雌伏編(天文13年~)

1. 雌伏の時

 年号は天文、時代は室町。

 十数年に渡って京の町を焼き尽くした応仁の乱も、今は昔。なおも燻る火種は各地に散り、混迷の影がじわじわと忍び寄ろうとしていた。

 ところで、尾張国には「大うつけ」と呼ばれる悪ガキがいる。その名を――。

「吉法師さまー! 吉法師さばあああぁ!!」

「っだー、うるせえっ」

 叫びながら駆け寄ってきたのでデコピンを喰らわせた。両手をブンブン振り回して抱きつかんばかりの勢いだったのだ。俺は悪くない。

「痛いっすよ、吉法師さま」

「ワンワン吠えるな、犬」

「わんっ」

 嬉々として吠えた阿呆の頭に、鉄拳の褒美をくれてやる。

 さて、どうしてこんなのに懐かれたのか本当に分からない。何も思い当たる節がないし、過去にあったであろう切っ掛けが思い出せない。奴はいつの間にか傍にいて、立派に舎弟気取りである。

 いや、人間ですらない。犬だ。

 そこそこ仕立ての良い着物着てるが、裸足で土に汚れている。草履どこいった。そもそも、あんなこと言われたら普通は怒るだろ。わんっ、じゃねえよ。なんで喜んでいるんだよ、さてはマゾか。

 じろりと見やれば、きょとんとする子供。

 後頭部で括った髪が尻尾のようだ。なるほど、ポニーテールだな確かに。馬じゃなくて犬だからドッグテール。

「吉法師さま、暇っす。遊ばねえんですか?」

「だが断る」

「暇で死にそうっす!」

「大丈夫だ、死にそうな気がしていても死なない。人間、そんな風にできてる」

「へー! オレ、一つ賢くなったかも」

 あっけらかんとした声に、思わず半眼になった。

 こいつが人間でなく、本当に犬だったら――ちぎれんばかりに振りまくる尻尾が見えただろう。残念ながらそんなものは当然あるはずもなく、尻尾代わりの髪がぶんぶん揺れている。

 俺はそれを、下から眺めていた。

 川の土手は涼しく、柔らかな緑が(ツッコミで)疲れた体を受け止めてくれる。草むらにごろんと転がって、空を見上げる俺。日差しが柔らかく降り注ぎ、のんびり昼寝したいくらい心地よい。

「いーい天気だなあ」

 青い空はどこまでも続いているのか。

 知識としては知っていたが、本当に果てがない。こんなにも、めちゃくちゃ広いだなんて思わなかった。空の色、青の濃さも毎日微妙に違う。雲の形だってどんどん変わる。全然見飽きない。

「そっすねえ。で、遊びに行きましょうよ。吉法師さま」

「黙れ」

「…………」

「…………」

「なーなー、吉法師さまよー」

 いっそ口を縫い止めてやろうか。

 おかしいだろ、なんで『マテ』即終了するんだよ。一瞬黙っただけじゃねえか。こいつが真性の馬鹿だ。うつけは、犬だ。犬千代だ。

 そう、前田犬千代というのが喧しい人間の名前だ。

 犬千代だから犬と呼んでいる……わけでなく、犬っぽいから犬である。前田家の犬千代くんといえば、加賀百万石の前田利家しか知らない。武家の子供が成人するまで使われる呼び名、幼名というやつだ。ついでに犬がさっきから連呼しまくっている「吉法師」も幼名。成人、つまりは元服後の名前は織田信長。

 いや、おかしいだろ。

 なんでだよ。輪廻転生? 普通にないっすわー。

 転生って、来世に生まれ変わるっていう意味らしいぞ。なんで過去世なんだよ。やり直すにしても戻りすぎだろ。

 一体、何をやり直せっちゅーんじゃ!!

 俺には前の人生の記憶がある。

 そう、いわゆる転生者ってやつだ。

 不慮の事故だか突然のハプニングだかでお亡くなりになったわけでなく、自称神様とご対面したわけでもなく、それなりに生きた人生の終焉を自覚したらこうなっていた。たぶん病死。寂しい孤独死ってやつだよ。

 未来の人生が前世とかよく分からん。

 正直、信じたくなかった。

 馬から落ちて尻をしこたま打ったら思い出したんだ。信じられるか? 転生あるあるネタなら赤ん坊からスタートするとか、三日間の高熱で思い出そうよ。二人分の記憶は脳に負担がかかるらしいぞ。知らんけど。

 とにかく、俺は信じたくなかった。

 二度目の人生なんて誰も頼んでねえよ。

 ムシャクシャしたので、清州城でボヤ騒ぎを起こしてやった。

 大騒ぎする人々を見ているうちに、ちょっと罪悪感が芽生えちゃったりもしたが燃やしたものは戻せない。絶対怒られるだろうと思っていたが、今日まで何も音沙汰無しである。あれ? もしかして俺、育児放棄されてない?

