断章之四 長政の試練

 まだ夜も明けきらぬ刻限に、ひしと抱き合う男女があった。

 互いに着衣もきちんとしていて、男の方は具足に陣羽織という戦装束である。腕の中に閉じ込められている女は小袖に品の良い打掛を重ね、どちらも身分ある者だと分かる。艶やかな黒髪に顔を埋める男の表情は窺い知れない。

「市」

「長政様」

 密やかに名を呼び合って、ようやく顔を上げた。

 二人の心情はどうあれ、笑顔を浮かべた愛する人に深く頷いてみせる。示し合わせたように同じことをして、今度は自然な笑みで小さく噴き出した。

「なるべく早く、帰ってくる」

「はい。無事のご帰還をお待ちしております」

 美しく弧を描く唇に吸いつきそうになって、長政は堪えた。

 今触れてしまえば、離れがたくなる。あどけない無垢な蕾は一年経って、艶やかな大輪の花を咲かせた。信長が長らく手元に置いて放さなかった理由がよく分かる。真っすぐに向けられる好意に対して、冷たくできる男がいたら見てみたい。

 拳を握り締め、そこから生まれた隙間を徐々に広くする。

 一歩、二歩と下がって、長政は腹へ力を入れた。

「市!」

「はい?」

「早く子が欲しいな!」

「え」

 予想外の言葉に、お市が固まる。

 みるみる顔を染めていくのを見届けずに、長政は踵を返した。妻に負けないくらいに耳まで赤く染まった顔は、家臣たちにからかわれそうで怖い。織田の姫、それも信長の妹というだけで偏見を抱いていた者も、最近ではようやく態度を軟化してくれた。長政との仲が睦まじすぎて、あれこれ言うのが馬鹿馬鹿しくなったらしい。

 今年には御子が生まれるだろう、と期待も大きい。

 皆が待ち望んでいるのは織田の血を引く男児だが、長政としては姫でもかまわなかった。織田の一族は美形揃いだし、お市の美しさは天下一だと思う。

「……そなたには気苦労ばかりかけているな」

「殿?」

 返事をしたのは愛しい妻ではなく、むくつけき男である。

 長政はすっと背を伸ばし、前を向いた。

「いや、何でもない。出立しよう」

「はっ」

 たちまち号令がかかり、長政は馬上の人となった。

 浅井家に嫡男は既にいる。信長の勘気を恐れて隠されているが、六角家臣・平井定武ひらいさだたけの娘――彼女とは離縁している――が生んだ万福丸は今年で5歳。京極家に嫁いだ姉が小谷城に残っているので、姉の子供と一緒に育てているのだ。

 お市にもいつか、話さなければならない。

 怒るだろうか、悲しむだろうか。騙されたと嘆いて、兄の元へ帰ってしまうだろうか。もしもそうなったら、信長は激怒するに違いない。尾張を含めた三国の主となった織田軍と戦っても、まず勝ち目はない。越前の朝倉家が援軍を出してくれるなら、まだ勝機はあるかもしれないが。

「いや、何を考えているんだ。私は」

 首を振り、雑念を追い払う。

 今は南近江を手中に収めることを考えなければならない。


『六角家臣、蒲生左兵衛大夫が織田へ降ったそうでございます!』

『六角義治が観音寺城より逃亡! 行き先は南の甲賀かと思われます』

『織田より伝令! 浅井は速やかに近江を統一すべし、以上ですっ』


 立て続けに伝令が駆け込んできて、大混乱に陥ったのが数日前のこと。

 現当主がいなくなった隙に南近江を平らげろとは、信長うつけらしい注文だ。長政は、これを義兄からの試練として受け取った。ここから更に南の伊勢国で、似たような状況が起きたことを知っている。

 伊勢神戸城を包囲した途端、城主が降伏してきたのだ。

 ここから破竹の勢いで城や砦を落としていき、十日もかからずに大河内城に大軍勢が押し寄せた。神戸具盛を含めた伊勢国人衆も加わっていたというから、五万以上はあっただろう。これをもって大河内城を完全包囲し、北畠親子を屈服させたのである。

