第2話『最高のスタート』
頭を撫でる手がピタッと止まる。
「名前が、分からないのか?」
驚いた様子でメイアが呟く。その一方で名前を失った彼は、必死に家族との思い出や古き友人との思い出、学校での思い出を掘り返すものの、自分が名前を呼ばれる記憶は存在しない。
覚えてないはずがないことであるがゆえに、思い出せない現状が非常にもどかしい。どれだけ考えても分からないのに、思考を止めることができない。会話が途切れて、部屋の中は静けさに包まれる。
「もしかしてお前、記憶喪失なのか?」
再びメイアが言葉を発する。質問のおかげで彼はやっと思考を中断する。
「いえ、記憶喪失ではないんですけど、名前は思い出せないんです。」
お互いにどうすることもできないがゆえに、気まずい空気が流れる。
「そんなこともあるんだな。まあ、時間が経ったら思い出すかもしれないし、とりあえず風呂に入れ。あたしが入った後だが、気になるか?」
彼のモヤモヤがメイアの言葉によりドキドキに切り替わる。惚れた女性が入った後の風呂、風呂、風呂、風呂、風呂……
(……飲みたい)
という変態じみた思いを心の中に秘めて、口の端が吊り上がるのを一生懸命に抑えて、
「気になりません、入ります。ありがとうございます。」
彼が返事をすると、メイアは再び微笑みかけた。
「よし、じゃあついてこい。」
- - - - - - - -
「ふぅ、気持ちいい。」
ようやく湯船に浸かることができた。固形石鹼は泡立ちにくく、桶で頭を綺麗に流すのも結構大変で、元の世界の便利さを実感した。
彼は普段はシャワーで済ませているため、実は湯船に浸かるのがかなり久しぶりである。木製の湯船を堪能しつつ、彼は深呼吸をする。
(これが、メイアさんの香り…)
彼は本格的にメイアの虜になっていた。メイアを感じる度に、ドキドキする。メイアの微笑みを思い出す度に、幸せな気持ちになる。それはもはや過去の恋が恋ではなかったのではないかと彼自身が疑うほどであった。
罪悪感に負けてお湯を飲むことはできなかったものの、彼は異世界に来て初めての風呂を十分に堪能した。
- - - - - - - -
用意してくれていた服に着替えて、台所へ向かう。
(そういえば、目が覚めたときもこの家の服を着せてもらっていたけど、もともと着てた服はどこだろう。というか、もしかして気を失っている間に身体を洗ってもらって着替えさせてもらったのか!?)
メイアの前で気持ち悪い顔をしないように、ニヤニヤを押さえつけて台所に入る。メイアは椅子に座って本を読んでいた。
「昼飯は昨日の残りだ、好き嫌いせずに食うんだぞ。あ、その前に髪を乾かせ。温風くらい出せるだろ?」
(え?温風を…、出す?)
