夜明けとシェエラザード
天池
夜明けとシェエラザード
分厚いガラスが特別な愛着を誘うのは、それが外界で起きていることを克明に見せるばかりでなく、外側の空気や現象はそれ自体に直接作用してもいるのに、そうしたことの全てがある凝固した距離の向かいに留まって、永遠にこの場所と触れ合わないからだ。何も影響しようのない空白地帯が、自分と自分の視界とを分断する。その分断に挟まれて、渡り廊下を先へ進めば、そのまま階下へ行くことの出来る階段に突き当たり、角張った御影石が少しはみ出るかたちに拵えられた巨大な手すりが、右手で重々しく踊り場と鋭角を形成して、粘土を固めたようにぼこぼことした表面の壁を滑らかに御しながら、上下に伸びていく。
目に映るものがつぼみの視界を分断する。逆に目に見えないものが全てを貫いているような気になる。その通路を横切る一対のガラス窓の厚みにどのような意味があるのかつぼみは知らない。知らないことは形を変えずここに規則正しく並び、皆一様に沈黙している。どうして二枚のガラスに挟まれた壁のないこの空間に、下の坂道を車が行き交うことと一切関係なく、一人腰を下ろしていられるのかつぼみには全く分からないから、どうして今日ここへ来たのかだとかそういった意識、何かの問題にかかずらう疎ましい意識はストローで吸われるみたいに消え去った。
何かがやって来るとしたら左からだろうとつぼみは考えている。左側は大規模な商業施設になっていて、卵型に奥へと続いていく通路を少し進めば空洞部にせり出したスケルトン構造のエレベーターがあり、吹き抜けの空間に向き合って幾つものテナントが並んでいる。左側の施設と右側の棟との間にはひどい不均衡があり、もう弱々しい明かりしか灯されていない右側の建物は、築年数も明らかに古く、各フロアには数えるばかりの店舗が学校の教室と同じ具合で横並びになっている。
事実、つぼみも左側から来た。二階の床部分と一階テナントの丸みを帯びた壁に囲われて、大きく開かれた口の中を通るような感じを覚えさせる角の入口から吹き抜けの空間に侵入し、僅かな摩擦音と共に呼ばれるがまま降りて来たカゴに乗って、三階まで上がって来たのだ。カゴが二階を通過する時点で、もう周りのことは気にならなくなる。閉店後の店は跳ね橋を上げたように視線を自分達の空間にだけ向けており、床の反発は人のいない分力が入っているけれど、つぼみの後をつけて来たりはしない。足をつける毎に床はヒリヒリと振動しながら逃げていき、エレベーターの二重の囲いと店のショーウィンドウとが全てうさんくさくなって、つぼみは一本の綱の上を急いで渡るように坂の上の通路へと足を速めた。恐らくはこの複合施設全体の中で一番分厚いガラスがこれだ。その理由は全然分からない。
真っ青な風景がどこまでも押し広げられて、左右から灰色の外壁が、街灯の並ぶ坂の両脇を浅く切り込んでいる。前方に上がっていく坂はまるで海からどこかの文明に適合した人類が出入りしているかのようだ。どんな接合部にも人間の支配はもはや及ばず、外界のなすがままに任される。黒いダウンコートで正面から身をくるんだつぼみは、両手の小指側の側面を床につけて、ガラスに反射した物体と見える限りの世界を眼球に収める。つま先だけがダウンコートからはみ出している。この世ではみ出した全てのものが繋がっているのなら、エレベーターの角柱、わたしのつま先、薄暗い階段の御影石の手すりは、慎重に発掘された古代遺物がかつての生々しい命の在り処を示すように、この渡り廊下を通って、北棟地下二階のあの古びた喫茶店へと誰かを導く一続きの痕跡なのだろう。ブラウスの上に着た黒のシャギーニットが、いつでも羽ばたくことが出来るのにコートの内側でじっとしている。わたしによってすら置き去りのつま先、何にも寄りかかられていないかのような背後のガラスの長方形、この高さにだけ白色の明かり。エレベーターを動かしてしまったのはわたしだ。誰からも逃げられる筈はないのに、ここでは全ての関わり合いを透明にして浮かべておけるような気がした。全部が海に帰った後の泡沫だ。全部が海に。羽ばたきの逆戻りは化石になって。みんな宙返りして沈んでいったのだ。ぞっとするような出来事だが、わたしが感じたものは手首に触れているニットの無機質な柔らかさだけだった。
