私が堕ちた日
甘野 雫
第1話
全ては刹那の出来事でした。思い出すのも難しく、だからといって忘れられさえしません。それは、私が会社から帰路へ着いた際のことです。
その日の私は会社の屋上へ何故だか無性に行きたくなり、訳もなく屋上への階段を登ったのです。正直暗いところはあまり好きではないので、普段なら1人で行くことはありませんが、なぜか、その日だけは違ったのをよく覚えています。
階段を登っている途中でふと耳に入ってきたのは女性と男性の会話の声でした。そっと近づき、影から会話の内容を聞いていると、最上階から屋上までの階段の踊り場のところでは、よく一緒に飲みに行く上司と、別の部署で美人と噂の水田さんが愛を囁き合っていたのです。
「好きだよ。由紀は?」
「私も、新田さんのこと、大好きです。」
といった具合だったと思います。私は、今まで彼女はいたことあるものの、まさかこのような美しい場面に出会えるとは思っておらず、私は不本意ながら浮かれていました。
屋上へ行くというなんとも言えない虚しい思いは消えましたが、私には夢と愛の心が芽生えていました。誰かを愛し、愛されたい。家族同士で、とかでは決してありません。恋人や愛人として、です。
会社から出たとき、普段なら鈍く見える街の背景が、その時だけは、水彩絵の具の原色だけを使って描いた時のように明るく見えてました。それほど浮かれていたのです。
そのような心持ちだったら事件が起こるのも仕方がないとは今でもなお思います。
会社を出てからはいつもの通りです。見飽きた携帯会社を左に曲がり、1分ほど歩いたところにある八百屋のおじさんに挨拶し、週に2回見かけるメイドカフェの女の子からチラシを断り、そして、人気のない商店街の中を闊歩するだけ。
そんな人生で、奥さんも持たずに、ましてや恋人すら難しい私に何が楽しいと言うのでしょう。楽しいと思ったことは、全て学生時代で消え果てたのです。何をしたかと言われると、それは少し秘密ですが、大したことはしてないと断言できます。その程度のものです。
しかしその日は全てが違いました。まるで、覚醒剤でもした時のような–もちろんしたことはありませんが–楽しさ、と言うか、快楽…一周回って哀愁にさえなりそうなほどの心情でした。上司と同僚の恋愛を垣間見ただけで、です。私は気持ち悪い人なのでしょうか。自分にはよくわかりません。ただ、この快楽を永遠に噛み締めたかった。それだけです。
そんなことを考えてるときでした。悠長に歩いている場合ではなかったのです。シャッターの下がった店の前には、1人の少女が倒れていました。長い黒髪の、お世辞でも美しいとは言えない服を身に纏っている子です。私は基本小さくて汚らしいものには触れないようにしているのですが、彼女に対しては違いました。それが今日だからなのか、それとも彼女だから許せるのかは分かりません。ただ、触れたいとしか思いませんでした。
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