金色の菜の花畑の向こうから

猫山 

第1話 私は疲れている

私は疲れている。


「あと3ヶ月。」


 ため息とともにつぶやきがはき出された。


 少しだけ薄暗くなった教室の中はさっきまで賑やかに騒いでいた子ども達の影もなく、しんとして冷たい。




 机上に置かれたままのプリントの束をつかんで立ち上がると、私はストーブや電灯を確認してゆっくり教室を後にした。いわゆるオープン形式の教室はドアを閉める必要も無い。またため息が出た。




 私はこの12月で60歳になった。定年だ。もちろんまだ学校に残って仕事をすることも出来る。他の学校に行くことも出来る。だが私には延長をする気持ちはない。


このまま家に帰っても誰も待つ人はいないのに。




 ゆっくり階段を降りていく途中、まためまいが私を襲った。最近よくめまいがする。これも教職を続けようと思わなくなった原因の一つだ。




 不意に私の目の前に鮮やかな光景が浮かんできた。


 一面の黄色の花。あれは菜の花だ。菜の花の向こうから私を呼ぶ声が聞こえるような気がする。


 いつも一緒に遊んだあの子。名前ももう忘れてしまったけれど。坊主刈りの子どもが多い中で、少し長めの坊ちゃん刈りだったっけ。


「もう一度会いたいなあ。」


不意にそんな言葉が唇からこぼれる。え・・・




「り~んこちゃ~ん」「倫子ちゃ~ん」「倫子ちゃん」


「え?」


 いつの間にか私は。・・・菜の花畑の真ん中にいた。


「最近ちっとも来なかったね。良かった。今日は遊べるだろう?」


 手に持っていたはずのプリントはどこにもない。手をまじまじと見る。ぷっくりした子どもの手だ。


・・・


「なにしてんのさ。行こうよ。」


 男の子はそう言って私の手をきゅっと握って歩き出した。


「や~い!倫太郎!また倫子と遊んでんのか~」


 あの声は淳二君。そうだ。この子の名前は倫太郎君だった。すっかり忘れていた。淳二君は、いつもいつも私が倫太郎君と遊んでいるとからかって突っかかってきた子だわ。




・・・60の今なら分かる。彼は私たちと一緒に遊びたかっただけなのだ。


「気にしちゃだめだよ。倫子ちゃん。あっちで遊ぼうよ。」


 二人でいつも地面を掘ったり、草をちぎって編んでみたり、草笛にして吹いてみたり・・・滅多にしなかったけれど、鬼ごっこもしたっけ。二人しかいなかったけれど。楽しかったなあ。




 目を開けたら階段だった。


 白昼夢?手にはプリントの束。そして・・・菜の花。


「うそ・・・」


 学校の階段。怪談?しゃれにもならないわ。疲れているのよね。今日は1本飲んじゃおうか。







 ため息。


「先生、僕の話を聞いてくださいよ~」


 目の前にはクラスの男子。


「ぼくはね~なんにもしてないんですよ~。なのにですね~、田辺君がぁぼくをおすんですよぉ~」


「何にもしてないって?」


「ま。・・ちょっとはしたかな~」


「何をしたの?」


「先生、察してくださいよ~」




 実に疲れる。何を察しろというのだこの子は。そこに押したという田辺君が参戦してくる。


「先生。亮介君が先にぼくのこと通せんぼしたんです。」


「なるほど・・・・」


こんなことを聞いているうちに、なんだかもう休み時間が終わってしまう。


 おや。あっちで別のけんかが始まったぞ。また呼ばれるわ。




「せんせ~」


「はいはい・・・・・」


 ハイは一回でね。・・・あれ誰が言った言葉だったっけ。




 めまい・・・不意にまた菜の花畑だ。




「倫子ちゃんってば,僕と遊んでいるとき淳二君のこと言わないでよ。」


「はいはい・・・」


「もう!ハイは一回だよっ」




 あれ?




