第四幕:virtual
第四幕:virtual
シリア・アラブ共和国での作戦行動が失敗に終わってからちょうど一週間が経過したとある月曜日、特殊工作員であるレオニードの姿は、彼が所属する『クラースヌイ・ピスタリェート』の司令部の地下のトレーニングルームに在った。
「九十七……九十八……九十九……百!」
プレスベンチに横たわった状態のまま重量が100㎏を超えるバーベルを上下させ、いわゆるインクライン・バーベル・ベンチプレスに臨んでいたレオニードはそう言って都合百回のプレスを終えると、バーベルをスタンドに固定してからゆっくりと上体を起こして一息つく。
「ふう」
いつもの都市型迷彩服ではなくアディダス社製のトレーニングウェアに身を包んだレオニードはそう言って一息つくと、バーベルスタンドに掛けてあったフェイスタオルを手に取り、そのタオルでもって全身をじっとりと濡らす玉の様な汗を丁寧に拭い取った。
「……」
フェイスタオルを手にしたレオニードは無言のまま、今からちょうど一週間前の、シリア・アラブ共和国での作戦行動の夜に思いを馳せる。
「あの時、イエヴァに代わって俺が大使の娘を始末していれば……いや、それ以前に大使の寝室の扉をしっかりと施錠してさえいれば、少なくとも最悪の事態だけは回避出来たと言うのに……」
呼吸を整えながら独り言つようにそう言ったレオニードの脳裏には、ダマスカスの街の郊外の高級住宅街に建つ、
「駄目だ、雑念が混ざる。トレーニングに集中しないと」
気を取り直して
「やあ、レオニード。精が出るな」
果たしてそう言いながらレオニードに歩み寄った背の高い人影は、司令部の地下に存在する汗臭いトレーニングルームには似つかわしくない、手入れが行き届いた軍服に身を包んだミロスラーヴァ少佐であった。
「これは少佐殿、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様。なあレオニード、今、少しだけ時間を貰えるか?」
軍服姿のミロスラーヴァ少佐がそう言って問い掛ければ、レオニードは「ええ、別に構いませんよ」と言ってバーベルを上下させていた脚を止め、レッグプレスマシンから腰を下ろしてトレーニングルームの床に降り立つと同時に彼女に向き直る。
「それで少佐殿、少佐殿が改まってこの俺なんかに、一体何のご用でしょうか?」
「そうだな、少しばかりキミと話し合いたい事があるのだが……こんな所で立ち話も何だから、上の階のあたしの執務室に行こう。あそこなら何を話しても、誰かに聞き耳を立てられる心配も無い筈だ」
「ええ、お供します」
そう言ったレオニードはミロスラーヴァ少佐に先導されながらトレーニングルームを後にすると、廊下を渡って司令部のエレベーターに乗り込み、やがて佐官階級の将校であるミロスラーヴァ少佐の執務室が在るべき階層へと足を踏み入れた。そして重く頑丈な扉を開けて二人揃って執務室に足を踏み入れてから、レオニードが後ろ手にその扉を閉めて施錠する。
「楽にしろ」
ミロスラーヴァ少佐がそう言えば、ぴんと背筋を伸ばしていたレオニードは姿勢を崩すものの、さすがに上官の前だけあって執務室の中央に設置されたソファに腰を下ろす事は無い。
「キミも吸うかい? あたしの記憶が確かならば、レオニード、確かキミもあたしと同じ喫煙者だった筈だな?」
執務室の窓辺の文机の上に置かれた葉巻入れから二人分の葉巻とシガーカッターを取り出したミロスラーヴァ少佐はそう言って、レオニードに葉巻を勧めた。
「ええ、いただきます」
