第37話
今は試験のことに集中しなきゃ。
そうは思ってみても、先日静音さんに言われた言葉が頭から離れてくれなくて、よく勉強の手が止まってしまう、なんてことがあった。
その後、翔子はいつもどおりに戻っていて、一緒に勉強したり、ひとりで勉強していてわかんないとこがあったら教えてくれたり、3人で勉強して怒ったことがウソのようだった。
あれから静音さんとも勉強会をしたり、翔子とも一緒に勉強したりして中間試験に挑み……結果にがっくり来た。
平均78点。
夏休み明けの実力テストよりも平均が落ちてしまったのだ。
いくら悩ましい宿題を静音さんから受けたとは言え、順調に上がっていた成績がここに来て下がったのは地味に凹んだ。
羽衣ちゃんもちょっと心配そうにしてくれたので、たぶんと前置きして静音さんから出された宿題のことを話した。
それを聞いた羽衣ちゃんはコンビニで買ったカルピスウォーターを一口飲んでから言った。
「んー、確かに千鶴は噂話とかにも疎いし、鈍感なところがあるとは思うけど、でも迫ってきたのは雪村さんのほうでしょ? まぁ勉強中にそんな迫るところを見せつけられて、勉強にならなくて福井さん、怒ったんじゃないかなぁ」
「やっぱり普通はそう思うよねぇ」
しかもあたしより成績のいい翔子よりあたしのほうがいいなんて言われたらプライドだって傷付くだろう。
そうなるといよいよ宿題の答えがわかんなくなってしまってあたしは途方に暮れた。
誠陵館に戻っても中間の成績が芳しくなかったことと、宿題の答えがやっぱりわかんないことで気持ちもちょっと沈みがちで、晩ご飯のときの他愛ない雑談にもあんまり加わることもなく、食べ終わるとそそくさと自分の部屋に戻って、寝転がったまま宿題の答えを考えていた。
でもやっぱり勉強のこと以外で答えが見つかるはずもなく、膨れたお腹が睡魔を連れてきていつの間にかうとうとしていた。
「…づる……ちづる……」
「ん……んん?」
「千鶴、早く起きないとキスするぞ」
その声にハッとして目を覚ますとあたしの足元に舞子さんが立っていた。
舞子さんはそのグラビアアイドル並みの豊満なプロポーションをショーツ1枚つけたままの半裸で、にやにやとあたしを見下ろしていた。
「ま、舞子さん!」
「風呂が空いたから呼びに来たぞ」
「あ、ありがとう。でもあたし、あとで入るよ。舞子さん、何番目だったの?」
「3番目だ。夏輝ちゃん、静音と来たから千鶴を呼びに来たんだ」
「そう。じゃぁ翔子に先に入ってもらうように言ってよ」
「それはいいけど、うちを部屋に上げて手ぶらで帰すつもりか?」
「へ?」
上体を起こしてあとでいいと言うと舞子さんは伸ばしたままのあたしの膝の上に乗ってきて、ボディソープの香りのする身体を近付けてきた。
「ここんとこ暑さでへばってたからな。涼しくなってきて、ようやく千鶴をうちのもんにできるようになるな」
「ちょっ、舞子さん!?」
舞子さんの顔が近付いてくる。
今度はシャンプーの香りが鼻をくすぐってきた。
キスされる!?
そう思って思わずぎゅっと目を瞑ってしまった途端、息が唇にかかるところでしばらく何事もなく、それからシャンプーの香りは遠ざかっていった。
「なんかこう、もうちょっと慌ててくれないとからかいがいがないじゃないか」
「はぁ!?」
にやにやしながら舞子さんは立ち上がるとあたしに手を差し出してきた。
「ほら、風呂でも入れよ。風呂に入って、何も考えずにぼけーっとしてたらひょっこり何か思い付くかもしれないだろ?」
「舞子さん、知ってるの!?」
「うちの部屋がどこだと思ってんだ? 千鶴のすぐ下だぞ」
そうだった。あたしの部屋は204号室で、舞子さんの部屋は104号室だった。
壁も床も薄いこの寮で、あれだけの大きな声を出していればすぐ下にいる舞子さんにまで声が聞こえていても不思議じゃない。
でも中間が終わってからもずっと考えていて、それでも答えが見つからなかったあたしは舞子さんが言うようにお風呂でボーっとしてたら答えが思い付くかもしれない、と言う言葉に素直に頷けなかった。
「なんだ、しけた顔して」
「…だって、今までずっと考えてても答えが出なかったのに、今日お風呂でボーっとしてたところで答えが出るとは思わなくて……」
「はぁ…、ホント千鶴はにぶちんだな」
「じゃぁ舞子さんは心当たりがあるって言うの?」
「あるな」
「マジ!?」
「あぁ。今までうちが千鶴に迫ったときの翔子のことを思い出してみな」
そういえばよく舞子さんにからかわれるたびに翔子が助けに入ってくれていたことを思い出す。
でもそれがなんだって言うんだろう?