少しの曇りも見当たらない窓ガラスの、おでこの辺りを平行になぞるような無意味な動作を頭のどこかで再生しつつ、つぼみは話の一区切りを生み出し終えて、押し付けられた指先がガラスの表面を離れるのと同時に、それはやや大きな水泡となって、何度か激しく変形してから、右手の方に流れていった。黒鳥の横目でそれを見送ってから、思わず離してしまった二つの指先のことを考える。無意味な仕草で何かをなぞるような束の間の視線や妄想は、子供の頃一人で丘に登り、屏風岩と呼ばれる柱状節理の岩壁を見詰めていたときのことを思い出させた。麓の斜面には所狭しと様々な樹木が根を下ろし、その後ろに聳える垂直な岩肌にも随所に木が生えていて、足元から空へと続く一塊の景色をつくり上げているのだが、それを分け入って山や空に触れることは不可能なのだった。
冬の丘の寒さが、不意にダウンコートの中に入り込んでぐるぐる回り出すので鬱陶しく思った。何かを鬱陶しいと思ってしまった途端にわたしの居場所はなくなる。すると、ああ、わたしはなんでここにいるんだろうという不可解な感覚が再び頭の真上から吹き込まれて、それに刺激されたように左の施設から現実の風が吹き、寒い、と膝を閉じて両手で脛を掴んだ。わたしは丁度真ん中の辺りにいた筈だが、とつぼみはふと思う。自分の足を持ったおかしな姿勢のつぼみはそこから動けないのに、なんとなく左に押し戻されているような気がしたので、かっと目を見開いて道路のセンターラインを睨みつけた。車通りは絶えないが、通路の横幅からして向こうの車道からつぼみの姿は殆ど見えないに違いなく、後ろ側からでは歩道橋然とした二階の渡り廊下があまりに目立ち、高さもある為まず注意を向けられない。地上の無関心すらわたしに無関心である空間。去る為に来たのではないのだから、わたしはまだ去らない。
大学から徒歩十分の位置にある地下二階の喫茶店には、二年生の頃から通っていた。純喫茶と呼ぶには押しに欠け、かといって珍しいメニューや特徴的なサービスも提供していないその店はいつ行ってもがら空きで、つぼみはさして躊躇いもなく、いつも入口にほど近い窓側の席に座った。入口の横には植え込みのごとき観葉植物が設置されていて、その手前に隠れるように置かれた花瓶の、いつも新鮮な数輪の花はつぼみの席の専有物みたいになっていた。その位置からはまた、キッチンに繋がる通路や、その出入口近くに置かれた立方体の水槽をすっかり視界に収めることも出来た。水槽にはエンゼルフィッシュが一匹だけ、澄んだ水の中ほどを行ったり来たりして悠々と泳いでいた。コーヒーを飲みながら水槽を眺めると味が薄く感じられたが、その分だけカップの中身が注ぎ足されているような気がして、つぼみはまた口を付けたカップから思わず多めに流し込むが、すると魚がひらりと身を翻して、ハンドルを摘まみ上げたカップの中に視線を落とすと残り僅かになったコーヒーが静かに張っている小さな表面が見出された。
「昔は小さい熱帯魚がいっぱいいたんですけどね。あの子を中に入れたら、次の日にはみんな食べられちゃっていたんです」
ある日、他の客は奥のテーブルに二組か三組いるだけというとき、暇そうなウェイターが手ぶらで出て来て、水槽に向けられたつぼみの視線を遮らない位置に草原の花のように立ち、何一つ恐れるところのない世間知らずの動物のようなもったりとした口調で話しかけて来た。コップに目をやり、つぼみの水が減っていないことを確認してから、彼は水槽の下にある業務用の戸棚を開けて、プラスチック製の小筒を取り出した。側面には青い海と生い茂る海藻の絵が描かれている。力を入れる素振りもなくくるくると上部の蓋を回し、それを皿にして筒の内容物を少し取ると、今度はそこから水槽の水の中へと茶色い粒をまた移動させた。
「よく食べるんです」
元の場所に筒を仕舞ったウェイターがそう言ってから振り向いた。その後ろでは、まるで彼の肩に食いつくようにエンゼルフィッシュが餌を吸い込んでいる。それから茶色く広がった水中の靄とその中で身をよじる魚を残し、彼はキッチンへ戻っていった。一瞬、まるで戸棚の餌を手に取るように、つぼみに向かって腰をほんの少し曲げてお辞儀をした。それは水面に浮かび上がる束の間の反映のように歪んで残り、立ち消えた。視線を窓の外の地下通路に向けて冷め切ったコーヒーを一度に啜ってから、その効果で人知れず湖に沈んでいくように、彼の放った言葉が頬からこめかみの辺りにしっとりと貼り付いて、自分から何か吸い上げているのを感じ、花瓶の銀色を見ながらコップの水を飲み下した。
