5. 一大決心

 その日、俺は勉強のために自室にこもっていた。

 教育係の沢彦が所用でいないため、平手の爺こと平手政秀が代わりを務めている。

「最近の若様はまたお変わりになられましたな」

「ん? うーん、そうか?」

「隠さずとも、爺には分かります」

 その割にまったく嬉しそうじゃないんだが。

 ちなみに今読んでいるのは、漢書の一つである『韓非子』だ。この時代にコピー機はないから、手書きで写した写本になる。元々の筆記体がそうなのか、写した人間のクセなのか分からないが、思ったよりも読みやすい。

 漢語はもともと嫌いじゃないんだ。堅苦しい文芸書よりも、よほど面白い。

「若様は深い悩み事がございましょう」

 ぎく。

 肩を震わせ、写本越しに爺を見やる。

 実際の年齢を考えれば、まだまだ爺さんと呼ぶには早いかもしれない。件の落馬事件で真っ先に駆け付けてくれた大人が平手の爺だった。その時にじいが、じいがって連呼するものだから爺と呼ぶようになった。

 傅役として常に傍にいる人だから、以前と違うって言われるのが怖かった。吉法師らしく振舞いたくても、手本とする記憶がない。若い頃の信長を題材にしたゲームや小説・漫画は、もっと男らしくて格好良かった。本来の信長はあんな感じだと思う。でも犬千代たちの前でやってみたら、気持ち悪いって言われたので二度とやらない。

 改めてみると随分、皺が増えたように思う。

 気苦労をかけている自覚はある。

 尾張のうつけ、大うつけと呼ばれるたびに、心を痛めているのも知っている。だが放浪は止められない。俺はこの時代について、尾張国について知らないことが多すぎるんだ。それに長く城を空けるわけではない。無駄金を使い、遊びまくっているわけでもない。

 幸か不幸か、吉法師として学んできた知識は思い出せた。

 記憶喪失になっても日常生活はなんとかできる、というご都合主義的なものだろうと認識している。引き出してみて分かった膨大な知識がまるっと消えていたら、俺は泣く。さすがは織田家嫡男というか、とにかく勉強熱心だったのは間違いない。

 おかげで教育係にも不審がられていない。今のところは。

 俺は爺が好きだ。親身になって心を寄せてくれる平手の爺は、親父殿よりもよほど親父らしい。だからこそ言えなかった。

 俺が未来からの転生者なんて、誰が信じる?

 写本を閉じて、頬杖を突いた。俺と目が合った爺は、優しく微笑んでいる。今なら洗いざらい打ち明けても大丈夫だって勘違いしたくなる。

「爺と違って、俺は若いからな。悩むこともあるさ」

「さもあらん」

「恥ずかしいから言いたくない、では通じんか?」

「若様、それは狡うございますぞ」

「すまん、爺には甘えてしまうらしい。成長しないな、俺は」

 嘘を吐くには、本音を混ぜて真実味を増すこと。

 だが爺には嘘を吐きたくない。言わぬだけで押し通す。付き合いの長さが、勝手に推測を生んでくれることだろう。心が痛まないとは言わない。

 転生のことは誰にも言わない。墓まで持っていくつもりだが、現代人の俺が思いついてしまった甘っちょろい理想は「恥ずかしい」から言えない。この時代のことを知らないから言えるのだと一蹴されたら、めちゃめちゃ凹む。

 要するに怖いんだ、俺は。

 俺の勝手な願いで史実と異なる流れを作ろうとしている。ろくに会ったこともない、何も知らない弟でも「弟」だから死なせたくない。俺も、死にたくない。一向宗もなんとか救いたい。それでいて、最終的に徳川幕府が生まれるように流れを持っていきたい。

 溜息が出た。

 何度考えても、言えないという結論に至る。俺はほぼ確定している未来を、史実という形で知っている。平手の爺は傅役で、俺の味方かもしれない。でも織田家家臣で、信秀に仕える者だ。何かあれば、親父殿に報告するだろう。

 うつけ以下の変わり者として、嫡男から外されるかもしれない。

「若様は変わられた」

「そう、見えるか」

「はい」

 やっぱり俺は吉法師になれなかった。

 絶望と共に爺を、平手さんを見つめる。この優しそうな眼差しが憎悪に変わってしまったら、俺はどうすればいいんだろう。

「わしは、若様が何を考えておるのか分かりませぬ。その眼差しは遠く、遥か遠くを見つめておられる。憎々しい敵でもいるかのように、きつく睨んでいるのを自覚しておりますまい」

「え」

「若様の信頼を得られぬ家老など、無用でござりまする……」

「ま、待て。爺! 早まるな」

 慌てるあまりに台を投げ、平手さんに迫った。

 顔と同じように皺だらけの手を握る。いつの間に、これほど細くなってしまったのだと驚いた。頻繁に会っているつもりでも、単純な変化に気付いていなかった。

 先のことばかり考えて、今を見つめる重要性を忘れていた。

「若様、爺はお役御免にございましょう?」

「だから違うと言ってんだろ! その証拠に、今日は爺と二人で勉強しているじゃねえか」

「言葉が乱れておりますぞ」

「爺がおかしなことを言うからだ」

「ほほ、異なことを」

 笑みすらも弱弱しい。

 俺は焦った。平手政秀が自刃する未来を知っている。

 それは親父殿、信秀の死から一年ほど経った頃だ。行状を改めない信長を諫めるためだとも、平手の息子が生んだ信長との確執のせいだとも云われている。

 だが、それはまだ先のことだ。

 弟も俺のことも、爺のことも死なせたくない。

「いいか、爺。よく聞けよ」

「…………」

「俺は世の中を変えてみせる。全てはその為に動いている。人生五十年、一瞬たりとも無駄にはできんのだ。夢幻のごとき生なればこそ、俺は俺が望むように生きたい」

 言葉にしてみて、ようやっと自覚した。

 俺は、俺がこの時代で生きている実感がほしいんだ。吉法師としての記憶がないから、俺が俺である確証が持てない。今もなんで信長に、と思っている。誰よりも俺自身が、未だに織田信長に転生した事実を認められないでいる。