喫煙を勧められたレオニードがそう言うと、ミロスラーヴァ少佐はシガーカッターで吸い口を切り落とした二本の葉巻の内の一本をレオニードに手渡し、豪奢な装飾が施されたカルティエ社製のライターでもって彼と彼女の葉巻の先端に火を点ける。
「残念ながらキューバ産の最高級品と同等とまでは言えないが、フィリピン産のこれだって、なかなかの味わいだろう?」
ぷかぷかと紫煙を
「ええ、確かに少佐殿のお言葉通り、なかなかの味わいです」
アディダス社製のトレーニングウェアに身を包んだレオニードはそう言いながら、軍服姿のミロスラーヴァ少佐と共に、彼女の執務室の窓辺でぷかぷかと紫煙を
「それで、少佐殿? わざわざ少佐殿が、この俺なんかと話し合いたい事とは?」
「ああ、その件についてなんだがな。実はあたしの部下達に、スタニスラフ大佐の言葉を信じるならば近々『クラースヌイ・ピスタリェート』が解散された後の身の振り方をどうすべきか、各自の意見を確認しておこうと思った次第だ」
どうやらミロスラーヴァ少佐は、部下達の今後について気を揉んでいるらしい。
「レオニード、キミはあたしの知る限りでも三本の指に数えられる、極めて優秀な特殊工作員だ。キミの様な類稀なる人材を喉から手が出るほど欲しがっている国家や組織は、この世に星の数ほども存在するに違いない。しかしながら、如何にキミが特殊工作員として優秀だからと言って、こんな薄汚い血と油にまみれた裏社会でいつまでも生きて行かなければならない道理も無い筈だ。だからこそ今回の解散劇を好機と捉え、いっそ陽の光の当たる真っ当な市民社会で大手を振って生きて行くべきか、それともこれまで通り裏社会でひっそりと息を殺して生きて行くべきか、キミはその岐路に立たされていると言っても過言ではないだろう。さあ、どうする、レオニード?」
「俺は……」
突然のミロスラーヴァ少佐の予期せぬ問い掛けに、レオニードは葉巻を手にしたまま何と言って返答すべきか言葉が見つからず、もごもごと言い淀むばかりであった。これまでの短い人生に於いて、その多くの時間を裏社会に身を置いて来た彼にとっての真っ当な市民社会とは決して手の届かない憧れの存在であり、自分がそれを享受する身分になるとは想像も出来なかったからである。
「勿論、キミの今後の身の振り方について、今すぐにでも明確な返答を口にする必要は無い。我らが『クラースヌイ・ピスタリェート』の解散は、もう少しだけ先の話だ。だからその時までに決意を固めておく事を、あたしは推奨する」
「……でしたら、少佐殿はどうするおつもりで? 部隊の解散後も、軍部に残留し続けるおつもりですか?」
「あたしは……」
今度は、ミロスラーヴァ少佐が言い淀む番であった。
「……つい今しがた偉そうな口を叩いてしまった舌の根も乾かぬ内にこんな事を言うのもなんだが、実際問題として、このあたしもまた今後の身の振り方については考えあぐねていると言わざるを得ない。女だてらに昇進を重ねる機会に恵まれ、幸運にも少佐の地位にまで上り詰めたものの、実家に残して来た家族の事を考えるとどうしても負い目を感じてしまってな」
やはりぷかぷかと紫煙を
「あたしの息子達だ。どうだ? 可愛いだろう?」
嬉しそうに、そして少しばかり照れ臭そうにそう言ったミロスラーヴァ少佐が差し出した写真立てには、真っ白い雪が降り積もった雪原で大型犬と一緒に遊ぶ二人の男の子達の写真が飾られていた。
「可愛いお子さん達ですね。今、何歳ですか?」
「上の子が七歳で、下の子が四歳になったばかりだ。それにちょうど下の子が物心がつき始めた頃だし、まさに可愛い盛りとはこの事だよ。この子達がすくすく育って、やがてあたしが庇護するこの国で幸せな人生を謳歌してくれるのかと思えば、自然と軍服に袖を通す手にも力が入るってものさ。まったくもって、子に過ぎたる宝無しとはよく言ったものだよ」
