165. 箸を持つ手は左
俺はきっと、精神的に限界だったのかもしれない。
「思えば遠くへ来たものだ……」
川を越え、山を越えて、行けども行けども見覚えのない風景。
どうやら知らない土地へ来てしまったらしい。
疾駆から並足、とうとう足を止めてしまった馬が鼻を鳴らす。もう走らないのかと言いたげな目に、桶狭間を共に駆けた愛馬を思い出した。彼女が生んだ最後の雌馬で、奇妙丸の愛馬・颯斗の妹にあたる。
薄茶色の首を撫でてやれば、気持ちよさそうに頭を揺らした。
「どうしよう」
情けない声に、馬がきょとんとする。
東へ向かったつもりで、西へ来てしまったと思われる。だって山があんなに低い。城の配置がおかしい。京から出て右方向へ進路をとったところまでは覚えている。
「ん?」
何かが引っかかった。
首を傾げて、じっと手を見る。箸を持つ手は――。
「南向いて右折したら、西じゃねえかああぁ!!」
突然吠えた俺にびっくりして、付近の農民たちが逃げていく。
走れども走れども琵琶湖が現れないので、南へ寄りすぎたかと思っていたのだ。先代の馬はとても賢くて、俺が指示しなくても目的地まで連れて行ってくれた。この若い馬は二度の上洛を経験しているが、あまり物覚えが良くない。代わりに恐ろしく神経が図太い。俺が叫んだり、頭を掻きむしるなどの奇行を繰り返していても、平然と道端の草を食んでいる。
「西ってことは、何だ? 播磨か……、因幡か?」
一躍有名人になったからと、宿を避けたのも不味かった。
今更ながらに道路標識や案内板の有用性を痛感する。尾張国内で試験的に設置しようと思って結局後回しにした事業だ。まずは五畿七道から。そうなると将軍である義昭に提案するべきだが、果たして実現するだろうか。
地図ですら、必要な区域だけに限定されているのだ。
未だに地図情報は機密扱いであり、他領地の詳細図を持っているだけで侵攻の意志を疑われる。地球儀を見せて、こんなにちっちゃいんだぞと主張すればいいのか。いや、グローバルな話すぎて理解してもらえないかもしれない。ご近所感覚で朝鮮出兵したんじゃないだろうな、秀吉。
「とりあえず街道に戻ろう」
ぽくぽくと馬を進めて、前方に関所を見つける。
関税を徴収する地点としか考えていなかったが、国内外の出入りをチェックする大事な場所だ。己の格好を見てみると、すっかり埃まみれの汚れた格好である。馬には手綱と鞍がついているだけだ。
しばらく考えて、俺は馬から降りた。
手綱を引いて歩いていると、関所の兵士が鋭い声を上げる。
「おい、止まれ!」
「なんだよ、お役人さん。何か用か?」
「やけに上等な馬を連れているな。どこから来て、どこへ向かうつもりだ」
「あっちから来て、そっちへ向かう予定」
「ふざけているのか!」
唾を飛ばして怒鳴る兵士に、俺は肩を竦めた。
ここはどこ? 貴様はだあれ? 俺、ノブナガ。
地名が分からんのだから仕方ない。ということを馬鹿正直に答えたら何されるか見当もつかないし、来た道を戻って仕事漬けになるのも嫌だ。そもそも俺は畿内統一なんかしたくなかったし、将軍家の後ろ盾になる予定もなかった。
やるぞと宣言したのは、引き下がれなくなったからだ。
この時代は畿内統一で天下人になれるらしいから、沢彦との約定も果たしたことになるだろう。ついでに義昭は俺に好意的だし、山科卿や公家衆とも面識が出来た。腹のうちはともかく、今の織田家に表立って喧嘩を売ろうとする奴はいない。
あ、間違い。結構いるわ、あちこちに。
放逐するだけで命まで取らなかったからなあ。それから何もせずに降伏したり、戦で負けて降伏したりした奴らも、状況が変わったら反旗を翻す。家を守るために織田へ降ったのだから、その織田が駄目だと分かったら他の味方をする。
誠実さには程遠いが、一族郎党まとめて死ぬよりはマシだ。
「貴様、何を持っている!?」
「んお? ああ、これか」
考え事をする時の癖で顎をさすっていたら、懐の印籠が顔を出していた。
「無文字?」
「諸行無常、の無だ。無我の境地でもいいぞ」
「坊主崩れか」
「印籠は弟にもらったんだ。出来がよすぎて俺には勿体ないから、見えないところに隠してる」
「確かにな。貴様には過ぎた品だ」