この店にいた人はみんなあの魚に食べられてしまったのだ。わたしが目を離した隙に、電灯の上もテーブルの下も通って、何でも食べてしまう銀白色の魚はごく当たり前に全てを食らい尽くしてしまった。少し大きめのコップを右手に掴んだままつぼみは立方体の水槽を見る。そこにいるのは一体何なの? たった一匹、どちらへも寄らずに同じ場所で、ただ泳ぎ続けているのは。水は少しだけ濁って見えた。わたしは席を立った。奥のソファでは派手めなスーツの前を緩めた男性が笑っていた。別の出入り口からウェイターが出て来る。自動ドアが開いて、生成色の床材が敷かれた人気のない通路に出るときにはもうコーヒーが飲みたくなっていた。「またお待ちしています」とウェイターは言った。
それから、つぼみにはいたるところで透明な水でいっぱいの立方体が見えるようになった。ときにはそれは胸の前に抱えられて、ときには視界の前方に浮かんでいた。人が沢山いる、満員電車の中などでは消えて、少し開けたところに出るとよく現れた。つぼみの全温度を以てしても少しだってぬるくなりはしないし、光が当たっても、溶けそうな暑熱に晒されても、魚はくっきりとした輪郭の中心部で旋回しながら泳いでいた。どんなものにも怯えたりせず、無駄なことはせず、何にも呑み込まれることがないと分かっているかのようにゆっくりと回るそれは、ただ一人この内部に干渉出来る人物の姿に少し似ていた。あまりに何にも動じないから、怖い人と話すときに、その頭にすっぽり水槽を被せてしまうことで、少しだけつぼみも気分を落ち着かせるという小技も覚えた。それは脳みその中でもお構いなしに泳いでいるし、時計の内側でも、つぼみの身体から二十センチ離れたところでも変わらなかった。それがふいに身体から離れると、つぼみは心臓が持ち出されるような苦しみを覚えた。しかしそれを態度に出すことは出来なかった。何にもお構いなしのふりをして、痛む横隔膜を動かしながら、相変わらずの日々を生きていた。
「あの、こないだ」六文字。「こないだ、夢を見ました」
おかわり二百円のコーヒーを運んで来たウェイターに、つぼみは国際法の薄い教科書の綴じ目に左手を載せながら話しかけた。
「夢?」
「あのエンゼルフィッシュが、このお店の中の人みんな食べちゃって、それでひらひら街に泳いでいく夢……」
「ああ、」とウェイターはほんの少し口角を上げて、その後で両目を含む帯状の部分に神妙な影を浮かべた。「大変だったんですよ。他の店員がもらって来た子で、水槽が華やかになると思って喜んでいたんですけど。出勤したらひどい光景で」
つぼみは綺麗な水を空中に留めている立方体に目をやり、かつての惨事を想像しようとしたが、そうさせようとしない力をあらゆる僅かな距離の中に見つけ、不注意が生じさせたずれをそっと直すようにそれを断念した。ウェイターも軽く振り返り、向き直ると腰をかがめて続けた。
「気分の良くない話をしてしまいましたね。でもまさか、そんな夢を見るなんて」
そう言うと、ウェイターはキッチンの出入り口の方に顔を逸らして押し殺すように笑った。艶やかなシャツの光沢が楽園の壁のように見えた。ある日一筋の風のような水流が発生して、その向こうに歪んだ姿で現れる真白な楽園。それは静かに溶けていって、奥に一匹の銀白色の魚がはっきりと見える頃には跡形も残っていない。
それはつぼみの語った最初の嘘の夢だった。つぼみは自分を救う為にそこに来ていて、教科書に書かれた文字や小説の内容をコーヒーを含みながら追うことに殆ど意味はなかった。それでも明確な目的意識を持っていた訳ではないし、席に着いた後では少しもそんなことを考えはしなかった。ただつぼみは、階段で地下二階に降り、海洋の壮大な動きがそうするように粛々と際限なく自分の世界を揺さぶって、すると底に溜まったものと遥か上澄みのものとがごっそり混ぜ合わされて特別な靄のようになる、その空気を何よりも渇望していた。解き放ってはいけないものが解き放たれるような感じがした。
はじめつぼみに出来ることはカップ一杯のコーヒーを飲むことだけだった。でもそれだけが全てである筈はないのだ。コーヒーの嵩と関係のないところへ、足を運んでみたくなった。それは抱え切れずに零れ出して身を染め上げる程の喜びだった。殆ど叫び出す勢いだったが、つぼみは努めて抑えた声音で夢の話をした。
「そのおじさんは首に付けられた浮き輪が取れないの
それで靴に紐をつけて、厨房を浮いて移動しながらラーメンを作っているんですけど
お客さんの一人が突然針葉樹になって、隣の人は紅葉した小ぶりの銀杏