眼を細めながらそう言ったミロスラーヴァ少佐に、レオニードは改めて問い掛ける。
「しかしながら少佐殿、少佐殿はつい先程「実家に残して来た家族の事を考えると」と仰いましたが、今現在の少佐殿とこの子達は同じ家屋で一緒に生活してはおられないのですか?」
レオニードがそう言って問い掛ければ、どうやら女丈夫として知られながらも子煩悩でもあるらしいミロスラーヴァ少佐は、にわかに顔を曇らせざるを得ない。
「ああ、確かにキミの言う通りだ。今からおよそ十年前、地方の軍事施設に勤める一介の下士官に過ぎなかったあたしは小さな農場を営む今の夫と結婚し、子宝にも恵まれる幸運を享受した。しかしながらひょんな事から中央の指揮官として抜擢されると、地元に夫と子供達を残したままあたし一人だけが上京し、こうして家族ばらばらの生活を余儀無くされていると言う訳さ」
「それはまた……何と言いますか……お辛いですね」
「なあに、そうでもないさ。今では単身赴任にもすっかり慣れて、独身同然の悠々自適な今の生活を、心から謳歌しているよ。まあ、それでも時々、子供達に会いたくて仕方が無くなる夜もあるがね」
寂しそうに笑いながらそう言ったミロスラーヴァ少佐が敢えて本心を語らず、部下の前だからこそ強がってみせている事は、如何に人間関係に鈍感なレオニードにも容易に察しがつく。
「しかし、だからと言って、あたしは結婚して子供をもうけた事を決して後悔してはいない。いやむしろ、子供達が居たからこそ今まで頑張って来れたと言っても過言ではないだろう。だからレオニード、キミがこのまま軍人であり続けるにせよ一介の人民へとその身を
そう言ったミロスラーヴァ少佐の言葉に、彼女に諭されるような格好になったレオニードの心境は複雑であった。
「結婚……ですか」
やはり人生の多くの時間を裏社会に身を置いて来たレオニードにとって、結婚の二文字もまた真っ当な市民社会と同じく見果てぬ夢であり、決して手の届かない憧れの存在なのである。
「ああ、そうだ、結婚だ。キミもまた部隊の解散後の身の振り方について悩んでいるのなら、いっその事、身を固めると言う選択肢も視野に入れておくべきだからな。世の中には結婚は墓場だなどと言う者も少なくないが、少なくともあたしに限って言えば、結婚は何にも勝る僥倖だったよ」
ミロスラーヴァ少佐はそう言うと、彼女の執務室の文机の天板の上に置かれていた大理石の灰皿でもって、根元まで吸い終えた葉巻の火をぎゅっと揉み消した。するとそんなミロスラーヴァ少佐に、今後の身の振り方について改めて問い質されたレオニードは、かつてウクライナのホテルハイエロファント・キエフのレセプションホールで出会った旧友の顔を思い出しながら話題を変える。
「ところで少佐殿、一つ、お聞きしたい事があるのですが」
「ん? 何だ、改まって?」
「少佐殿は、カーティス・キンケイドと言う名の男を覚えておいでですか?」
「ああ、勿論覚えているとも。我らが『連邦』とは敵対関係にある『連合王国』の秘密情報部の諜報員の一人であり、レオニード、キミの良き
唐突に問い掛けられたミロスラーヴァ少佐が小首を傾げながらそう言えば、レオニードは旧友であるカーティスが持ち掛けた『連合王国』への亡命に関する一件を吐露せざるを得ない。
「実を言いますと、以前そのカーティスから、何であれば『クラースヌイ・ピスタリェート』の解散を機に『連合王国』へ亡命しないかと打診されたのですが……」
「何? 亡命だと?」
亡命を打診されている事を吐露したレオニードの言葉に、彼の直属の上官であるミロスラーヴァ少佐の顔色が変わった。