舞子さんに迫られて、あたふたしてるとこを見かねた翔子が助けてくれた。
それだけじゃないんだろうか?
あたしが疑問符を浮かべていると、それを察したのか、舞子さんはわざとらしいくらいの大きな溜息をついた。
「これでもわかんないのか? ヒントその1、千鶴と翔子は幼馴染みだったんだろ?」
「うん、そうだよ。それがどうかしたの?」
「じゃぁヒントその2。仲のいい相手が誰かに言い寄られて抱く感情は?」
「……」
仲のいい友達が言い寄られる……。
もし羽衣ちゃんが誰かに告られて付き合うとかそんな話になったとしたら……。
あたしはきっとその誰かに嫉妬してしまうだろう。
あたしの親友を取るなんて、って。
そこに思い至ってハッとする。
「やきもち!」
「正解」
やれやれとでも言うように呆れた口調で舞子さんが言った途端、あたしは翔子の今までの怒ったときの行動とか言動とかが腑に落ちた。
幼いころ、一番仲のよかった翔子と再会して、翔子だとわかって、それから幼いころみたいに仲良くなれた。
そんな翔子が舞子さんや静音さんがあたしに迫ってくるのを見て、平然と見ていられるわけがない。
あたしだって翔子がもしそうだったらやきもちを焼くと思う。
あたしの友達に何してるんだ、って。
そうして気付いた途端、あたしは頭を抱えた。
うわぁ、鈍いにも程がある。
今までの翔子の態度からこんなことにすら気付けないなんて、静音さんは『ちょっと』だなんて言ったけど、ちょっとどころじゃない。かなり鈍い。
いったいどんな顔をして翔子に謝ればいいのか。
舞子さんに差し出されていた手を取って立ち上がったあたしは今度は別の難題にぶち当たってしまった。
どうしよう?
でもやきもち焼いてくれてたなんて気付かなかったって言ったら火に油を注ぐのは目に見えている。
どうやって謝るべきか悩んでいたところに舞子さんは立ち上がったあたしの頬に手を添えてきた。
「じゃぁ気付いたところで、うちの気持ちにも気付いてくれるよな?」
どこか真剣さを帯びた声が言われて『へ?』と思考が停止する。
舞子さんを見ると、いつもの嫣然とした余裕のある表情とは違って、まっすぐにあたしの目を見つめている。
「ま、舞子さん?」
「うちだって静音にばっかり先を越されて悔しい思いをしてたんだ。そんな気持ちがいったい何なのか、今の千鶴にならわかるよな?」
「え? え?」
「ホントはずっとこうしたいって思ってたんだ……」
まっすぐに見つめられたまま、舞子さんが顔を近付けてくる。
艶やかで血色のいいピンク色の唇が迫ってくる。
「ちょっ、ま、舞子さん!?」
「黙って……」
真剣な声に気圧されてあわあわしている間にも舞子さんに唇が迫ってきて、背中に両腕を回されて退路を塞がれる。
真剣な声が何を意味するのか、ここでわからないほど鈍くはない。
まさかのまさか!?
からかっていたのは半分冗談で、半分……ううん、本当はそれ以上に舞子さんは本気だったと言うことだったのだろうか。
思考がぐるぐるして逃げようにも腕をあたふたと上下させるしかできなくて、このままキスされてしまうのか、と言うところになって不意に部屋の扉が開いた。
「千鶴、お風呂空いたみたいだけどどうす……」
「ちっ」
「まま、舞子! 千鶴に何してんのよ!?」
部屋に翔子の怒声が響く。
「千鶴から離れなさいよ!」
どかどかと歩いてきて、翔子はあたしと舞子さんを引きはがす。
それに舞子さんはあっさりとあたしから離れて、にやりと笑った。
「もうちょっとで千鶴をものにできそうだったのにな。つまんね」
つまらない?
「もしかして……演技!?」
「さぁてね。翔子が怖いからうちは退散するとしよう」
そう言って舞子さんはすたすたとあたしの部屋から出ていった。
助けてくれた翔子を見ると、目が据わっている。
あ、これはこっぴどく怒られるパターンだ。
「毎度毎度……」
あぁ、やっぱり。
このあとに続く言葉を想像して、あたしは内心で覚悟を決めた。
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