EX3話:ティリア=フランシア

 今生での母の名は、ティリア=フランシアといった。

 年齢は、父と同い年だ。

 見た目は、年相応に見える。しかし、雰囲気的には、父とは別の意味で若さを感じる。体形も崩れていない。溌剌とした生命力のようなものが、満ちあふれているというか。


 胸の大きさは、それなりにある。そういう意味では、この血を引いているのならば、この体もその点は、希望が持てる。

 性格は温和で、落ち着きがある。気品や威厳のようなものは、父と同様にさして感じられないが、それはそれで、他人には親しみやすさを覚えさせるのかも知れない。


 仕事は、父のスケジュール調整や来客の応対。その他、屋敷の維持管理に携わる仕事を全般的に受け持っている。正直言って、庭園の手入れや掃除、料理は使用人に任せてしまってもいいと思うのだが、そういう仕事も彼らに混じってやっている。

 最初は、そうやって現場の様子を直に監督しているのだと思っていたのだが。どうやら、半ば趣味のようだ。監督という側面も無論あるのだろうが。


 とはいえ、スケジュール調整もそうだが、真冬の今は、屋敷の外に出る仕事はろくに出来ない。なので、冬場の彼女はというと、もっぱら厨房に立つことが多いそうだ。

 作るものは、菓子の類いが多い。パンも焼くが、それもどちらかというと、甘味を楽しむようなものになる。そして、特にクッキーを焼くことが多い。

 それ以外に、何か特別な才覚というものは感じない。そこは父と同様だ。そして、何らかの悪事を企むような真似も出来そうにない。そこも、父と同様だ。


 盲信するつもりだけは、無いが。一先ずは、信頼していい人物のように思える。

 盲信しない理由。それは何故なら、人の評価というものは不変ではないからだ。「今」がそうだろうと、これからの状況や経験次第で、どう転ぶものかは分からない。ある程度の一貫性は、あると思うけれど。


 昼と夕方の半ば、厨房の前を通りかかると、今日もティリアの鼻歌が聞こえてきた。また、何か作っているのだろう。

 厨房の中を覗き込むと、案の定だった。

 クッキーの材料を混ぜ合わせるティリアの姿が見える。


「あら、ソル。そんなところでどうしたの? 私に何か用かしら?」

 入り口に突っ立っていると、すぐに気付かれた。声を掛けられても、特に考えがあった訳でもないので、若干の気まずさを覚える。

「いえ、特にこれといった用があって来たわけではありませんわ。ただ、お母様の鼻歌が聞こえたので、覗いてみただけです」

 仕方ないので、少しの沈黙を置いて、ソルは正直に応えた。この場で駆け引きなど、恐らく不要だろう。


「あら、そうなの? でも、用があったら気にしないで言ってね?」

「はい」

 ソルは軽く頷き、そして気付く。取り立てて用があったというわけでもないが、気になっていたことはあった。


「そういえば、お母様はよく、こうしてクッキーを作られますけれど。何か理由があるんですの?」

 訊くと、ティリアは少し意外そうに目を丸くした。そして、少し気恥ずかしそうに微笑む。

「あら? ソルがまだ小さかった頃に何度も話したせいで、鬱陶しがられていたと思っていたのだけれど。忘れちゃったの?」


「ええ、どうやらそうみたいですわね」

「それなら、また教えてあげるわ。こっちに来なさい」

 何が嬉しいのか、にこにことした笑みでティリアが手招きをする。無言で、ティリアは彼女の側へと寄った。


「月婚の頃、私とあの人が仲良くなれた切っ掛けが、このクッキーだからよ」

 そう言われて、ソルも思い出す。

 飽きもせずにクッキーを作るティリアだが、エトゥルもまた飽きもせずに出されたクッキーを好んで食べている。

 ただ、一つ引っ掛かるものが残る。"月婚"という言葉だ。エトゥルとの会話でも出てきたが、前世では聞いたことが無い。この世界、あるいはこの地域特有の風習か何かだろうか?


「ごめんなさい。月婚とは、どういうものですの?」

「あら? それも知らないの? ソルぐらいの年頃なら、もうとっくに知っているものと思っていたけれど」

「ちょっと、先日の風邪で忘れてしまったことが、あるのかも知れませんわ」

 そう答えると、ティリアは大きく息を吐いた。


「そうね。酷い風邪だったものね。こうして、治ってくれて本当に良かったわ」

 しみじみとした声が彼女の口から漏れる。

「それで、月婚っていうのはね。正式に結婚する前に、二人を娶せて仲良くやれそうか、お付き合いをする。結婚を試しにやってみるような。そういう習わしよ。主に、貴族とか大きな商家の間で行われるものだけれど。そして、月婚を経て、二人に確かな絆が出来たなら、陽婚と呼ばれる本当の結婚をして二人は夫婦となるの。どうしても上手くいかなさそうなら、そこでお付き合いは終わり」

 ソルには初めて聞く制度だ。彼女は首を傾げる。


「何故、そんなことをするんですの?」

 質問に対し、ティリアは肩を竦めた。

「大小様々だけれど、名家と呼ばれるようになると、身分の差とかしがらみとかあるじゃない? それで、政略結婚とか」

「ええ、そうですわね」

 しかし、そんなもの当たり前ではないか?