「ええ、そうです、亡命です。なんでも『連合王国』の秘密情報部が諜報関係の部署を新設しようと画策しているらしく、そこの諜報員として我々の様な人材を欲しがっているかもしれないがために、亡命に関して彼の上官に掛け合ってみるとカーティスは説明していました」
「そうか、亡命か……」
ミロスラーヴァ少佐は腕を組み、顎に手を当てながらそう言って思い悩む。
「……亡命を打診されたのは、レオニード、キミ一人だけか?」
「いえ、俺だけでなく、俺の仲間達の様な人材も欲しがっているかもしれないとカーティスは言っていました。勿論明言された訳ではありませんが、俺以外の隊員達も亡命出来る可能性は残されているものと推測されます」
「成程」
そう言って得心したミロスラーヴァ少佐は、手に取ったままの写真立てを、文机の天板の上にそっと置き直した。写真立ての中に飾られた写真に写る二人の幼い息子達が、彼らの母であるミロスラーヴァ少佐をジッと見つめている。
「よし、分かった。それではあたしの方からもカーティス・キンケイド、並びに『連合王国』の大使館や外務省と極秘裏に交渉し、あたし達の亡命に関して話を進めてみよう。レオニード、予期せぬ交渉材料を持ち寄ってくれた事を、感謝する」
「滅相もありません、少佐殿」
レオニードが姿勢を正しながらそう言って謙遜すれば、ミロスラーヴァ少佐は文机の上の葉巻入れから都合二本目の新たな葉巻を取り出し、シガーカッターでもって吸い口を切り落としたそれを咥えて先端に火を点けた。そして彼女の執務室の天井に向けてふうっと紫煙を吐き出しつつも、アディダス社製のトレーニングウェアに身を包んだレオニードに退室を促す。
「それではレオニード、そろそろキミはトレーニングルームに戻り、来たるべき新たな作戦行動に備えて日々の鍛錬に励みたまえ。そして今後の亡命に関する諸々の交渉は、全てこのあたしが引き受ける事としよう」
「ありがとうございます、少佐殿。それでは、これで失礼させていただきます」
そう言って踵を返し、彼女の執務室から出て行こうとするレオニードの鍛え抜かれた背中に向けて、ミロスラーヴァ少佐は改めて忠告せざるを得ない。
「それとレオニード、さっきも忠告させてもらったが、キミもそろそろ結婚の是非に関して真剣に検討してみたまえ。家族が増え、守るべき、そして帰るべき温かな家庭を手に入れれば、自然と仕事にも生活にも張りと潤いを得ると言うものだ」
ぷかぷかと紫煙を
「確か、レッグプレスの途中だったな」
レオニードは記憶の糸を手繰りながらそう言うと、大腿四頭筋や大臀筋や中臀筋と言った下半身の筋肉を改めて鍛えるべく、レッグプレスマシンが設置されたトレーニングルームの壁沿いの一角へと足を向けた。するとレッグプレスマシンの元へと辿り着くその道中で、不意にトレーニングベンチに腰掛けたままダンベル運動に励む二つの人影が眼に留まる。
「ヴァレンチナ、イエヴァ、キミ達もここに居たのか」
果たしてそう言ったレオニードの言葉通り、トレーニングベンチに腰掛けたままダンベル運動に励む二つの人影は、彼と同じく『クラースヌイ・ピスタリェート』に所属する特殊工作員であるヴァレンチナとイエヴァの二人であった。
「あ、レ、レオニード、おおお、おつ、お疲れ様です!」
「……お疲れ様です」
彼と同じくアディダス社製のトレーニングウェアに身を包んだヴァレンチナとイエヴァが二人揃ってそう言えば、レオニードもまた「ああ、お疲れ様。キミ達もこんな時間からトレーニングとは、随分と張り切っているな」と言って二人を労い、暫し三人はダンベルを持ち上げる手を止めて歓談する。
「レ、レオニード、あ、ああああなたも、こ、これからトレーニングを始めるところですか?」