「吉法師さまー」

「うるせえ、黙ってろ」

「っす!!」

 はい、大変よいお返事ですね。

 もう怒る気力も失せた。放置だ放置。犬飼ったことないから、躾のやり方なんて分からない。いや犬じゃなくて、人間の子供だ。落ち着け俺。

「そーいや、他のやつらはどうした?」

「吉法師さまが落馬した件で、謹慎中っす」

「いや、なんでだよ」

「えー……織田家嫡男のケツを守れなかったから?」

「ケツは無事だ!!」

 めちゃくちゃ痛かったけど、十日ほどですっかり治った。

 もともとの身体能力が高いのか、クソマズ薬が効いたのかは分からないが腫れと痛みで悶絶していたのは数日だけ。それからは寝ているのも飽きたし、こうして外に出てきている。あぁ風が気持ちいーなー。

「吉法師さまが呼べば、みんな出てきますよ」

「しねえよ。謹慎してんだろ」

 犬千代たちはいわゆる遊び友達だ。

 織田家嫡男に仕えるように、と言いつけられた武家の子供。将来的に側近として取り立ててもらいたい、大人の思惑があるようだ。織田信長は現代で三傑に選ばれる英雄だから、選んで間違いはない。

 が、信長は俺だ。アイアム信長。

 吉法師としての記憶はないので不安だ。

 落馬の衝撃で丸ごと抜け落ちたのかもしれない。俺の周りをわんわん走り回る犬千代に織田家家臣の名前を聞くしかない。阿呆な犬のくせに、記憶力だけはいいんだよなあ。

 犬千代は小姓という身分なので、俺について回っても怒られない。

 謹慎中のやつらも同じく小姓として、織田家嫡男に仕えることになっている。出会って早々に遠乗りして、俺が落馬して、親に怒られた。俺は悪くな……悪い、のか?

「今日は城めぐりしないんすか?」

 犬千代に聞かれて、ぎくりとした。

 悪いか。本物の城にテンション上がっちゃったんだよ。

 天守閣がないので変な感じだが、そもそも普通の城に天守閣はないらしい。物見櫓はなんか違うし、塀に囲まれた日本家屋というのが近い。これでも織田家嫡男なので出迎えがあって、その度に犬千代から聞いた。

「一通り会っただろ。もう十分だ」

「えー。おっさんたちの顔が面白いのに」

 ぷふっと噴出した。

 後ろに控えていたくせに、よく見ていやがる。俺を見るおっさん連中は大まかに分けて二種類いた。苦言小言を呈してくるタイプと、無視を決め込むタイプだ。俺は嫡男だっていうのに、早々に見切りをつけられているらしい。

 育児放棄されていることと関係あるんだろうな。

 犬千代が面白いと言っているのは、名前を憶えられていないことに憤慨したおっさんだろう。小声でのやり取りを地獄耳で聞き取って、ものすごい大音量で一喝されたのだ。不可抗力なんだから仕方ないだろって、そんな理屈は通じないか。

「性格悪いな、お前」

「吉法師さまには言われたくないっすよ! あだっ」

「口は災いの門って言うんだよ。覚えとけ」

「っす!!」

 犬千代の賢さが2上がった。

 返事だけは一人前なんだよな、返事だけは。

 キリッと表情を引き締めた奴に笑って、俺はまた空を見上げた。

 時代が変わっても青い空は変わらないなんて、嘘だ。こんなにも広くて、高くて、果てがない空なんて、俺は知らない。

「……本当に、知らない世界じだいに来ちまったんだなあ」

「吉法師さま?」

 やり直すほど、俺は織田信長を知らない。

 本当に俺が、子供時代の織田信長になってしまったのかも分からない。知っているのは家臣の謀反で50歳手前で死んだことと、美人の妹と嫁がいること。隣でわんわん煩い犬千代が家臣になること。

「もっと勉強しとくんだったなあ」

「吉法師さまって学ぶの好きですよねー」

 えっ初耳。




********************

以下どうでもいい(本編に関係ない)設定



主人公(前世) ...ただのへぼゲーマーなのにヲタクと呼ばれ避けられ、リア友も恋人もいない歴イコール実年齢のまま49歳の孤独な人生を終える。


ハマったゲームは特になし。面白ければ何でもいい雑食派。


下請け業者の従業員を辞めて以来、アルバイトで食いつなぐ。


学力学歴はそれなり。病気知らずの健康体であったはずだが、平均年齢へ届く前に病死。死因はストレス性とも。一人っ子で両親は既に他界。葬儀は顔も知らない親戚によって恙なく終えたが、主人公の知るところではない。

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