 そのくせ、近しい人を死なせたくないと考えている。

 面倒くさいことは嫌なくせに、難しいことも苦手なくせに、歴史を変えてしまうのが怖くて仕方ないくせに、どうしても生きてほしいと願ってしまう。

 生きたいと、思わずにはいられない。

「最近、毎日が楽しいんだ。俺は知らないことが多すぎて、どんなものも学びになる。俺のことを悪く言う奴が多いことは知ってる。爺にもたくさん苦労をかけてる」

 刻んだ皺の数だけ、心労をかけていると思う。

 それでも俺は生きたい。この時代で、生きてみたい。

「見届けろ、爺。親父殿から傅役を言い付かったのだろうが。生きて、しっかりと開けた両の目で、俺の生き様を焼きつけろ……!」

「若様」

 溜息のように吐いた声の続きは、ちゃんと聞こえなかった。

 震えながら伸ばしてきた手を、俺が両手で握りしめる。痩せてしわしわになっても武士らしく、やたらと力が強かった。痛いくらいに掴まれても、今日は我慢する。

 俯いてしまった白髪交じりの頭に、ゆっくりと語りかける。

「爺のことをいらないなんて、思うわけないだろ。爺がいるから俺、頑張れてるんだからさ。お役御免なんて怖いこと言わないでくれよ」

「う、うう……っ」

 小さな背が揺れていた。

 吉法師は爺が泣くところを見たことがあるんだろうか。俺はそんなことを考えながら、握りしめる両手を必死に維持していた。




 とまあ、これだけだとちょっとイイ話で終わるのだが。

 実はまだ、続きがあった。

「てめえ、沢彦。爺に聞いたぞ。よくもハメやがったな!?」

「おやおや、吉法師様。今日も元気でございますなあ。重畳、重畳」

「糞坊主!」

「はっはっは。そのように罵ってばかりですと、傅役殿に叱られますぞ。いや、また泣かれてしまいますかな」

「うぐぐぐ」

 そう。孔明の罠ならぬ、沢彦の罠。

 この時代は寺に配備される住職が、武家の教育係を務めるのが一般的だ。がらんと広い本堂のど真ん中で、からからと笑っている僧形の男が沢彦宗恩たくげんそうおん和尚という。若くして寺の管理を任された実力者だが、とにかく性格が悪い。

 痩せているように見えて、脱ぐとスゴイ。

「平手殿に相談されたゆえ、拙僧なりの助言を授けたまでのこと。そのようにお怒りになる理由が、とんと分かりませんなあ」

 これである。

 ニヤニヤ、ニヤニヤと笑いながら言うことか。

 腹黒坊主め、どこまで読まれているか分かったものじゃない。転生者であることはバレていないはずだが、甘っちょろい理想のあたりは気付いていそうだ。あるいは何かある程度にしか分かっていなかったのに、何か引き出せればラッキーなくらいの気持ちで爺をたきつけた。うっかり爺がフライング自刃するところだったのだ。全く笑えない。

 悔しさに歯をギリギリしていると、沢彦がふと真顔に戻った。

「それにしても、吉法師様もお人が悪い」

「あ?」

「何やら長期的な企みを練っておられるそうですな。よろしければ、この沢彦にも聞かせていただけませぬか。あの平手殿が男泣きに泣くほどの、感動的な一大決心だとか」

 俺がぎろりと睨めば、どこ吹く風と流す坊主。

「御仏の救いは死後のみにあらず。何をするにせよ、手が多いに越したことはありますまい」

「多ければ、多くなった分だけ目端が届かなくなる。俺は見えない部分まで手を伸ばすほど欲張りじゃねえ。確実に届くものだけを、俺は掴む」

「届かぬ先は如何」

「諦める」

 きっぱりと言い切った。

 心情的にはどうあれ、今はそう言うしかない。俺は英雄じゃない。俺が信長だが、史実に描かれる織田信長のようになれる自信はない。その英雄様は大量虐殺した魔王だと云われているのだ。俺にはできない。だが、

「俺は一人じゃない」

「然様。吉法師様には、多くの手がございます」

「俺は一人だ。手も二本なら、足も二本。舌は二枚に分かれてねえし、頭も悪い。それなりに戦えるようにはなったつもりだが、犬千代たちには負ける」

 自虐ではない。卑下もしていない。

 遊びも交えつつ、鍛錬も続けてきた。この体はまだまだ成長期だ。伸びしろがある、はずだ。もやしっ子のままで終わらせない。

「知恵はないが、知識はある。それも和尚にゃ遠く及ばんだろうが。あんたも知らないネタを、俺は知っている。無知の知、っていうだろ? できないことをそう簡単に諦めたりしないが」

「吉法師様」

「んだよ」

 演説を途中で止められて、ちょっと不機嫌になりながら返事をする。

 沢彦はもうニヤニヤ笑っていなかった。

 代わりにおそろしいほど底冷えのする光が、両の目に宿っている。悪さをして叱られた時も、こんな目じゃなかった。俺は踏んではならない何かを思いっきり踏み抜いたらしい。

 あっこれ、知ってる。すごくダメなやつでは?

「その覚悟はおありですかな」

「…………ある。覚悟だけは、ある」

 中身はこれから作る。

 そう足したら、何故か爆笑された。なんだこれ。




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沢彦和尚は影のラスボス

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