「いや、キミ達よりも早くここに来て早朝からトレーニングを開始していたんだが、つい今しがたまでミロスラーヴァ少佐に呼ばれて彼女の執務室に居てね。だからこれから、途中で手を止めていたトレーニングを再開するところだ」
「そ、そうなんですか、レレレレオニードも、ミロスラーヴァ少佐に呼ばれていたんですね?」
「俺もと言うと、キミ達も?」
「そ、そそそそうなんです、あ、あたし達もほんの一時間ほど前までは、ミ、ミロ、ミロスラーヴァ少佐の執務室に居たんです」
「……ええ、そうです。あたしもヴァレンチナと一緒に、ミロスラーヴァ少佐の執務室に居ました」
どうやらレオニードがミロスラーヴァ少佐の執務室に呼ばれる以前に、ヴァレンチナとイエヴァの二人もまた彼女に呼ばれて上階の執務室へと移動し、そこでミロスラーヴァ少佐からあれこれ尋ねられたものと思われた。
「それで、ミロスラーヴァ少佐は何と言っていた?」
「こ、この『クラースヌイ・ピスタリェート』の解散後の身の振り方とか、いいい今の仕事の内容に不満は無いのかとか言った点について、し、執拗に問い質されました。と、特に、ももももし仮に除隊して一介の人民になった際には、は、早く結婚して子供を産んだ方がいいぞと忠告された事を覚えています」
「成程」
やはりミロスラーヴァ少佐は、随分前に結婚適齢期を迎えてしまったレオニードだけでなく、ヴァレンチナやイエヴァと言った他の独身の隊員達にもまた早期の結婚と出産を勧めて回っているらしい。
「まったく、既婚者からの善意の忠告のつもりらしいが、ミロスラーヴァ少佐にも困ったものだ」
レオニードが溜息交じりにそう言えば、ヴァレンチナとイエヴァの二人もまた彼に同意する。
「そ、そそそそうですよね! こ、これって明らかに、あああある種のセクハラですもんね!」
「……結婚して子供を産めだなんて言われても、あたし、困ります」
ヴァレンチナとイエヴァの二人はそう言って不平不満を露にするが、しかしながらその一方で、ヴァレンチナ一個人だけに関して言えば決して彼女は結婚と出産を忌避してはいないらしい。
「ででででもあたし、で、でき、出来る事なら、ははは早く結婚して子供を産みたいんですよね」
「そうなのか?」
「え、ええ、ああああたし昔っから結婚願望が強くって、こ、こど、子供が一杯居る大家族にも憧れていましたから、けけけ結婚して子供を産む事そのものにはまるで抵抗が無いんです。た、ただそれを、たたた他人から強制されるのだけは、む、虫唾が走るほど嫌ですけどね」
「ああ、成程ね」
自分の意志で結婚及び出産するのは構わないが、それを赤の他人から無理強いされたくはないと言うヴァレンチナの意見に、レオニードはそう言って首を縦に振りながら得心した。そしてそんなレオニードはふと思い立ち、特にこれと言った他意も無いままに、軽い気持ちでもってヴァレンチナに問い掛ける。
「だとしたらヴァレンチナ、キミは今、敢えて自分から結婚したいような相手が身近に存在するのか?」
「え?」
するとレオニードの問い掛けに、虚を突かれるような格好になったヴァレンチナはそう言って眼を見開きながら、意外にもひどく驚いた様子であった。そして一度は見開いた眼を細めつつ、眼の前に立つレオニードの少しだけ青み掛かった濃褐色の光彩が特徴的な瞳を、ジッと熱っぽい眼差しでもって見つめ返す。
「そ、そそそそうですね、け、けけけ結婚したいと思うような人は、い、いな、居なくもないですよ?」