その隣から入口まで、並んでいた丸い椅子が次の瞬間全部消えて
尻もちついた人達から同時に灰色のしっぽが生えた
おじさんは一人で浮いたまま
わたしは壁に打ち付けられたベッドに横になって、ずっとそこから眺めていました」
「たった一個のごつごつした星が、一枚の網ガラスに反射していて
誰もいない路地の片隅でテレビから流れ続けているあの声しか好きになれなくて
塀の陰から虎が出て来て、大きな卵を食べてしまった
そのときぐらぐらと歯が抜けるみたいにブロック塀は傾いて、四角く切り取られた水色の空間が現れる
その中から木の葉がざわめく音がして、鳥の翼が大きな身振りではためくのが分かる
そしたら足元は全体が一続きの液晶画面になっていて、アナウンサーが喋り続けてる
靴を脱いだらその下にゆっくり入っていくことが出来て、出ようと思っても手をつくことは出来ない
それで目が覚めたんです」
それ等は全て嘘だ。何故なら、つぼみは夢を見ることが出来ないのだから。つぼみは他の人よりずっと過去の記憶が薄らいでいて、昔どのように夢を見ていたか、と言うよりもむしろ、昔自分は夢を見ていたのかということについて確かな感覚は何一つないのだが、少なくともあるときから、つぼみは夢を見ることがなくなった。色々な空想に耽ってときにはそれに苛まれるということがその交換物として得たものなのかどうかということも定かではない。だがその感覚や、確かにつぼみが感じたものがここでは役立った。
滅多に人の通らない通路に面したガラス窓が隣にあると落ち着いた。どういう訳か、自分の中に数多の層を形づくりながら存在している雑多なもの達が、外側に模様の描かれたこのガラスの近くにいると、不思議に元気づけられるようだった。それはときに巨大な壁になってあらゆる波を大きく撥ね返し、ときには一条の光になって差し込んで、どこまでも広がる穏やかな凪をもたらした。どちらにしても、つぼみにとって胸の内に広がるその景色以上に自分を任せて良いと思える場所はあり得なかった。確かにつぼみの語ったあらゆる夢は嘘だったが、それ等は皆つぼみが普段隠し込んでいるこの景色の中で生まれたものなのであり、それを自分の口でただ一人の人に向けて話すということには、広漠な沖の世界で暮らす生物が海面に顔を出して行う一連の身振りのような切実さがあった。
店を出る時間は大体いつも同じで、季節によって夕暮れ時だったり、まだその兆しが仄かに漂うくらいだったりした。地下一階には総菜や弁当を販売する店舗があり、そこへ向かう色んな人々と階段でよくすれ違った。繁華街になっているのは坂の上で、ご飯を食べたり本屋に寄ったりする為、建物を出たら右折して坂を上るのが常だった。ガードレールの向こうでは車が次々と流れていくこの坂で、ぼうっと空の色や折り重なる幾多の影を眺めながら、つぼみは一段と大きな立方体の水槽を想像することがあった。でもそれはやがて別のものに置き換わった。わたしは車道に浮かぶあなたの巨大な顔の中へ歩いていたのだ。周囲が膨大な量の動きや光に溢れ、それに包まれていても、あなたがいないところでは綺麗なものも半分しか綺麗じゃなかった。
道の向こうで行われていた工事が大分進み、買収の済んだこちらのビルとの間に二本の渡り廊下を架ける工程がいよいよ始まろうとしていた頃、感染症の第一のピークが東京を覆い、不安げな街からは人気が消えていた。つぼみは郵送で卒業証書を受け取って、それから数日家の中でゲームを進めながら過ごしていた。ある日、喫茶店ではブレンドされたコーヒー豆の販売も行っていたことを思い出して、ネットで店舗の営業状況を調べてみた。するとまだ旧施設名を保っていながら、支配権は新たな持ち主に存するという微妙な状況の中、そのビルでは通常通りの営業を続ける方針をとっていることが分かった。つぼみは決心し、マスクを着けて出発した。
店に他の客はいなかった。自動ドアが開くとマスク姿のウェイターが出て来て、親しみの籠った目線で迎えられたので、つぼみは豆を買いに来たということを一旦忘れておくことにして、すぐ近くのいつもの席に腰を下ろした。一輪の白いダリアが銀色の花瓶に差してあった。コーヒーを用意する音が直接わたしがキッチンに迷い込んだように聞こえて来て、手持ち無沙汰のまま地下の景色を眺めていた。