キョトンとしている彼を見てメイアは首をかしげる。
「さっさと魔法で髪を乾かせよ、飯食わせねえぞ。」
「ま、魔法…?」
彼は思い出した。ここは異世界である。化け物や獣人が存在するのだ、魔法が存在してもおかしくない。ここまで、名前を失った衝撃と、メイアへの恋心が彼の脳を満たしていたため、魔法のことなど頭の片隅にもなかった。
疑問形で返答する彼を見て、メイアが一瞬固まる。
「お前まさか、魔法も使えないのか!?って言っててもしょうがないな。あたしが乾かしてやるよ。」
メイアは彼を椅子に座らせ、片手で髪をわしゃわしゃさせながらもう片方の手から温かい風を放つ。温風を放つ際に〈ワーメア〉と呟いていたが、そんなことを気にすることもなく、彼は
髪を綺麗に乾かしてもらってホックホクになった彼の前に、木の皿によそったホワイトシチューが置かれる。この世界に来て最初の食事だ。
「食料には困ってないから遠慮せず食べてくれ。おかわりもあるからな。」
「ありがとうございます!」
ドキドキで喉を通らないかと思いきや、彼の予想以上に胃は食べ物を求めていた。次々とスプーンがシチューを口に運ぶ。具は人参にジャガイモ、玉ねぎと豚肉、日本で食べていたものよりもサラサラしているため、満腹感を感じるまでにかなりの量が胃の中に流し込まれた。
「あっはは、そんなに腹が減っていたのか。お前を見てると作ったかいを感じるよ。喉には詰まらせるなよ。」
シチューに夢中になる彼を見て、メイアは楽しそうに笑っていた。
- - - - - - - -
満腹になった彼は食器洗いを手伝いながらメイアと話していた。
「そういえば、名前は思い出せそうか?」
「うーん、無理そうですね。」
考えても無駄な気がした彼は、名前については諦めた。
「メイアさん、こんなに親切にしてくれて、ありがとうございます。」
会話が一瞬途切れたので、彼は改めてお礼を口にしてみる。それに対し、メイアは恥ずかしそうに笑う。
「気にするな。それに、あたしこそ最近退屈してたからな。実は家族以外と話すのは、お前が初めてなんだぞ。」
(え、まじ?)
彼は自分がメイアにとって特別な存在の一人になれたことを心の中で喜んだ。ただ、
「今はご家族と暮らしてないんですか?」
「ああ、もともとあたしは母さん一人の手で育てられたんだ。母さんは一年くらい前に病気で死んだから今は一人暮らしだな。」
デリケートな質問をしてしまったと彼は申し訳なさを感じた。そんな彼を見てメイアは話題を変える。
「そういえば、お前はこれからどうするんだ?」
「あ、ええっと…」
そんなこと全く考えていなかった。窓から見た景色は、この家が森の中の一軒家であることを語っている。この家を出ても、森の中で迷って野垂れ死にするだろう。森を出たことがないであろうメイアにおそらく案内は難しい。彼としてはこの家でお世話になりたいが、そんな図々しいことを自分からは頼むことができない。
どうしようもない状況の彼を見てメイアはにこりとして口を開く。
「行く当てがないならここで暮らさないか?あ、もちろん家事とか仕事を手伝ってもらうけどな。」
まさに彼が待っていた言葉だった。
「ありがとうございます!是非、よろしくお願いします!」
安心感と嬉しさに満ちた最高の笑顔で返事をした。
「あっはは、こちらこそよろしく!そうと決まればあたしたちはもう家族なんだから、敬語とかさん付けはやめろよな。」
「わ、わかったよ。メイアさ…、メイア。」
「あっはは、ぎこちねーな。」
照れくさそうな彼を見て、メイアは嬉しそうに笑う。山奥の家で二人暮らし、ワンチャンメイアと恋仲になれるのではと彼の期待は膨らんでいく。
「さてと、あたしもお前って言い続けるわけにはいかねーから、お前の名前考えるか。えーっと、森の中で拾ったから、〈モリオ〉とかどうだ?」
冗談か?と思って彼はメイアの顔を見るが、メイアはニコニコして彼の反応を待っている。冗談じゃ、なさそうだ。
(も、モリオ!?全国のモリオさんには申し訳ないけど、なんかダサいというか、古くね?でも、自分で名前考えるのもなあ。どんな名前が無難なのか分からん。せっかくメイアが考えてくれたし、モリオでいいや。)
彼が思考を巡らせた結果、メイアの案を受け入れることにした。
「うん、モリオでいいよ。」
「じゃあ、決まりだな。モリオ、よろしくな。あっはは、人の名前をつけるだなんて母親みたいだな。」
楽しそうなメイアを見て、彼の心は満たされる。
この世界のことについてはまだ分からないことが多い。しかし、彼の中に不安はない。これからこの場所で楽しく過ごしていくのだ。
彼の異世界生活は、最高のスタートを切った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます