第四幕:real


 第四幕:real



 やがて忘年会が執り行われた日から数えてちょうど一週間が経過したとある月曜日、年末年始の短い休暇を終えた俺ら開発スタッフ一同は、秋葉原UDXの24階の㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィスへと出社した。

「おっす、明けましておめでとう」

「ようケンケン、明けましておめでとさん。今年もよろしくな」

 出社した俺はそう言って寛治と新年の挨拶を交わし合うと、座り慣れた自分のデスクに腰を下ろし、出勤の打刻を終えてからデスクトップパソコンを起動して業務に邁進し始める。

「そうか、もう一月か……」

 俺はデスクの天板の上に設置された液晶タブレットに向き直り、Adobe PhotoshopとMayaを駆使しながらポリゴンモデルを作製しつつ、今更ながらそう言って時の流れの速さに思いを馳せた。今まさに開発している最中の、戦場体験型TPSである『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作は今春発売なのだから、既に開発は佳境に入っていると言っても過言ではない。そしてその『クラースヌイ・ピスタリェート』の登場人物であるレオニードやヴァレンチナやイエヴァのポリゴンモデルをブラッシュアップしていると、不意に俺のデスクへと小柄で痩せぎすな人影が歩み寄ると同時に口を開く。

「……犬塚さん、ちょっとよろしいですか?」

 果たしてこちらへと歩み寄りながらそう言って俺の名を口にしたのは、新人デザイナーである小菅であった。

「ん? 何?」

「……『共和国』の兵士のポリゴンモデルのブラッシュアップが終わったので、チェックしていただけますか?」

「ああ、いいよ」

 そう言った俺は自分のデスクから腰を上げ、小菅に先導されながら彼女のデスクの前まで移動すると、そこに用意されていたビューワーでもって小菅がブラッシュアップしたと言う『共和国』の兵士のポリゴンモデルを確認する。

「うん、いいんじゃないかな。だけど『共和国』が採用している迷彩模様はもうちょっとだけ彩度が高い方が安っぽく見えて雰囲気が出るから、テクスチャの色味を少しだけ調整してからもう一度確認させてくれるかな?」

「……分かりました」

 相変わらず何を考えているのか分からない表情と口調でもってそう言って、小菅は俺の要請を了承すると、妙に可愛らしくてファンシーなぬいぐるみやキャストドールの類が所狭しと並べられている自分のデスクに腰を下ろした。そして液晶タブレットに向き直って業務を再開しようとする彼女に、俺はつい一週間前の忘年会での出来事を思い出しながら語り掛ける。

「ところで小菅さん、忘年会の席でキミが鍛治屋敷さんに直談判していた件についてなんだけど……俺も先輩スタッフの一人としてキミの悩みに気付いてやれなかった事を、本当に申し訳無く思っている。だから今後は何か悩み事があったら、俺にも相談してくれると助かるよ」

 俺がそう言って彼女に謝罪すれば、眼の前の小菅は何故か、きょとんとした不思議そうな表情をこちらに向けた。

「……犬塚さん、さっきから一体何を言っているんですか?」

「え? 何って……だから小菅さんが、一週間前の忘年会の席で鍛治屋敷さんに直談判していた件についてだけど?」

「……あたし、忘年会の席で何か言ってましたか? あの日はちょっとばかりお酒を飲み過ぎて途中から記憶が曖昧になってしまって、気付いたら家に帰ってベッドで寝ていたんですけど?」

 小首を傾げながら如何にも不思議そうな表情と口調でもってそう言った小菅の言葉から察するに、どうやらあの時すっかり泥酔してしまっていた彼女は、自分が直属の上司である鍛治屋敷に今の仕事に対する不平不満と異動を願い出たと言う事実を全く覚えてはいないらしい。

「まあ、うん、その、あの夜の出来事をまるで覚えていないなら、それでいいんだ。だけど何か悩み事があったとしたら、どんな些細な事でもいいから、これからは遠慮無く俺に相談してくれよ。いいね?」

「……はあ……」

「それじゃあ小菅さん、頑張ってね」

 笑って誤魔化しながらそう言った俺はその場に小菅を残したままくるりと踵を返し、彼女と彼女のデスクに背を向けると、来た道を引き返すような格好でもって自分のデスクの方角へと足を向けた。そして各種のフィギュアやプラモデルが散乱するデスクにどっかと腰を下ろして業務を再開すれば、やがて壁掛け時計に内蔵されたチャイムが鳴って、待ちに待った昼休みの時間が到来する。

「さて、飯だ飯だ」

 独り言つようにそう言った俺はおもむろに席を立ち、オフィスの出入り口から廊下に出ると、満員のエレベーターに乗って一階へと移動した。そして秋葉原UDXを後にしてから中央通りを超えて暫し歩いた後に、昌平橋通り沿いの歩道を北上すれば、やがてカレーの専門店である『ベンガル』へと辿り着く。

「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」

 そこそこ混み合った店内でそう言った妙齢の女性スタッフに促されつつも、俺は特に迷う事無く、カウンター席の一つにどっかと腰を下ろした。実を言うと昨日の夜からずっとここのカレーが食いたくて食いたくてどうにも堪らなかったので、こうしてすんなりと入店、および着席出来た事はまさに僥倖である。そしてメニューと睨めっこしながらビーフ角切りカレーを食べるべきかポークカリーを食べるべきか悩んでいると、不意に見知った顔の、長身でギャル風の容姿の女性が店内へと姿を現した。

「おやおや、ワンコくん、こんな所で会うとは奇遇だね」

「あれ? 鍛治屋敷さんじゃないですか」

 果たしてこれで何度目の邂逅になるのか、姿を現した長身で渋谷のギャル風の容姿の女性は俺の直属の上司を務める鍛治屋敷静香その人であり、どうやら彼女もまたこの店にカレーを食いに来たらしい。

「なんだか最近、ワンコくんとは昼休みによく会うね」

「ええ、そうですね。俺と鍛治屋敷さんとで、食べたい物が似通っているんじゃないですか?」

 俺がそう言えば、気風きっぷが良い事で知られる鍛治屋敷は隣のカウンター席に腰を下ろし、はははと声を上げながら愉快そうに笑う。そして俺がライス大盛りのビーフ角切りカレー、彼女が茹で卵がトッピングされたエビカレーを注文すると、やがて五分と経たない内に出来たて熱々のカレーが俺ら二人の前に配膳された。

「いただきます」

 そう言って大好物のビーフ角切りカレーをむしゃむしゃと頬張り始めた俺に、隣の席に腰を下ろした鍛治屋敷が、やはり俺と同じようにむしゃむしゃとエビカレーを頬張りながら語り掛ける。

「ところでワンコくん、小菅くんの異動に関してだが、さっそく今日の午後から人事部に問い合わせてみる事にするよ」

「え? ああ、その小菅さんに関してなんですが……どうやら彼女、あの日は俺らの想像以上に酔っ払っていて、鍛治屋敷さんに直談判した事自体を全く覚えていないらしいですよ?」

「は? 何だって?」

「ですから小菅さんは、今の仕事に不満があるから鍛治屋敷さんに異動を願い出た事自体を覚えていないんですってば」

 俺がそう言って事情を説明すれば、鍛治屋敷はエビカレーを口に運ぶ手を止めて、頭を抱えたままカウンターに突っ伏しながら言葉を失ってしまった。どうやら彼女はこの一週間、年末年始の休暇を満喫しながらも小菅の処遇に心を砕いていたと言うのに、その苦労が水泡に帰した事を悔やんでいるらしい。

「ごちそうさま」

 やがてライス大盛りのビーフ角切りカレーと茹で卵がトッピングされたエビカレーを食べ終えた俺と鍛治屋敷の二人はそう言って、レジで会計を済ませてから、多くの人で賑わう『ベンガル』を後にした。そして秋葉原UDXへと帰還し、エレベーターに乗って24階へと移動してからオフィスに足を踏み入れると、長い金髪と日焼けサロンで焼いた肌が眩しい鍛治屋敷と離別する。

「ああ、そうだワンコくん、今日は午後からデザイナーの面談を行うから、14時になったら23階の小会議室まで足を運んでくれ。それじゃあ、またな」

「ええ、了解しました。14時に、23階の小会議室ですね?」

 そう言った俺は鍛治屋敷と別れてオフィスを縦断すると、液晶タブレットやデスクトップパソコンと共に各種のフィギュアやプラモデルが散乱する自分のデスクにどっかと腰を下ろした。すると程無くして昼休みの終焉を告げるチャイムがフロア中に鳴り響き、午後の業務を再開すれば、やがて面談の時間が到来したので23階の小会議室へと移動する。

「失礼します」

 俺はそう言いながらこんこんと二回ノックした扉を開け、小会議室の中へと足を踏み入れると、そこで待ち構えていた鍛治屋敷が「待っていたよ、ワンコくん」と言って俺を出迎えた。

「それで鍛治屋敷さん、今日は一体、何のための面談ですか?」

「ああ、うん、そろそろ『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発も佳境だから、全てのスタッフの業務の進捗具合を再確認しておこうと思ってね。だからデザイナーはこのあたしが、プログラマーはチーフプログラマーの米倉よねくらさんが面談を行っていると言う訳だ。……それで、どうだい、ワンコくん? キミが担当しているキャラクターのポリゴンモデルのブラッシュアップは、今月末のデザインアップの日までに間に合いそうかい?」

「ええ、まあ、それなりに順調です。今のままのペースで行けば、全てのモデルのブラッシュアップが期日通りに終わると思いますよ」

「そうか、それなら良いんだ。もう以前のように、マスターアップぎりぎりまでデザイン業務が終わらなくて、チーム中のデザイナーがてんてこ舞いになるような事態だけは御免だからな」

「ええ、そうですね。確かに前作の『クラースヌイ・ピスタリェート:Ver.0』の時はマスターアップ当日までデザインデータの差し替えが続いて、本当に大変でしたからね」

 そう言った俺と鍛治屋敷が昔を思い出しながらはははと笑えば、彼女はそんな俺に問い掛ける。

「ところでワンコくん、むしろここからが本題なんだが……キミは今春会社が倒産して以降の身の振り方は、もう決めているのかい? やはりゲームの世界からは身を引かずに同業他社に転職するのか、それとももうゲームとは関係の無い職種に転職するのか、その辺りの転職活動の進捗具合はどんな塩梅だい? ん?」

「転職活動の進捗具合ですか。実はですね、忘年会の席でも言い掛けましたが、その件に関して是非とも鍛治屋敷さんにお伝えしておきたい事がありまして……」

「ん? 何かな?」

 鍛治屋敷がそう言って興味深げにこちらに耳を傾ければ、俺は改めて、彼女に鷹央との一件を伝えざるを得ない。

「俺の学生時代からの古い友人で、今は㈱PFエンターテイメントでチーフディレクターを務めている、ちょっとばかり変わった男が居るんですが……その男が『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チームが彼の会社に丸ごと移籍出来ないかどうか、内々に打診して来たと言う訳なんですよ」

「ほう?」

 やはり鍛治屋敷はそう言いながら身を乗り出し、移籍について語る俺の言葉に興味津々な様子であった。

「つまりそのキミの古い友人とやらが、あたし達スタッフ一同がチームごと移籍するのを仲介してくれると言う訳なんだな?」

「ええ、そうです。残念ながら、未だ具体的な移籍の詳細については話し合っていませんが、決して酒の席での適当な冗談を言っている訳ではないと思いますよ」

「ふむ」

 渋谷のギャルの様な風貌の鍛治屋敷はそう言って小会議室の椅子に座り直し、腕を組んで天井を見上げながら暫し逡巡したかと思えば、不意にこちらへと向き直るなり俺に重ねて尋ねる。

「よし、分かった。その㈱PFエンターテイメントへのチーム丸ごとの移籍の件、あたしもアートディレクターとして、チーフプログラマーの米倉さんと一緒に前向きに検討してみよう。だからワンコくん、そのキミの古い友人とやらの名前と連絡先を、今ここで教えてはくれないか?」