如何にも思わせぶりな表情と口調でもってそう言ったヴァレンチナは、僅かにそばかすが浮いた頬を紅潮させながら眼を逸らし、恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。しかしながら鈍感なレオニードは乙女心にも男女の人間関係にも疎いため、ヴァレンチナが一体何を考えているのか、また同時に彼女が何を求めているのかがまるで理解出来ない。するとそんなレオニードとヴァレンチナ、それにイエヴァの計三人が歓談しているトレーニングルームの一角に、不意にカーキ色の軍服に身を包んだ一人の女性が歩み寄るなり声を掛ける。
「あら? これはこれは三人お揃いで、随分と仲がよろしくって羨ましい限りじゃないかしら?」
果たしてこちらへと歩み寄るなり皮肉っぽくそう言った女性は、彼女らが所属する『クラースヌイ・ピスタリェート』でレオニードら特殊工作員達をサポートする任に就く、彼らの同僚たるガリーナその人であった。
「やあ、ガリーナ。見たところトレーニングに励むとは思えない服装のキミが、こんな所に何の用だ?」
レオニードがそう言って問い掛ければ、軍服姿のガリーナは彼の疑問に答える。
「ええ、あたしは言われなくても、汗臭いトレーニングなんかに興味は無くってよ? 只ちょっとだけ、あたしの未来の旦那様に悪い虫がつかないかどうかだけが心配になったから、こうしてわざわざ馳せ参じたと言う訳じゃないかしら?」
「未来の旦那様だって?」
「ええ、そうね? あたしの未来の旦那様と言うのは、レオニード、何を隠そうあなたの事でしてよ?」
事も無げにそう言ったガリーナの言葉に、まるで身に覚えの無いレオニードはその精悍な顔立ちを強張らせながら、ぎょっと驚かざるを得ない。
「おいガリーナ、一体何の話だ?」
「あらあらあら? もしかしてレオニードったら、あたしがずっと以前からあなたを
ガリーナはそう言うと、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような表情のレオニードと同じく驚きを隠せないヴァレンチナとイエヴァに向き直り、彼女ら二人をキッと睨み付けながら釘を刺す。
「ですからヴァレンチナもイエヴァも、くれぐれもあたしのレオニードに必要以上に近付かないように注意しつつ、決して彼を誘惑するような色目を使わないでいただけないかしら?」
まるで悪戯盛りの生徒達を諫める女教師の様な表情と口調でもってそう言って釘を刺したガリーナは、くるりと踵を返して廊下の方角へと足を向け、その足に履いたパンプスのヒールをかつかつと打ち鳴らしながらトレーニングルームから立ち去った。しかしながら彼女の言動に呆気に取られていたレオニードははっと我に返ると、その場にヴァレンチナとイエヴァの二人を残したまま、今まさにトレーニングルームと廊下とを繋ぐ扉を潜って立ち去ったばかりのガリーナの後を追う。
「おい、ガリーナ!」
ガリーナの後を追って廊下に出たレオニードはそう言って、少しばかり怒気を孕んだ声でもって彼女の名を口にしつつも、こちらに背を向けたまま前を歩くガリーナを呼び止めた。すると呼び止められたガリーナは特に驚く事も無く、余裕綽々とでも言いたげにゆっくりと振り返ったかと思えば、悪戯っぽくほくそ笑みながら眼の前のレオニードに問い掛ける。
「あらレオニード、未だ何か、あたしに用なのかしら?」
「何か用なのかしらじゃないだろ! さっきのキミの言い分は、一体何なんだ? いつから俺が、キミの未来の旦那様とやらになったと言うんだ?」
廊下を足早に縦断し、彼女の元へと駆け寄ったレオニードはそう言って問い質すが、問い質されたガリーナは一向に動じない。
「あらあらあら? もしかしてもしかすると、レオニードったら、あたしの事がお嫌いでして?」