 これまた不思議なことに、籠城の構えだったはずの相手が城門を開けた。

 織田軍は炊き出しの最中で捕虜を連行してきた際、信長は粥を食べていたらしい。しかし具房には飴を与えたというから意味が分からない。巷では武将も落ちる魅惑の飴ということで、蜂蜜を求める者が後を絶たないらしい。捕虜へ与えるには贅沢すぎる品だ。

 だがそんなに美味な飴なら、是非お市に贈りたいと思う。

 キラキラと金色の輝きも素晴らしく、舌で転がせば天上の味。あっという間にとろけてなくなる儚さも評判の一つである。信長から餞別として多くの甘味を贈られたお市も、その蜂蜜飴だけは食べたことがないらしい。

 噂を聞いてすぐに買い求めに走った者は、未だ戻ってこない。

「殿、そろそろ愛知川です」

「北岸に陣を敷く。用意せよ」

 伝令に走る兵を見送り、長政は馬から降りた。

 ここから最も近いのは和田山城だ。

 六角氏の現当主は去り、最も影響力のあった宿老・蒲生家は織田軍へ下った。それでも川の向こうで浅井軍を睨んでいる敵の気配を感じる。蒲生賢秀を屈服させた信長ならいざ知らず、後からやってきた長政に南近江を渡してなるものか、と怒っているのだ。

「お前たちは何も、何一つとして分かっていない」

 ぽつりと呟いた。

 傍に控えていた側近が怪訝そうにしているが、それに答える気はなかった。信長の真意は、分かる者だけが分かればいい。尊敬すべき義兄は言ったのだ。長政が治めよ、と。ならば義弟である長政は、これに倣うのみ。

 誰にも文句は言わせない。これは既に決まったことである。

「この近江は、私のものだ」

 しばらく川を眺めていると、別の側近が呼びに来た。

 今夜は皆とみっちり軍議をして、明日は開戦となるだろう。信長のように支城を蹴散らして観音寺城を包囲するのも一つの手だが、浅井軍は1万5千の軍勢である。六角軍の想定兵数が1万と千だから、彼我の兵力差は大きくない。

 緒戦で消耗するよりは、要所を確実に落とすべきだ。

「地図を」

「はっ」

 この時期は日が落ちるのも早い。

 蝋燭の炎が揺れる中を、大きな地図が広げられた。くるんと巻いてしまう四隅を家臣たちが押さえ、遠藤直経が斥候が得た情報について話し始める。小谷城を出発してから早数日が経過し、六角軍残党はとっくに浅井軍の接近に気付いている。

 主な将は和田山城、箕作城、そして観音寺城にこもった。

 確認された武将の中に六角承禎、蒲生定秀の名を聞いた長政は眉を顰める。片方は逃げ、片方は降伏してしまった人間の親は南近江に残ったのだ。家督を譲って隠居した身であれば、当主の意向に沿うべきだと思わないのか。

「いや、あるいは」

 近江統一は、長政の悲願だ。

 あっさり片付いても面白くないと思っていた。古き慣習にしがみつく老将たちの意地など、浅井軍の武力を以て砕いてしまえばいい。

 北近江の地も、戦によって奪い取った。

「残党といえども容赦はするな。手心を加える必要はない」

「おそれながら、某に策がございます」

 隣で控えていた遠藤直経が進み出る。

 今回の戦は信長が招いたものだから従軍を嫌がるかと思えば、こうして当たり前のように具足を纏っている。その忠義は疑うべくもないが、行きすぎた感情は少々危険だ。完全に信頼してやれない苦さを飲み込んで、長政は頷いた。