「ええ、どうぞ」

 そう言った俺は財布の中から鷹央の名刺を取り出すと、それを鍛治屋敷に手渡した。手渡した名刺には『㈱PFエンターテイメント 製作第三部チーフディレクター 福嶋鷹央』と言う鷹央の所属や役職名と一緒に、彼の電話番号やメールアドレスと言った連絡先もまた印字されている。

「ありがとう。それじゃあ近い内にあたしの方から、この福嶋と言う名のキミの友人に連絡を取ってみよう。その上で交渉が纏まるか決裂するかは分からないが、最善を尽くす事を約束するよ」

「是非とも、よろしくお願いします」

 俺がそう言って頭を下げれば、手渡された鷹央の名刺を名刺入れに仕舞った鍛治屋敷は改めて俺に問い掛ける。

「ああ、ところでワンコくん、ここからは仕事に関するそれではなくプライベートに関する話題なんだが……キミもそろそろ、一人の大人の男としての身の振り方を真剣に考えてみてもいい頃なんじゃないか?」

「ん? と、言いますと?」

 鍛治屋敷が何を言いたいのかが理解出来ず、俺はそう言って問い返した。すると日サロで焼いた小麦色の肌が眩しい彼女は悪戯っぽくほくそ笑みながら、ともすれば俺を説得し始める。

「つまり、あたしが言いたいのは、キミもそろそろ身を固めて結婚する気は無いのかって事さ」

「結婚……ですか?」

「ああ、そうだ、結婚だ。キミももういい歳なんだし、ここらで思い切って結婚して、一家の大黒柱になってもいい頃なんじゃないのかな? 勿論いきなりこんな事を言われても独身のキミには実感が湧かないかもしれないが、たぶんキミが考えている以上に、結婚はいいものだぞ? 特に子供が生まれたら、毎日家に帰るのが楽しみで楽しみで仕方が無くなるからな。ほら、あたしの子供達も可愛いだろう?」

 嬉しそうに、そして少しばかり照れ臭そうにそう言いながら、鍛治屋敷はポケットから取り出した彼女のスマートフォンの液晶画面をこちらに向けて提示した。提示された液晶画面にはビニールプールで大型犬と一緒に遊ぶ二人の水着姿の男の子達の写真が待ち受け画面として登録されており、その二人が既婚者である鍛治屋敷の実の息子達である事は想像に難くない。

「へえ、可愛いお子さん達ですね。今、何歳ですか?」

「上の子が七歳で、下の子が四歳になったばかりだ。それにちょうど下の子が物心がつき始めた頃だし、まさに可愛い盛りとはこの事だよ。この子達がすくすく育って、やがてあたしが開発したゲームで遊んでくれるようになるのかと思えば、自然とタブレットペンを握る手にも力が入るってものさ。まったくもって、子に過ぎたる宝無しとはよく言ったものだよ」

 頬を緩めて微笑みながらそう言って、彼女にしては珍しく母としての顔を覗かせる鍛治屋敷に、俺は少しばかり申し訳無さそうに断りを入れる。

「とは言え鍛治屋敷さん、幾ら結婚を勧められても、今の俺にはそもそも妻になってくれるような相手が居ませんから……だから申し訳ありませんが、所帯を持つのは当分先の事にならざるを得ませんよ」

 俺がそう言って釈明すれば、眼の前の鍛治屋敷はきょとんとした表情でもって呆けるばかりだ。

「おいおいワンコくん、一体何を言ってるんだ? キミは上別府くんと、結婚を視野に入れながら交際している筈だろう?」

「あ」

 どうやら酒癖が悪い小菅とは違って、鍛治屋敷は忘年会での上別府の妄言を忘れてはいないし、また同時に俺と彼女が交際していると言う上別府の妄言を固く信じ込んでしまっているらしい。

「ですから鍛治屋敷さん、それは誤解なんですってば!」

「誤解? 何が?」

「何度だって釈明させてもらいますけれど、俺と上別府さんとは交際してなんかいませんし、まして結婚するなんて事はあり得ません! 会社の同僚であると言う点を除けば、全くの赤の他人です!」