ゆっくりとウェイターはソーサーに乗せられた陶器のカップを運んで来て、それをテーブルの真ん中に置いた。店のコーヒーカップはティーカップと言われても頷けるくらいの薄さで、鮮やかな藍色の装飾が施されていた。金色に縁どられた部分を滑り台にして口の中に液体を注ぐ。ソーサーの方は周縁部から中心の円に向けて藍色が濃くなっていき、円の中は暗い墨色をしていた。少しコーヒーの嵩を減らしては、そこにカップを置いて椅子を見詰めていると、飲み終えた頃、ウェイターが座りに来た。
「不思議な気持ちがしますよ。上のお花屋さん、お昼前に買いに行くんですけど、地下に全然人がいないんです。ここが一番下の一番端だからか、なんだか全てのものから切り離されたような気持ちがするんです。たとえばこうやって、キッチンから出るだけでも。おかしいでしょ」
「わたしもここのところはずっと家に篭っていたので、感覚分かります。電車の中もがらがらだったのは驚きでしたけど。あ、そうだ卒業証書も郵送で届いて、書類上卒業ということになりました」
つぼみが特別な充足感を全身に浴びながら嬉しがる動物のように言葉を並べると、ウェイターもみるみる楽しそうな表情になった。それは巨大な波だった。太陽をも呑み込んでしまうくらい、青くて瑞々しい、他の何ものも決して敵わない波だ。マスクで顔の下の部分が隠れて、目が出ているのが楽しかった。わたしの目は海から自在に飛び出して、もっと近くへ身を乗り出す滑らかな自由、あなたの目は、沈んだと思ったら海ごと連れて迫り上がって、勢いよく弾ける無数の泡だ。涙が出る程嬉しかった。だがつぼみは涙が出ない。出ないから、隠すように表情を取り繕うのはいつもの癖だけれど、今日ばかりはそれすらも助けで、それすらも存分に愉快だった。
店内の静けさに、洞窟の中に入ってはじめはそわそわしていても、色々探っていく内にやがてそこをすっかり知り尽くしてしまうといった具合に慣れ始めた頃、「最近はどんな夢を見たの」とウェイターが切り出した。
「宇宙船の船長が、操縦席でじっと前を見詰めている
隣の席の仲間が「まあグミでも食べなよ」って差し出す
でもその手には何もない
船長は驚いて逡巡するけど、顔を動かせないし言葉は一言も発さない
一瞬強い光が周りに起こって、すぐにワープが起きて
身体の半分だけ透明な魚達に、光が当たって骨が見える
それが貝塚に放り投げられるみたいに後ろに飛ばされていって
もはや誰も何も考えていない
わたしはワープから抜けることも出来たけど、魚に混じるのが怖くて
もう動かない船長達と一緒の運命に身を委ねることにしたんです」
「つぼみちゃんにも船長にも、そのグミは見えなかったんだ」
「そう。でもその仲間の船員が本当にそれを見てて、自分で食べたり船長に勧めたりしているというのは分かるの」
本当に見ている。ウェイターが黙っている間、つぼみは自分の放った言葉がとても近いところできらきらと光っているのを感じた。本当に見ているのだ。本当に。
「ねえ、つぼみちゃん。こうやって指をクロスして、目を閉じてみて」
ウェイターは何か思い付きに誘うような調子で右手の人差し指と中指を交差させ、つぼみのカップのちょうど真横に置いた。まるで大きな渦の横に伝説上の生き物の巨躯が神的に姿を現したようだった。親指は少しテーブルから浮いていて、中指に抑えつけられた人差し指との間には暗い影が出来ていた。つぼみはゆっくりと手を持ち上げ、渦の向かい側に同じ形をつくり、目を閉じた。
巨大生物が海に潜ったのが分かった。ほんの少し経ってから、右手にむず痒く、今日ここの席に座るまでに経験して来たことが全て崩されていくような感覚を持った。
「何本ある?」とウェイターがどこかから尋ねた。
「二本……」と答えてから思わず目を開けると、ウェイターは注文をメモするときに用いるボールペンをコーヒーのスプーンのようにつまみ上げ、片方の先端をつぼみの指が交差した部分に当てていた。
「面白いでしょ。これ、アリストテレスの錯覚っていうんですけど」と言って、ウェイターはペンを戻した。「夢の中で、空間がねじれて起こっていたようなことが、現実でもこうして指をねじらせるだけで、簡単に生じてしまうんです」
テーブルには藍色のコーヒーセットだけが残り、変わらない沈黙が床の続く限り満ちていた。少しも夢でないことがわたしには起きていた。何かの刺激で、普通の人では閉じている蓋が緩んだり溶け出したりして、そこに入り込んだものが自由で安全な空を謳歌するように、たった一人でそうしたことを感じていた。それならわたしはねじれているのだろうか。たった一人の客として、このテーブルに向き合って手を下ろして座っているこの瞬間に?