「でも、だからって家の都合で相手を無理矢理娶せていいものかっていうと、そんなわけにもいかないのよ」

「どういうことですの?」

 家のためを考えれば、それは仕方ないのでは? ソルにとっては、それが当たり前の世界だったのだが。


「いくら家のためと言っても、子どもは家の道具じゃないわ。どうしても合わない相手と無理矢理娶せても、それは結局、お互いを不幸にするの。愛人を作って、妾腹の子を作って、家督や財産の争いの火種を作って。最悪、両家を巻き込んだ争いすら生み出す。そんな事が数多く繰り返されてきたのよ」

「それは結局、長い目で見れば家のためにはならない。そういうことですのね?」

「その通りよ」


 そう説明されれば、少しは分かる気がする。

 年齢的に離れすぎた相手や、性格的に問題がある相手と「家のため」に無理矢理娶せた挙げ句、その結果が当人の我慢を超えて、両家もろともに大きな損害、悲劇を生んだ例は、ソルの前世の世界ではありふれていた。

 月婚というのは、そのような教訓から生まれた風習ということなのだろう。


「それで、お母様の月婚はどのようなものでしたの? お父様は、最初はお母様と上手くやれていなかったような事を仰ってましたけど」

 懐かしそうに、ティリアは笑った。


「そうね。私の実家はここから結構離れているけれど。あの頃は、あの人の歳に近い女の子ってこの近くにいないからって、それで私が月婚の相手にって頼まれてここに来たのよ? 地元ではそれなりに大きな家だけれど、実家は貴族じゃないから、付いてきてくれる側仕えもいなくて、独りぼっちで」

 そこで、彼女は大仰に溜息を吐いた。


「そりゃもうね。成人してもいない娘が、遠くから来たというのに。どれだけ心細かったかっていうのよ。お義母様が色々と丁寧に教えてくれたからまだ耐えられましたけど。でも、だというのに、あの人ったら、一日中外に出かけてばっかり。私の事なんてほったらかしで、ろくに口もきいてくれなかったのよ。こんな人と、一緒になるなんて到底無理と思ったわ。帰ってくる度に、お小言も言った気がするわ」

「それが、どうして心変わりしたんですの?」


「その切っ掛けが、このクッキーなのよ」

 どういうこと? と、ソルは眉をひそめた。

「実家のお祖母ちゃん。ソルにとっては、曾祖母にあたるのだけど。このクッキーはその曾祖母から教えて貰ったの。それから、家を出るときのアドバイスも。相手の男の子と仲良くなれなくて困ったときは、このクッキーを渡してみなさいって」

「それを試してみたんですの?」

 ティリアは頷いた。


「ええ、ものは試しって。外に出ているのも、周囲の村や町の視察に出ていたからだというのも聞かされていたから。あの人の部屋のドアに『お疲れ様』ってだけ手紙も添えて」

「それで、何が変わったんですの?」

 くすくすと、ティリアは笑いをこぼした。


「次の日になって、外から帰ってきたとき、あの人ったら花束を持って私の前に来たわ。物凄く緊張した顔をして。顔を真っ赤にして。『これは昨日のお礼だから』『他に、好きな花とかあったら教えて欲しい』とか、しどろもどろになりながら訊いてきたのよ」

 今思い出しても傑作なのだろう、ティリアはなかなか笑うのを止めようとしなかった。

 十秒程度笑い続けてから、続きを話してくる。


「何事か訳が分からなくて訊いてみたら。環境的に仕方なかったのも分かるけれど。同世代の友達って男の子しかいなかったから、私にどう接したらいいのか分からなくて、気になってはいたけど、つい素っ気ない態度を取り続けてしまったって謝ってきたの。お馬鹿って、言ってやったわよもう」

 そう言って、ティリアは肩を竦めた。


「でも、それから律儀に私の好きな花を探して持って帰ってきてくれたり、私の愚痴にも構ってくれたりとかしてくれて。だらしないところも多けれど、領民のためには真面目で一生懸命な人なのよ。気付けばあの人のそんなところが、好きになっていたと思うわ」

 ふと、そこで彼女は天井を仰いだ。


「でもあの人って奥手だから、陽婚を言い出してくるのも物凄く待たされたけど」

 それすらも、どこか楽しげに言ってくるが。

「なんだったらソル。あなたも一緒にクッキーを作ってみない?」


「えっ!?」

 ティリアの申し出に、ソルは戸惑う。

 そんな真似、これまでしたことが無い。菓子は出されて食すものであって、作るものではなかった。


「大丈夫よ。全然難しくないから。それに、好きな男の子の心を掴むのにも、役に立つことがあるかも知れないわよ?」

 しばしの逡巡の後、ソルは頷いた。役に立つことがあるというのなら、覚えておいて損は無いと判断したから。

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