「いや、その、だから、キミの事が好きだとか嫌いだとか、そう言った問題ではなくてだな……」
「でしたら今からでもあたしの事を好きになってしまえば、何の問題も無いんじゃないのかしら?」
やはり事も無げにそう言ったガリーナは唐突に、彼女の身を包むカーキ色の軍服とワイシャツの胸元を、ボタンを引き千切らんばかりの勢いでもって躊躇無く
「あたしったらこう見えても、過去に交際した男性全員から絶賛されるほどの床上手でしてよ? ですからレオニードも是非一度、あたしのおっぱいと肉壺の味を堪能してみては如何かしら?」
「何を言ってるんだ、ガリーナ! その胸を早く仕舞え!」
レオニードはそう言って、露になった眼の前の乳房を早く仕舞えと命令するものの、命令されたガリーナは悪戯っぽくほくそ笑むばかりで一向にそれに応じない。そして命令に応じるどころか胸元を
「あら? レオニードったら、もしかして照れていらっしゃるのかしら? それとも、こんな薄暗い廊下での情事はお嫌い? だったら今夜、あたしのアパートメントに訪ねて来てくださってもよろしくってよ?」
「もう止めてくれ!」
言葉巧みに、また同時にその官能的かつ煽情的な肉体を最大限に利用してでも彼を誘惑しようとするガリーナの豊満な身体を、レオニードはそう言って自らを律しながら力任せに振り払った。そして眼の前の獲物が目論見通りに陥落しなかった事を口惜しがるガリーナをその場に残したまま、廊下の先の男子トイレに足早に駆け込んで、図らずも難を逃れる。
「ふう」
さすがのガリーナも男子トイレの中にまでは追い掛けて来ない事を確認したレオニードはそう言って、手洗い場の鏡で冷や汗を掻く自分の顔を眺めながら、ホッと安堵の溜息を漏らした。するとそんなレオニードの名を、彼が駆け込んだ男子トイレに並ぶ小便器に向かって用を足していた、ぶくぶくに太った肥満体の男が呼び掛ける。
「あれ? レオニード? おいレオニード、どうしたんだ、こんな所で?」
果たしてそう言ってレオニードの名を呼び掛けた肥満体の男は、ガリーナと同じく『クラースヌイ・ピスタリェート』の特殊工作員達をサポートする任に就き、また同時にレオニードの同期でもあるアガフォンその人であった。命に係わるほどの重度の糖尿病を患っている彼の糖と淡白が過剰に含まれた真っ黄色の尿が、小便器に着水する度にじょぼじょぼと激しく泡立って止まない。
「ああ、アガフォンか。お前の方こそ、こんな所で何をやってるんだ?」
「俺は不要になった装備や機材なんかをこの階の地下倉庫まで放り込みに来て、ついでにトイレで用を足していたところだが、そう言うお前は……ああ、そこのトレーニングルームで筋トレでもしてたのか。レオニード、まったくお前は昔っから真面目な奴だな、本当に」
そう言って呆れながら用を足す肥満体のアガフォンの手には、彼が重度の糖尿病と通風と慢性的な尿管結石で苦しんでいるにも拘らず、人工甘味料たっぷりの炭酸飲料のペットボトルが握られている。
「なあレオニード、お前もミロスラーヴァ少佐に、彼女の執務室に呼ばれたのか?」
「ああ、呼ばれたよ」
「やっぱりお前も、結婚について聞かれたよな?」
「ああ、聞かれたよ」
「俺も一刻も早く彼女を作って結婚したいと思ってるんだが、どこかに同じように結婚したがっている女の子とか、居ねえもんかなあ? 例えば、あくまで例えばだが、イエヴァとかはミロスラーヴァ少佐に結婚について聞かれて、何て答えたと思う?」
やはり人工甘味料たっぷりの炭酸飲料のペットボトルを手にしたまま、じょぼじょぼと
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