それでもわたしは、ゆっくりとあなたに近付いていった。小さな船にも、深く塩辛い膨大な海水にも、水底のぼんやりと雅やかな黄金の光にもなるあなたに。わたしは動くことが出来た。じっと座っていながら、どこへでも潜っていくことが出来た、自在のままのスピードで泳ぐことが出来た、コーヒーはもうないけれど、それでも全ての暗闇と沈黙がわたしの味方だった。
今つぼみが感じた可能性や、ざわめきの中に多くのものを落としていくような身軽さを表現することで、この場所を特殊なものにしてしまうと、それが失われてしまうような気がして、つぼみは幾つもの言葉を溶かし切らなくてはならなかった。少なくともこのざわめきを、自分の手で消し去りたくはなかった。だから静かに息継ぎをして、本当は豆を買いに来たのだった、と言い渋るように言った。ウェイターは素早く納得するなり席を立って、テーブルまで見本を運んで来てくれた。凛々しい一本のダリアが、強烈な光を唐突に浴びてぐんぐん巨大化し、一個の島のように店の内側を包み込んでくれれば良いのにと考えながらつぼみは三種類の銀色のパッケージを見分し、長いこと悩んで、一番大きいのを選んだ。
それから一週間も経たない内に大学院の授業は当面の間オンラインで行うことにするという通達があり、親からの命令で、つぼみは奈良県の実家に帰ることになった。半年経っても状況は変わらず、山の中にある家からつぼみは司法試験合格を目指す二年間のカリキュラムに参加した。使い切らずに長い間置いてしまったコーヒー豆は処分せざるを得ず、急いで買い揃えたミルやドリッパー等の用具は箱に仕舞って部屋の机の上に並べた。殆ど遠くへ出ずに更に半年経って、対面でも授業に参加出来るようになったが、一年間の対面授業の為に東京へ戻るという選択肢はなく、結局同じような二年目がまた始まった。
ある日、気分転換につぼみは丘の上まで歩いて行くことにした。薄灰色の空に色付けした羊毛のような金色が混じる日だった。杉の木が立ち並ぶ山道をひたすら進み、道が開けて明るくなったら、今度は柔らかい地面を踏んで誰もいない丘を登っていく。ずっと見えていた屏風岩の絶壁は、広い場所まで登り切ると一段と壮大に姿を見せる。この上なく静かな湖に落とされた一本の小枝がつくる波紋のように広がった地面をつぼみはなんとなく一回りしてみて、それから手頃な木に寄りかかり、山に阻まれていない方を眺めた。急峻な斜面が下の道路まで伸びていき、その向こうには幾つもの山々の頂が見えた。そのどれにもわたしは行くことが出来ないが、この木には触れている。どこへ目をやっても、すっかり知り尽くした景色だった。
木はどうしてこんなにわたしの心を惹くのか。その間を好きに通行することの出来る距離を保ちつつ点々と散らばって立っている木々。それ等は少しも視界の邪魔ではなくて、むしろともすればどこかへ飛んで行ってしまいそうなわたしの身体を繋ぎ留めてくれているように思える。そんな足元の丘の大地に視線を滑らせて、城を護る武将のように凝集した沢山の木と、その後ろにそれ等によって隠されることなく平然と聳えている岩を再び眺める。垂直に入った無数の亀裂は今更どんな風雨に晒されても形を変えたりはしない。時が止まったようだ、とつぼみは敢えて言葉を用いてイメージする。あの岩肌は激しい滝の流れがある瞬間のまま永遠に静止しているようだし、木の枝や葉っぱだって、土中から吹き出して振り撒かれる水がそのまま固まってしまったかのようだ。薄く広がっていた雲は少しずつ散っていき、乾いた空がアルマジロみたいに身を丸めて、山の海の上に目を戻すと、ずっと遠くの方で夕焼けの赤い光が結晶が触手を伸ばすように広がりかけていた。
