第1話『失った名前』
ふと気がつくと、彼は薄暗い部屋の中でベッドに入っていた。温かくて、心地よくて、ここから出る気がおきない。頭まで毛布に潜り、身体を丸めた。そうして再び夢の世界に足を踏み入れ……
「あれ、あの男どこいったんだ?」
キィーとドアを開ける音とともに、まだ声変わりもしてない少年の声が聞こえる。それによって、彼の意識がはっきりしたものになる。
よくよく考えるとここは、
(俺の家ではない。)
+ + + + + + + +
彼は、平成の時代に日本に生まれた人間であり、現在大学二年生である。
とはいうものの、大学にはほとんど行っていない。
高校生の頃までは、ちゃんと学校に通っていたし、ある程度真面目に勉学に励んでいた。友達も何人かいたし、それなりに充実していた。
大学は、地元から少し遠いところに進学、それとともに親しかった友人たちと離れることに。新しい土地で、新しい友人をつくって、充実したキャンパスライフを送るんだと期待を膨らませていた……
……が、現実は違った。そもそも一人たりとも友人ができない。
彼の性格が悪いわけではない、いじめられているわけでもない。ただ、消極的なだけだ。
最初のうちは、それなりに話しかけられた。大学入試の感想や点数比べ、出身地や趣味などの話題が多く、それなりに会話がはずんだ。一部の人たちとよく行動をともにするようになり、充実したキャンパスライフへの第一歩を踏んだはずだった。
しかし、そのグループに、彼は合わなかった。初めは仲良くしていたが、いくらかともに過ごしていくうちに、グループの中で孤立していることに気づく。みんな優しいので、彼にも話を振ってくれるが、あまり会話が広がらない。どうして、だろうか。彼、そしておそらくみんなも、気まずさを感じていた。
彼はグループの最後尾にただついていくだけの存在になった。もちろん話しかけてくれる人もいるが、たいした会話にはならない。次第にみんなとの距離が開いて、開いて……
……彼は、ぼっちになった。
消極的な彼には、もう友人をつくることができない。
絶望的なキャンパスライフに慣れてきたある日、寝坊して講義をサボった。でも、単位はとれるものだ。義務教育に慣れていた彼は、最初は講義を一度も欠席することはなかった。だがしかし、一度サボりを覚えてしまうともうダメだった。次第に大学に行く頻度が落ちて、落ちて……
……クズに成り下がった。
+ + + + + + + +
現在置かれている状況を把握するために、彼はまず自分の記憶をたどる。
(確か、一人カラオケに行って、帰り道に突然深い霧が発生して…)
そこからの記憶がない。強いて言うならば妙にはっきりと、恐ろしい夢が記憶に残っている。
化け物が潜む森の中で、鼻をかんだ直後に目の前が炎に包まれ、炎の中から飛び出してきた化け物が突然死に、使用済みのティッシュを拾うためにその死体を漁った。
知らない場所、存在しない生物、意味の分からないシチュエーション、自分が本来しないような行動。さすがに夢だろう。
記憶をたどってはみたものの、結局状況が把握できない。
(もしかして誘拐されたのか?なんで俺を?いや、誘拐にしては待遇が良すぎる気がする。じゃあ助けてもらったのか?なんで?そもそも俺はどういう状況だったんだ?)
彼の頭の中はもうぐちゃぐちゃの混沌と化している。
「あ、毛布に潜ってるのか、出てこーい!」
再び少年の声が差し込んで、彼の思考は止まる。混沌が消えて、少年の声に注意が向く。残念ながら、これ以上考える時間も、意味もなさそうだ。無駄に思考を巡らせて混乱するよりも、成り行きに任せるべきだ。
彼は毛布から顔を出し、上体を起こす。
「お、起きてんじゃん。気分は悪くないか?」
体調を心配する言葉のおかげで、彼はほんのすこーしだけ安心感を覚える。
「はい、大丈夫で……」
少年の声に対する返答をしつつ、振り向く。
「……す。」
最後の一文字が極端に小さくなる。振り向いた彼に多少の衝撃があった。少年の声だと思っていたのに、明らかに女性だった。
「ん?どうした?」
振り向いた直後の一瞬は、見た目が想像と異なり過ぎて驚いたが、よくよく見ると声と見た目はマッチしている気がする。
身長は二メートルぐらいありそうだ。布で出来た短パンをはいており、胸にさらしを巻いている。肌は健康的な小麦色をしており、茶色と黒とグレーが混ざった長い髪が引き締まった身体の後ろで縛られている。きりっとした細眉、長いまつ毛と鋭い目つき。顔立ちは整っており、かっこよくて美しいという感じだ。こんな女性から少年の声が聞こえてもそこまで違和感はない。ただ……
……側頭部の少し後ろ側の髪の毛の隙間から動物の耳が生えている。そして、ところどころ、すね毛が生える場所に、人間のものとは思えない、ふわっふわの体毛が生えている。
この人は、獣人?
彼の頭の中が一瞬真っ白になる。彼は考えることをやめた。
「そういえば、お前森の中で何をしてたんだ?すごい魔力を感じて様子を見に行ったときに見つけたんだが、明らかに様子が異常だったぞ。」
(森、森?あれって現実なのか?)
幸い、現実味がなさ過ぎて、吐き気などはこみ上げてこない。ただ、あの記憶が、目の前の事実が現実であれば、この世界は……
(……異世界?)
異世界だと思い始めると、今まで混乱していたのが噓かのようにすっきりと納得してしまう。今までの出来事は、日本では起こりうることではないため、世界が違うのだと思わなければ納得ができない。
「あの時の出来事は、自分でもよくわからないんです。ごめんなさい。あと、助けてくれてありがとうございます。」
自分自身でもあの状況、あの時の自分の行動が理解できない彼は、とりあえず今言えることを伝える。女性は彼に微笑みかけて、彼の頭に手を置いた。
「そうか、大変な思いをしただろう。あたしこそ、お前みたいな優しそうなやつを助けることができて良かったよ。」
その時、一瞬にして彼の全身は熱を帯びる。
(ヤバい、惚れたんだが。)
女性経験がない彼にとって、美しい女性に微笑みかけられながら頭を撫でられることは、刺激が強かった。一瞬で鼓動が最高速度に達する。恋をしたことがないわけではないが、これまでの比ではないほどにドキドキしている。幸せを感じている。
「あたしはメイア、メイア・ガリアだ。お前は?」
名前を聞かれた。それにしてもメイア、いい名前だなあ。
「俺は……」
名乗ろうとしたとき、高ぶっていた心が一瞬で冷める。
(……俺は、なんだ?)
聞かれるまで全く気が付かなかった。どうして、どうして、絶対に忘れるはずがない。なぜ、なぜ、他の記憶はあるのに。いや、ところどころ記憶が抜け落ちているのだろうか。とりあえず、彼が今はっきりと理解したことは……
「……名前が、思い出せない。」
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