わたしの隣の希死念慮
一澄けい
前編
わたしの人生は、平凡そのものだ。だけどそれでいて、恵まれたものだと、そう思っている。
特に大きな不幸もない。消えない傷が残るような、そんな苦しい経験だって、したことはない。そんなわたしの人生が恵まれていない、だなんて。きっとそんなこと、口が裂けたって言えない。
でも。それでも。生きるのはひどく大変で、それでいて、ひどく疲れるものだ。
大した不幸もない。だけど、特に満たされるわけでもない毎日。重い身体を引き摺って、毎日なあなあに働いて。周りの人間の顔色を窺って、必死で気を遣って。自分を押し込めるようにして。周りに適当に同調して。その繰り返し。
こんな毎日を、きっとわたしは、わたしが死ぬその瞬間まで繰り返すのだ。
ああ、しんどいなあ。生きるのって、疲れるなあ。
ああ、死にたいなあ。ふと、そんなことを思った。
だってどうせ、わたしが死んだって誰も困らない。上司も、同僚も、それから家族さえも、きっと。わたしが死んだって、誰も困らないし、誰も悲しまないのだ。
それなら、死んだっていいじゃないか。生きるのに疲れたなら、死んでしまえばいい。そう思った。
それからのわたしの行動は、早かった。
まず、死に方を調べることにした。「自殺 方法」とスマホに打ち込んで、検索をかけてみる。
真っ先に飛び込んできたのは、相談ダイヤルの番号だった。その悩みを相談してみませんか、なんて。一種の綺麗事のようにも見えるその文言を、わたしはスマホの画面をスクロールすることでやり過ごす。
生きるのに疲れた。そんな悩みにも満たないようなものを抱えただけの人間には、死ぬ資格すらないとでも言われているようで、なんだか無性に腹が立った。
わたしは、そんな綺麗事を目に入れないようにして、ひたすらに画面をスクロールする。ひたすらに画面を動かして、わたしはようやく、目的の記事に辿り着いた。
ずらりと羅列した自殺方法を眺める。やっぱり首吊りが堅実かな。それならロープを買いに行かなきゃ。重い腰を持ち上げて、わたしはロープを調達すべく、ホームセンターへ向かった。
丈夫そうなロープを購入して、家へと戻る。
首吊り、といえば、天井など高いところにロープなどを固定するイメージが強いけれど、実際は椅子の背もたれみたいに低いところに固定しても問題ないらしい。天井にロープを固定するのはなかなか骨が折れそうだけれど、椅子の背もたれなら、きっと簡単に固定できるだろう。文明の利器に感謝しながら、わたしは椅子の背もたれに、ぐるぐるとロープを固定していく。
キュ、とロープを結んで、これで準備ができた、と、そう思った時だ。
ガチャ、と玄関のドアが開く音がした。続いて聞こえてくるのは「はるかちゃ〜ん、帰ったよぉ〜?」という、間延びした声。
その声に、わたしはピタリ、と動きを止めた。
ああ、もう帰ってきたんだ、と。そんなことをぼんやりと考える。
いつもは夜遅くまでどこかをほっつき歩いているくせに、どうしてこんな時だけ、こんなに早く帰ってくるのだろう。
そんなことをぼんやりと考えている間にも、パタパタと足音が近付いてくる。
まずい、早くしなくちゃ。早く死ななくちゃ、と。慌てて首にロープを巻き付けようとするけれど、うまくいかない。
「だめだよ、はるかちゃん」
甘い甘い声が、耳元で囁いた。次の瞬間、わたしの身体は、柔らかくてあまい香りのする少女に、やさしく抱き締められる。
「ボクを置いて、死んじゃだめだよ」
麻薬みたいに甘い声が、再び、わたしの脳髄を優しく揺らして。
ああ、今回もダメだったな。
脱力したわたしの手のひらから、するりと、ロープが落ちていった。
「また構ってほしくなっちゃったの、はるかちゃん」
「……違うし」
脳髄を溶かすような甘やかな声で、少女はわたしに言った。その問いに、わたしはいつだって「ちがう」と首を振るけれど、その「ちがう」が嘘で、少女が問うたことが本当だということぐらい、とうの昔に分かっていた。
緑のアイコンの、メッセージアプリ。そのアプリから、わたしを優しく抱き止めている少女に向かって、ほんの数分前に送った、たった一言のメッセージ。
『生きるのに疲れた』
本当に死にたいなら、そんなメッセージを送る必要なんてないのに。わたしは馬鹿みたいに、死のうとするたびに、毎回、少女にそんなメッセージを送り続けている。
わたしに構ってほしい。わたしを見つけてほしい。虚構のわたしじゃない。本当の、本物の、嘘に隠したわたしを。
生きるのに疲れた、なんて。そんな馬鹿みたいな理由で死のうとするわたしを、引き止めてほしい。
それだけで、きっとわたしは、明日も生きていけるから。
あなたがそうやってわたしに構って、わたしをここに引き止めようとしてくれるなら。どんなにしんどい明日も、どんなに味気ない人生だって、生きていける気がするのだ。
「……もう、大丈夫?」
「……うん」
「そっか」
じゃあもう、これは要らないね。少女はそう言って、わたしの手のひらから滑り落ちたロープを、ゴミ箱へと放り投げた。
もう、幾度となく見た光景。わたしたちの部屋には、わたしの体には、こうやって幾度となく死のうとした痕が、幾つも残っている。
わたしが生きるための儀式の痕が、何個も、何個も。
「はるかちゃん」
少女が再び、わたしの身体をやんわりと抱きしめた。
わたしは少女の細い腕に、自身の手のひらをそっと重ねる。
白くて、細くて、一見冷たそうにも思えるその腕は、当たり前だけれど、ひどく温かい。生きている人の体温だ。
少女が何を思って、わたしにこんなにも優しくしてくれるのかなんて、わからない。だけど、この体温に。わたしを優しく抱きしめる少女の健気な優しさに、きっとわたしは救われている。
救われて、生かされて、だけどその優しさは、わたしにとっての足枷のようで。
ああ、やっぱり苦しいよ。こんなにも情けなくて、みっともないわたしを抱えたまんま、生きていくのは苦しくて、しんどいよ。
ああ、きっと。明日のわたしは。
生きるのに疲れたなんて理由じゃなくて。
今、こんなにもわたしを満たしている、あなたの優しさのせいで。どうしようもなく、死にたくなるのだろう。
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