結晶は長い時間をかけてこの空を覆い尽くすのだろうとつぼみは思った。肩甲骨の後ろで触れているこの木も、途方もなく長い時間の下に根を張り、永遠に辿り着けない深みから汲み上げている水で、ほんの僅かずつ枝を伸ばしている最中なのだ。勢いをつけてつぼみは木から身を離し、何度かその場で地面を踏んでみた。壮大なスケールの時間がこの下で動いている。木は生きているし現実は動いているけれど、それはわたしには感知出来ないくらいゆっくりとした出来事だった。結晶の速度――辺り一面が、結晶の速度だ。だからこそ、それは止まっているのと同じなのだ。どこにも駆け寄る必要がないという、静寂の中の美しさの氾濫。若干の身震いと草の柔らかさ、わたしの思い描いて来たあらゆる海……。山の海。幾つもの口から水が流れ込むように、色々な迷いが生まれてから溶け合い、それは自由という一色の言葉になって、つぼみの身体に漲った。澄んだ空気の中で、それは紛れもない自由そのものだった。
だけれどどういう訳か、つぼみは小走りになって、丘を後にし、山道を下った。その間に夕暮れが全てに幕を掛けて、杉の頭越しにつぼみもその下に入った。どこまでも暗闇に入っていきたいけれど、どこまで行っても無駄であるような気がして怖くなった。それでもわたしは自由なままだった。自由なまま家に帰って、部屋の戸を閉め、机の上のコーヒーミルを眺めた。エンゼルフィッシュが振り撒かれた餌をすぐさま吸い込みにかかる映像が頭に浮かぶ。もはや魚は立方体の水槽には入っておらず、大きな姿で机の上に浮かんでいる。
それから自由という言葉が、わたしにとって特別なものになった。その言葉を頭の中に放つとき、わたしは生命がもたらす力のある限りどんな行動を取ることも出来るという事実を何度でも見出したが、同時にわたしを繋いでいたり規定していたりするあらゆるものの存在を明確に感じ取って、それ等に結び付けられた自分の身体を限りなく頼りないものとして眺めた。司法試験に合格すればわたしは自由なのだと自分に言い聞かせたが、それはわたしの内にない、ずっと遠くの蜃気楼みたいな自由で、いつも違った色に見えた。その頃、わたしはまた一つ小技を使えるようになった。それは一日のどんな時間であっても、空を眺めたとき、これは本当は夜明けの風景なのだと思い込むというものだ。現実の世界の時間の流れと、わたしの身体が動くことの出来る速度とが根本から全然違うのなら、わたしはどんな時間の風景にもたちまちに赴くことが出来る筈だからだ。夜明けとは希望のことだった。木々の間の小さな水たまりがきらめき、アナグマがのそのそと動き出して、わたしはわたしとして目覚める。昼日中にはこれは明る過ぎる夜明けなのだと思いながら道を歩いたし、夕方には今本当の一日が始まるのだとこっそり了解した。
夜はお腹がいっぱいになるまで食べないと寝付けなかった。夜食を用意するようになり、確かに食べたと思えるまで詰め込んで、それから数時間勉強の続きをしてようやく眠りについた。夜明けは何度でもやって来たが、眠りはこうした儀式を伴わなければ得られることはなかった。そのようになんでもなく日々が過ぎた。日々を速めることはわたしの望むことでもあったし、怖くもあった。年が明け、五月の司法試験に向けて総仕上げを行う段階に入った。実家の周りでは他にすることもあまりなく、勉強は順調に進んでいた。東京に戻ることになったのは突然のことだった。父が、念には念を入れるようにと専門塾の特別対策講座を勧めて来たのだ。わたしはうまく気持ちを処理出来ず、数日待って、頭がぼんやりして来てから、そうすることにしてみると言った。東京には姉が住んでおり、家においてもらえることになった。滞在するのは三か月だが、実感はなかった。先に服や小説やもう使い終えた教材を段ボールに詰めて送り、リュック一つで大阪から新幹線に乗った。
***
対策講座は毎日のようにあったが、日曜は休みで、つぼみは最初の日曜を姉とショッピングをして過ごした。大学時代の話をしている内に、去年オープンした卵型の商業施設の話題になって、その日の夕食はそこに行くことになった。通路は広々としていて、店の中は重厚感があり、街灯風の灯りが綺麗だった。ご飯を食べている間、つぼみは努めて壁の厚さを気にした。そうしていないと、何かとても堪え切れないものが襲い掛かって、自分が破裂してしまいそうだった。