「聞こう、喜右衛門」

「ありがとうございます。……まずは地図をご覧ください。我らはここ、川の北岸に布陣しております。敵は和田山城から攻め落とすつもりだと予測しておりましょう」

「うむ」

「敵の配置からして、挟撃を狙っていると思われます。和田山城に攻める我が軍を、箕作城と観音寺城から挟み撃ちにするのです。苦戦は避けられません」

「では、どうするというのだ?」

 焦れた様子の家臣に、直経は薄く笑った。

「簡単なことよ。軍勢を三つに分け、それぞれの城を攻める」

「兵力差は我が方が上だが、それで城を落とせるのか?」

「落とせなければ、南近江は手に入らぬ。悔しいが、もはや六角軍は残党としか呼べぬ代物へ成り下がった。これを討てずして、何を誇れというのか」

「近江を手に入れたところで、尾張のうつけに手を引いてもらった……などと我が殿が馬鹿にされる。ええい、憎たらしい!」

「だからこそ迅速に片を付ける必要があるのよ。伊勢大河内城のように大軍で包囲せずとも、我らは少数精鋭で城を落とす。幸いにして名のある将が残っておるのだ。奴らの首級を挙げれば、文句は言えぬ」

 長政は黙って地図を見つめていた。

 家臣たちは意見を戦わせているが、直経の策でほぼ決まったようなものだ。どこに誰を配置するか、三つに分けた軍勢をどう動かすかに移っている。箕作城には蒲生定秀が、観音寺城には六角承禎がいるらしい。

「殿はいかがされますか?」

「箕作城に向かう」

「えっ。観音寺城ではないのですか」

「蒲生下総守に会ってみたいのだ。噂通りかどうかを確かめる」

「成程。では某も殿に続きましょう」

 過保護な直経に苦笑し、長政は鷹揚に頷いた。

 本当の理由は言えるはずもない。信長から「南近江を攻めよ」と改めて指示が来た時、蒲生家から届いた人質について書かれていた。鶴千代という子供は幼いながらも「将の器たる人物」と評している。鶴千代の父・賢秀も織田軍の将として遇されることが決まった。

 降伏する者は誰でも受け入れる信長らしいと、多くの者は思うだろう。

 しかし長政には分かる。

 信長が家族と側近以外で褒める人物など、これまで徳川家康以外になかった。家康は幼い頃に知り合い、桶狭間の戦い以降はよく会って話をしているという。だが蒲生親子は出会って間もないうちに、信長の高い評価を得ている。長政が知らないだけで、そういう者は他にもいるかもしれない。

 これは嫉妬だ。

 義弟となった今も、信長に褒められたことのない己が叫んでいる。

 もっと大きなことを、もっと目覚ましい戦果を挙げなければ、信長に褒められることはない。厳密には分かりやすく褒め言葉がほしいわけではない。織田信長にとって無視できない存在、どうあっても意識してしまう相手になりたい。

 いつの間にか信長は将軍家の信頼を得て、朝廷の使者とも懇意にしている。

 畿内へ進出し、天下獲りにいくのではないかと専らの噂だ。長政は追いつくどころか、どんどん引き離されている。お市の夫として、信長の義弟として恥ずかしくない己を手に入れるためには近江一国で満足していられない。

 長政の目は、南近江よりも遠いどこかを睨み据えていた。



 直経の策は的中した。

 三つに分かれた軍勢はそれぞれ城を攻撃し、まず箕作城が落ちる。

 これを聞いた和田山城の将兵が次々と逃げ出し、観音寺城に詰めていた兵も敗北濃厚を悟って降伏。浅井軍は蒲生定秀を捕らえることに成功したが、六角承禎と側近数人の姿は城の内外を探しても見つからなかった。

 長政は深追いを禁じ、残る支城全てを落とすように命じる。

 こうして浅井家は近江一国を統治下に置く戦国大名に仲間入りした。だが南端の甲賀郡だけはしぶとく反抗を続け、長政と六角親子の因縁は以後のしこりとなるのだった。





********************

長政の○○ゲージが少し溜まった。


余談ですが、蒲生定秀は六角承禎の親・定頼と主従の誓いをしており、定頼死後の六角家中では主従逆転していたっぽいです。承禎にお金を貸して、きっちり返済させていた話は主従関係とは微妙にずれている気もしますが…

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