「と言う事は……つまり……全ては上別府くんの狂言だと言う事なのか?」

「そうです!」

 俺がそう言って、ややもすれば声を荒らげながら断言すれば、ようやく鍛治屋敷も俺の言葉の意味するところを理解した様子であった。

「それはまた……驚いたな」

 俺の言葉をようやく理解したらしい鍛治屋敷はそう言って天を仰ぎ、かぶりを振りながら深い深い溜息を漏らすと、すっかり呆れ果てたような表情と口調でもって語り始める。

「これは管理職以上の者しか知らない事だが、実は上別府くんは、うちのチームに配属される以前に所属していたチームでも問題を起こしていてね。そこでもやはり彼女はとある男性社員と自分は婚約していると言う事実無根の狂言を吹聴した上に、男性社員の自宅に深夜に押し掛けると言ったストーカー行為に及び、減俸と十日間の出勤停止の懲戒処分を喰らっているんだよ」

「はあ」

 どうやらあの上別府と言う名の女はストーカー行為の常習犯で、俺以前にも、彼女と結婚を視野に入れながら交際していると言う風説を流布された男性社員が存在していたらしい。

「こうなったからには仕方が無い、上別府くんにはあたしの方から、もうこれ以上社内で狂言を吹聴しないように少々きつい口調でもって注意しておく事にしよう。だからワンコくん、キミも彼女に付け入る隙を与えないように、今後は細心の注意を払いながら業務に集中したまえ」

「ええ、分かりました」

 俺がそう言って彼女の言葉に従えば、如何にも面倒臭そうな面持ちの鍛治屋敷は俺との面談を終える。

「それじゃあ、何だか上別府くんのせいでおかしな話の展開になってしまったが、これでキミとの面談を終える事にしよう。次の面談相手はチャットで呼び出すから、キミはこのまま自分の席まで戻るといい」

「それでは、失礼します」

 そう言った俺はおもむろに席を立ち、その場に鍛治屋敷を残したまま小会議室を後にした。そしてエレベーターに乗って24階へと移動したかと思えば、自分のデスクに帰還する前に廊下に設置された自動販売機の前で立ち止まると、その自動販売機で無糖の紅茶を購入してからコミュニケーションゾーンへと足を向ける。

「ふう」

 コミュニケーションゾーンに設置された布張りのソファに腰を下ろした俺は購入したばかりのペットボトルの蓋を開け、全く甘くない無糖の紅茶をごくごくと飲み下しつつ、改めて思い悩まざるを得ない。

「細心の注意を払いながら業務に集中したまえって言われたって、一体何をどうしたらいいんだか……」

 そして独り言つように小声でもってそう言った俺の目下の悩みの種は、会社の倒産と転職活動よりも何よりも、結婚を視野に入れながら俺と交際していると言う風説を流布して止まない上別府の存在である。

「……俺は上別府さんなんかとは交際する気も無いし、まして結婚する気なんて、これっぽっちも有りはしないってのに……」

 俺がそう言いながら思い悩んでいると、不意に廊下とオフィスとを繋ぐ扉が開いて、少しばかりカールしたショートボブの髪の女性が姿を現した。そしてその女性はこちらに気付くと、無糖の缶コーヒーを手にしたまま、布張りのソファに腰掛けた俺の元へと歩み寄る。

「ケ、ケケケケンケンさん、お、お疲れ様です」

 果たしてそう言って挨拶を兼ねた労いの言葉を口にしたボブカットの女性は、キャラクターの表示周りを担当するプログラマーである柴小春その人であった。そして彼女はプルタブを開けた無糖の缶コーヒーをちびちびと飲み下しつつ、少しだけ距離を置きながら俺の隣にちょこんと腰を下ろす。

「やあ柴さん、お疲れ様。柴さんも休憩中?」

「ええ、た、たった今米倉さんとの面談が終わって、ちょちょちょちょっとだけ休憩しているところです」

 どうやら柴は、俺が鍛治屋敷による面談を終えたのと同様に、ちょうど彼女の直属の上司であるチーフプログラマーの米倉との面談を終えたばかりだと思われた。

「ああ、そうなんだ。柴さんは、面談で米倉さんからどんな事を聞かれたのかな?」

「し、仕事の進捗具合とか、ててて転職はどうするのかとか、ぎょぎょぎょ業務を遂行する上で何か不満が無いかとか聞かれましたけど……あ、そそそそれに、どどどどうしてか分かりませんけど結婚はしないのかとか聞かれちゃいました。あ、あれって、いいい一種のセクハラですよね?」