目の前には今年の担任クラスの子ども達。


「先生~ 聞いて聞いて!!!」


「違いますよ~ぼくが正しいんです~。」






・・・


 なにやら最近、昔の景色の中に自分が紛れてしまっているようで・・・疲れている上に少し怖い。


 もう1月も終わりになる。あと2ヶ月でこの生活ともお別れなのに。




 今日は職員会議の日だ。


 次年度のためにいろいろなことを決める会議だ。


 でも私には次年度はない。ここぞと思って改革案を出しまくる。何言ったって大丈夫。どうせ来年はいないんだから。


「もっと良くなるにはこうしたらどうだろう。これは?」


 これは案外おもしろい体験だ。研究主任様ご苦労様。改革してみてね。




・・・


 めまい・・・ふいにまた菜の花畑だ。


「倫子ちゃん。いやなことはいやだってはっきり言わないと意地悪は終わらないんだよ。」


「分かっているけれど。言いづらいのよ。この先まだ何年もここにいるんだと思うとさ・・・」




・・・ああ。これって卑怯。




 会議は終わっていた。




「若槻先生。今日はいつになくたくさん話されていましたね。」


「言い捨てになっちゃうけどね。」


 卑怯かなあ・・・。


 隣のクラスの若手教師とお話しながら教務室に戻る。






 ・・・・・






 今日も菜の花畑で遊んだ。昨日もそうだった。きっと明日も遊ぶに違いない。




 幻のような中で遊んでいるうちにどんどん少年のことを思い出していく。


 あの子は町外れの古い洋館に、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に住んでいた。




 古い洋館の中は、子どもの目から見ても「西洋」っていう感じがした。


 時々お邪魔するとおいしいケーキと紅茶を出してくれた。それが楽しみだった。




 少年は倫太郎君と言って私と同じ年だったと思う。でもなぜか倫太郎君は学校に来ていなかった。


「今思うと変だわね・・・なんで学校に来なかったんだろう。」


 鮮やかな黄色の世界がだんだん色あせて緑になっていく。花は終わる。


 なんで倫太郎君と遊ばなくなったんだっけ。




 すっかり金色から緑・・・そして再びの黄色・・・これは黄色く枯れていく菜の花畑。倫太郎君はいない。淳二君がなぜか隣にいて私を慰めている。なぜ?




「泣くなよ。悪かったよ。倫太郎がいなくなるなんて思わなかったんだよ。」




 そうだった。倫太郎君は病気でこの町に療養のため来ていたのだった。


 あの日の午後、一緒に遊んでいた時・・・急に・・・倫太郎君は倒れた。


 私は泣きながら洋館に走って行き、おじいさんを呼んできた。おじいさんは私に心配するなと言って倫太郎君を抱き上げて洋館に帰っていった。




 次の日お見舞いに行ったら、おばあさんが出てきて、


「倫子ちゃんが今日来てくれて良かったわ。実はね、倫太郎は都会の病院に行ったのよ。おじいさんが付き添って行ったので。この洋館も明日には閉めて、自分も都会に行くことになっているのよ。」


 と言った。そしておばあさんは呆然としている私に、倫太郎君からの手紙をくれた。




 その手紙には大きな字で


「いつかどこかでまた会おうね。そのときは倫子ちゃんは僕のお嫁さんだよ。」


 そうだ。そう書いてあったんだ。他にも私には読めない字で何か書いてあったんだけれど。


 そうだ。それだから私は結婚しなかったんだ。・・・少しいいなと思った人もいたけれど。・・・心のどこかに倫太郎君のことがあったから・・・




・・・「先生」


「はい?」


不意に現実に帰って来た・・・


「私。この分数の計算がわかんないんです。」


「奈々子ちゃん。いつも偉いね。わかんないところをきちんと聞きにくるもんねぇ。」


「何でこうなるんですか?」




 まだ4年生なので同分母分数の計算しかないのだけれど。仮分数にして引き算したり、足し算して仮分数になった分数を帯分数に直すところがまだよく分からないらしい。


時間をかけてじっくり図を書きながら教えていく。


「分かりました。」


 奈々子ちゃんが納得して席に戻っていくのと時間を同じにして、清掃の時間が始まる合図があった。 




 そう。分数の問題を倫太郎君に教えてもらったことがあったっけ。


ということはあれは3年生か4年生の頃の・・出来事なんだわね。ああ・・・50年も前のことなんだ。倫太郎君。会いたいなぁ・・・今は何をしているんだろう。




ようやく・・・


 今日は新年度の公務分掌の発表の日だ


・・何という男人事!当事者じゃなくても腹の立つ人事だ。


 この教員の世界は平等の世界だと言うけれど。嘘だ。何で、たぶん1番楽だろう5年生に男の先生2人なの?大変そうな児童がたくさんいるあの学年に女性2人って何??何で1~2年生は学年女性2人なんだ?