一週間が経ってまた日曜がやって来た。つぼみは一人で出掛けることにした。目的もなく街を歩いたが、昼の間その施設に近付くことは出来なかった。東京で一番地下深くにある路線を使って、距離的には遠くないが行ったことのない場所へ足を運んでみたりした。地上に出ると夕暮れだったりして、それなりに楽しかったが、ふと自分の行動が不可解で取り返しのつかないもののように思われて来て、息が苦しかった。胸の中で、リュックに詰めて来たもの達や大きな水槽やなみなみと液体を湛えたコーヒーセットが混ぜ返されて、立て付けの悪いドアが風に喚くように暴れた。赤く染まった空が筋になって目の前を流れていった。とても寒いのに、ここにいる人達とは同じ寒さを共有してはいない気がした。自然が突然引き起こす寒さにも、わたしの心のそのドアの内側にも、誰も手を出すことは出来なかった。移動するしかない。わたしは人々が永遠に編み続けている糸の間をかいくぐるようにして、駅に戻り、都市的な速度で行き慣れた街に向かった。
新しい施設の横を通って横断歩道まで進んだが、何度も通った場所なのに、渡ることが出来ず、近くの入口から大きな施設の方に入った。姉と食事をしたのは二階の店だったが、四階まで上がって、各フロアをぐるりと一周してみた。その内に多くの店が閉店の看板を出し、沢山いた客が段々減っていった。シャンパン色の壁や絨毯が、二年前の工事中の場所に戻っていくように感じた。つぼみもその締め出しに混じって、入って来たのと同じところから外に出て、そして特段の意味なく坂を上った。
しばらく上の繁華街を歩いて回り、それから坂に戻った。二本の渡り廊下が目に映って、暗い空の中でそれはなんだか現実的でない建造物に思えた。近づけば近づく程巨大だったが、すぐ傍まで行くとガラスで閉ざされた方は見えなくなった。つぼみはまた胸の中でごつごつと物体が暴れるのを感じた。それは夕方感じたのとは比べ物にならないくらい激しく、壊れそうで、生き物めいていた。つぼみは大きく開いたままの通行口から中に滑り込んで、つかつかとエレベーターまで歩いていった。
手を解くと、つま先がまたコートからはみ出す。去る為に来たのじゃない。それは事実だった。わたしが今ここにいるという事実よりも確かな事実のようにも思えた。つぼみは俯いてダウンコートを眺める。頼りになるものは何一つなかった。あるのは巨大な海とひたすらに広い空、全てを見せてくれるけれどそれ以上近づくことを許してくれないガラス窓、それだけだ。そう思ったとき、つぼみはガラスの奥の全部が固まっていく感覚を覚えた。フレスコ画が完成するときのように、一枚の風景としてそれは急速に固まってしまった。暗い夜の遠近法には果てがあり、坂を上っていく車はそこに到達した途端に跡形もなく消えてしまうのだ。スピードを出している車が一台また一台と消えていく様子を想像して、つぼみは身体の奥から力が蠢きながら湧いて来た。そうか、とつぼみは思う。全てはあの地平線に消えていき、誰もいない真っ黒な空に太陽が昇るのだ。私の背後に、ぞっとするくらい揺るぎのない動きで、遥か下の方から太陽が昇る。また夜明けだ。つぼみは口をつぐみ、自分だけ居合わせた夜明けの万物の風景を顔を上げて見渡している。数秒か一分くらいの間そうしていてから、コートを掴んで立ち上がった。黒い大きな翼が一度目一杯開く。つぼみは一週間この光の下で過ごそうと思いながら、来た道を引き返した。
*
夜明けとシェエラザード 天池 @say_ware_michael
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