 柴がそう言って笑えば、俺もまた彼女に同意せざるを得ない。

「へえ、柴さんも米倉さんに、結婚について聞かれたんだ? 俺もついさっき鍛治屋敷さんに呼び出されて、結婚はしないのかとか子供はいいぞとか、彼女の息子さん達の写真を見せられながら聞かれちゃったよ。やっぱりこれって柴さんの言う通り、セクハラに間違いないよね」

 やはり笑いながらそう言った俺の言葉に、化粧っ気の無い柴は彼女の結婚観について語り始める。

「そ、そうですよね、ややややっぱりセクハラですよね。だだだだけどあたし、よ、米倉さんに言われなくても、ででで出来るだけ早く結婚したいんですよ。あ、あたしももういい歳なんだし、さささ最近は従姉達が次々に結婚して子供を産んでるもんだから、ここここのままじゃあたしだけ行き遅れになっちゃうんじゃないかと思うとついつい焦っちゃって。そそそそれにほら、こ、子供を産むにしても、こここ高齢出産って怖いじゃないですか?」

 そう言って訥々と語りつつ、柴は俺を相手に、一刻も早く結婚して子供を産みたいと言う彼女の結婚願望を包み隠さず吐露し続けた。そしてそうこうしている内に、やがて柴の話題は、彼女だけでなくこの俺の結婚の可能性の有無にも及び始める。

「で、でもケンケンさんはいいですよね。けけけ結婚したいと思ったら、す、すぐにでも結婚出来るんですから」

「え? 俺? いや、俺は別に今すぐ結婚する気も無いし、そもそも結婚すべき相手が居ないんだけど?」

 俺がそう言えば、柴はつい数十分前の小会議室での鍛治屋敷と同様に、きょとんとした表情でもって呆けるばかりだ。

「で、でもケンケンさんって、たたた確か、う、上別府さんとお付き合いされてるんですよね? そそそそれも結婚を視野に入れながらのお付き合いですから、ち、近い内に彼女と結婚されるんじゃないんですか?」

「……」

 上別府の妄言を信じ込んでしまっているらしい柴を前にした俺は言葉を失い、深い深い溜息を吐きながらかぶりを振って天を仰ぐと、鍛治屋敷にそうしたように改めて釈明し始める。

「だからね、柴さん? 俺と上別府さんとは、そもそも最初から交際してなんかいないんだってば。まして結婚するだなんて、そんな事は、天地がひっくり返っても有り得ない出来事なんだよ。つまり彼女の意図するところは良く分からないけど、全ては上別府さんが吐いている事実無根の真っ赤な嘘であって、そんな嘘を柴さんまで信じ込まないでいてくれるかな?」

 俺がそう言って釈明すれば、今度は柴が言葉を失う番であった。そして暫し言葉を失った後に、彼女は俺に確認を取り始める。

「だ、だとすると、ケケケケンケンさんが上別府さんと結婚を視野に入れながらお付き合いしていると言うのは、かかか彼女が吐いている嘘だと言う事ですか? つ、つまりケンケンさんは上別府さんとは何の関係も無い赤の他人で、たたた只の会社の同僚だと言う事ですよね?」

「そう! まさにその通り! やっと分かってくれた?」

 柴の疑問を全面的に肯定した俺の言葉に、彼女は暫し絶句すると、何故だか分からないが今度はひどく安堵した様子であった。

「よよよ良かった……」

 そう言って安堵する柴に、今度は俺が疑問を差し挟む。

「え? 良かったって、何が?」

「い、いえ、ななな何でもないんです! き、気にしないでください!」

「?」

 俺は頭の上に見えない疑問符を浮かべながら、柴が一体何に対して安堵しているのだろうかと訝しんだ。するとそんな俺と彼女が腰を下ろす布張りのソファの元へと、妙にスタイルの良い一人の女性が歩み寄るなり口を開く。