 こんな時、女に生まれて損をした。と感じてしまう。・・・50年も連絡をくれない倫太郎君を待つ・・・けなげな私なのに。きっと倫太郎君は私のことなど忘れてとっくに孫でもいるに違いない・・・そんな関係の無いことまで思ってしまう。




 心がささくれ立っていく。なんて後ろ向きな私。




 その夜。




・・・・倫太郎君が来た。














 倫太郎君はあのときのままだった。




 倫太郎君は


「迎えに来たよ」


 と言った。




 そんな無茶な。私は60歳。


 何であなたは10歳のままなの?












「本当はあのとき一緒に連れて行きたかったんだ。」


 あのとき?


 私の疑問を読んだように倫太郎君は続ける。


「僕が倒れたときさ。」


 でも・・・倫太郎君はちょっと困ったように続ける。


「あのとき連れて行っても・・・君はまだ赤ちゃんだったから。」


 ナンノコトヲ イッテイルノ?


 アカチャンッテ・・・ワタシ 10サイダッタヨ。




 やっと迎えにこれるようになったんだよ。といってにっこり笑う顔はうまく草笛が吹けたと喜んでいたときの表情だ。


「一緒に行こう。・・・行ってくれるよね?」


 どこへ?


 なにをしに?


 え???


「ちょっと待って。私、行けないわ。」


「なんで?」


 倫太郎君は首をかしげて私の手を取った。


「僕のこと・・・もう嫌いになったの?」




ソウジャナイワ・・キットワタシ・・・イマデモ ワスレテ イナイカラ・・・




「だって・・・後始末をしていないから。」


 倫太郎君はますます不思議そうに私を見た。


「後始末って?」


 私はため息をついた。


 目の前にいる10歳の倫太郎君に、クラスの子どもに話すように丁寧に話す。




 まず、離任式が明日あること。


 その後で送別会があること。


 学校にある自分の私物を持ってこなければならないこと。


 クラスの子どもの引き継ぎをしなければならないこと。




 倫太郎君は泣きそうな声で


「だめだよ。今日でないと。また後50年待たなくちゃならなくなる。50年たったら、倫子ちゃんは死んじゃっているかもしれないじゃないか。」


・・・・なに?  なに?  なに????




 結局、私は離任式をあきらめた。その代わり夜の学校に忍び込み、私物をこっそろ運び出すのを倫太郎君に手伝ってもらっている。


 本当は警備保障の会社に繋がっているセキュリティなのだけれど。倫太郎君がなにやら手をかざしたらごまかしが発動したらしい。




 とにかく大慌てで2階の教室に入り込み、自分の荷物をまとめ、校長先生の机上に離任式に急に出られなくなったことを書いてのせ、学校を出る。


 倫太郎君が警備保障の機械に手をかざすと・・・元通りになった?!


 家は持ち屋なので気にならないし。


 倫太郎君って本当に何者なの?ついて行って大丈夫なの・・・・・



そんな思いがこことをよぎるけれど・・・どうせ誰も待っていないのよ・・・



・・・



倫太郎君が私の手を取って


「目をつむって」


とささやくから・・・私は自分のクラスの子どもに言うように


「はいはい・・・」


と言って目をつむる。


「ハイは一回だよって言ってるのに。」


そんな声が聞こえてなんだか楽しくなる。


こんなおばあちゃんになった私を連れてどこに行くつもりなんだろう。そもそも本当に倫太郎君なのかしら?倫太郎君のお孫さんだったりして。

















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