない。奇妙丸が生まれるまでも長かった。そういう女もいるのだと慰めてみても、二人目を妊娠できない辛さは彼女の中にある。

 ねねが出産した今、帰蝶は何を考えているのだろう。

「いや、単純に俺が会いたいだけだな」

 一人で苦笑して、鳥の舞う空を見上げた。





**********

ノブナガの子は現在、四男二女

生母・帰蝶→奇妙丸(長男)

生母・吉乃→茶筅丸(次男)、お五徳(長女)

生母・奈江→三七(三男)、お冬(次女)、於次丸(四男)


奇妙丸は出奔中(許嫁は武田信玄の娘・松姫だが破談寸前)

茶筅丸は北畠具房の養子に入り、許嫁はお雪

三七は神戸具盛の養子に入り、許嫁は鈴与

お五徳は松平家康の子・信康に嫁ぐ

お冬と於次丸が現在フリー

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る