「あら? ケンケンさんと柴さんったら、こんな所で二人揃って、何をしていらっしゃるのかしら?」

 果たしてこちらへと歩み寄るなりそう言った妙にスタイルの良い女性は、この『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チームのアシスタントを務めるちょっと残念な容姿の女性、つまりつい今しがたまで俺と柴の話題の中心人物であった上別府美香その人に他ならない。

「あ、う、上別府さん、おおおお疲れ様です!」

「ええ、お疲れ様ね? ところで柴さん、あなたも知っての通りケンケンさんはあたしの未来の旦那様なんですから、その未来の旦那様に色目を使って言葉巧みにたぶらかしたりしないでいただけます?」

「あ、ご、ごめんなさい! そ、そそそそれじゃあケンケンさん、あ、あたしはこれで失礼します!」

 すると尚も妄言を吐き続ける上別府の口調に気圧けおされたのか、柴はそう言って布張りのソファから腰を上げ、そそくさと足早にコミュニケーションゾーンから立ち去ってしまった。そして俺と二人切りになった上別府はつい今しがたまで柴が座っていた俺の隣の席に腰を下ろすと、俺の腕を抱き寄せるような格好でもって、その豊満な乳房を俺の身体に押し当てる。

「ちょちょちょちょっと上別府さん、その、胸が当たってるんですけど?」

「ええ、そうよ? 故意に押し当ててるんですから、当たるのは当然の事でしてよ? それにケンケンさんは、確か大きなおっぱいが大層お好きだった筈じゃないかしら? 違って?」

 上別府はそう言ってにたにたとした湿った薄ら笑いを浮かべながら、益々その豊満な乳房を俺の身体に密着させ、脂肪と乳腺で出来上がった双丘の柔らかな感触が何とも言えず心地良くて堪らない。

「ねえ、ケンケンさん? あなたもそろそろ観念して、あたしと本当に交際して未来の旦那様になってくださらないかしら? あたしこう見えても家事全般が得意で、しかも床上手なものですから、きっと昼も夜もケンケンさんを満足させて差し上げられるものと思うんですけど?」

 そう言った上別府の提案はそれなりに魅力的なものであったが、一人の男として、また同時に独立した一人の社会人として、彼女の甘言に容易たやすく屈する訳には行かない事もまた自明の理であった。そこで俺は乳房を押し当てて来る上別府の手を無言で振り払い、布張りのソファから腰を上げると、その場に彼女を残したまま自分のデスクの方角へと足を向ける。

「あら? ケンケンさんったら、今ここであたしを無視しても構わないのかしら? いつかあなたが後悔する事になったとしても、あたし、責任は取れなくってよ?」

「後悔なんてしないさ。俺は人間関係を玩具おもちゃにするような女性は、たとえどれだけ魅力的でも好きになれない」

 最後にそう言って捨て台詞を残した俺はコミュニケーションゾーンを後にすると、やがてオフィスを縦断し、各種のフィギュアやプラモデルが散乱する自分のデスクにどっかと腰を下ろした。そして液晶タブレットに向き直って午後の業務を再開しようとすれば、俺のすぐ後ろのデスクに腰を下ろす寛治がぼりぼりとスナック菓子を貪り食いながら問い掛ける。

「なあケンケン、お前も鍛治屋敷さんとの面談は、もう終わったのか?」

「ああ、終わったよ」

「やっぱりお前も、結婚について聞かれたよな?」

「ああ、聞かれたよ」

「俺も一刻も早く彼女を作って結婚したいと思ってるんだが、どこかに同じように結婚したがっている女の子とか、居ねえもんかなあ? 例えば、あくまで例えばだが、小菅さんとかは鍛治屋敷さんに結婚について聞かれて、何て答えたと思う?」

 やはり人工甘味料たっぷりの炭酸飲料をごくごくと飲み下し、ぼりぼりとスナック菓子を貪り食いながらそう言って笑う寛治の姿を見るにつけ、俺や柴らを取り巻くこのチームの人間関係はどうにも複雑であると言わざるを得ない。

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