嘲るように笑った兵士が、印籠を奪う。
あ、と思う暇もなかった。取り返すには実力行使が一番だが、関所の兵士に手を出しても大丈夫かと不安がよぎる。畿内の外へ出てしまったのは間違いない。騒ぎを起こすと面倒なことになりかねなかった。
どうする? 腰の刀もそこそこの業物だ。
「なあ、この刀で――」
「お、織田木瓜?! 貴様、織田の者かっ」
バレた。
幸いにして、俺の相手をしているのは一人だけだ。他の兵士たちは別の方向を見ていたり、新たにやってきた一団の検問をしている。一人なら、何とかなる。
そう思った時だった。
「いかにも、織田尾張守様の使いである。何か不都合でもあるのか?」
「な……っ」
俺の右肩にぐっと力を籠め、押しのけるように出てきたのは白頭巾。
相変わらず上質な着物に大きい房のついた羽織もセットだ。明らかに身分の高い者だと分かる姿に、兵士がたちまち青ざめた。手の震えに、印籠が音を立てる。
「連れの者が失礼をした」
「い、いえっ」
「通ってもよいか?」
「も、もももちろんです!」
「印籠返せよ」
カクカク頷いている兵士へ手を出せば、慌てた様子で投げ渡された。
栓の抜けた果実型爆弾みたいな扱いをされてムッとする。だが俺が何か言う前に、首根っこを掴まれて引きずられていった。もちろん馬も一緒である。
白頭巾が立ち止まったのは、関所がかなり小さくなってからだった。
「何を考えておるのだ」
「てめえに言われたくねえよ」
何考えてる、はこっちの台詞だ。
印籠を元通りに懐へしまいながら睨むと、頭巾の隙間から怒りの籠った目が見えた。タイミングよく現れたことから、俺の後を追いかけてきたのは間違いない。二条城の警備として詰めていた義輝じゃなくて他の誰かなら、仕方ないなと諦めて受け入れただろう。
「戻れ」
「何?」
「将軍を守るのが、貴様の仕事だろ」
「忘れたのか。余は織田信長の懐刀・雨墨である。守るべき相手は目の前にいる」
「頼んだ覚えはねえぞ」
「余が望んだ。本気の本心で望んだ願いは叶うのだろう?」
途端に何とも言えない心地になる。
風呂での話は内密にと釘を刺しておくんだった。
なんだかんだで兄弟仲はいいらしい。子供時代を取り戻すかのように、二人は頻繁に会っては話をしているという。血縁関係あるなしに関わらず、家族団らんを推奨したい俺だ。まるっと筒抜けじゃねえかと怒れない。
がしがしと頭を掻く。
「俺の周りは馬鹿ばっかりだ!」
「馬鹿は嫌いではないのか」
「馬鹿にも色々あんだよ! ああもう、何でもいいや。関所から織田家の使いが来たことは知れ渡るだろうし、このまま偉い奴のところへ行くか」
「ならば、毛利陸奥守であるな」
「ここって毛利領かよ!?」
「出雲国は尼子が治めていた。とうとう月山富田城が落ち、毛利の所領となったのだ」
「出雲かあ」
そういえば、伊勢神宮に参っていなかった。
熊野神社にも行っていない。墓参りも全然やっていないし、本当に何をやっているんだ俺は。手綱を持ったまま項垂れていると、焦れた馬が勝手に歩き出した。
「お、おっ、お!?」
「立ち話も何だ。今宵の宿を見つけて、ゆるりと語り合おうぞ」
「こいつは俺の馬だぞ! 当たり前みたいな顔して乗ってんじゃねえ!」
「仕方あるまい。体裁というものがあるゆえ」
みすぼらしい格好の俺と、やんごとなき身分に見える義輝。
実際に義輝の方が出自も上だから何も間違っちゃいない。間違っちゃいないのだが、俺に仕えるとか言っておきながら偉そうにされると腹が立つ。
「男と同乗したくねえんだよ。やっぱ降りろ!」
「陸奥守に会うのは久しぶりだな」
「聞けェ!」
将軍時代に会ったことがあるらしい。
名医を紹介してやったとか、下戸なのに酒と餅を常備しているとか、小言が長いとか、役に立つんだか立たないんだか分からない元就情報を聞かされながら、毛利家の本拠地・安芸国を目指す。関所でいちいち止められるのも覚悟していたのに、何故かフリーパスで通過できた。
末端まで指揮系統が行き渡っている。
謀神の二つ名は伊達じゃないと、そう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます