無念無想

棗颯介

無念無想

 決して沈むことのない夕焼け。大地を包み込むようにどこまでも広がる水面。足元の水面を覗き見れば電車の古びた線路が地平線の向こうまで続いている。そしてここに来るたびに最初に僕を出迎える、錆びついた屋根とペンキの剥げたベンチが申し訳程度に在るだけの無人駅のホーム。

 それが、僕の心が映し出す世界だった。


 学習するスーパーコンピュータ【FUGOフーゴ】が発明されてから半世紀ほどになるが、僕が物心ついた頃にはその物心を理解できるほどに【FUGO】の知能は発達していた。

 人の心(メディアやサービスによって性格、長所・短所などと形容することもある)を学習した【FUGO】を最大限利用したサービスの一つが、専用のヘッドマウントディスプレイを装着することでネットワーク上に作られた装着者の心象風景に意識を移し、自分の精神世界に没入できるもの。名を【Maritozzoマリトッツォ】と言った。由来はイタリア発祥の菓子の名前だが、その菓子の名も元をただすと結婚する男性(イタリア語で夫を意味する『maritoマリート』)が相手の女性に贈る品だったということに起因しているらしい。イタリア語で『FUGOフーゴ』といえば“まき散らす”という意味があるそうだが、なんというか節操のない話だ。

 外で学校の友達と遊ぶよりは家で趣味に没頭する方が性に合っている僕としては、自己の精神世界という誰にも侵されない絶対領域を安易に体験できる【Maritozzo】を利用しないはずがなかった。今の時代でインドアと言えば、現実世界の自宅の個室に閉じこもるのではなく、ネットの仮想空間に作られた心象風景に没入するのが当たり前なのだ。

 そう、個人の心を風景として映し出す【Maritozzo】が作る世界には、自分以外の人間は存在しない。それが当然のはず。

 なのに。


「今日も来たの?」

「今日もいるの?」

「私はここにいるよ。私はこの世界の住人だから」

「違う。ここは僕の世界だ。僕の心の中なんだから」

「自分の世界観を疑いもしないのね」

「目に映るものが世界だろう?」

「視野も狭いのね」


 およそ感情と呼べるものが感じられない声でそう告げる彼女は、今日も無人駅ホームのベンチに折り目正しく座った姿勢のまま僕を出迎えた。


▼▼▼


 僕が初めて【Maritozzo】を使った日。果たして僕の心の世界を【FUGO】はどう解釈するのかと期待に胸を膨らませて来てみれば、そこには既に先客がいた。

 

「君は誰だ?」

「クオン。それが私の名前」


 そんな名前の知り合いはいなかった。【Maritozzo】のユーザーレビューにも心象風景にNPCノンプレイヤーキャラクターがいるなんて書いてあった記憶もない。すべてが僕の心で構成されているこの世界において、彼女だけが異物だった。


「ここで何をしているんだ?」

「待っているの」

「何を?」

 

 確かにこの僕の心象風景には廃駅のホームと水に沈んだ線路が存在しているが、実際に電車が運行しているなんてことはないだろう。

 彼女の回答はこちらの予想以上に物騒なものだった


「世界の終り」


▲▲▲


「………」

「………」


 誰もいない、何も来ない、何も変わらない景色の中、廃駅のベンチに並んで座る僕達。初めて会った日、世界の終りを待っていると言ったクオンは、読書で暇をつぶすでも鼻唄を歌うでもなく、微動だにせずただ静かに視線の先にある沈まぬ夕日を見つめていた。


 ———ロボットみたいな子だよなぁ。


「———何?」


 こちらの視線に気づいたのか、クオンが語りかけてきた。


「いや。いつもそうやって夕日見つめながらボーっとしてるけど、退屈じゃないのかなって」

「考え事、してるから」

「具体的に言うと?」

「いつ世界が終わるか」

「破滅願望が強いんだね、君」

「………」


 ここに来るたびに彼女と顔をあわせて、途切れ途切れながらこうして会話するようになったが、彼女は一貫して“世界の終り”とやらに固執していた。世界の終りというのが具体的にどういうことで、なぜ彼女がそれを待ち望んでいるのかは、聞いてもはぐらかされるかだんまりを決め込まれているが。

 何にしても、ここは僕の心の世界であり、こちらのあずかり知らないところで僕の中に居座り続ける彼女は不法占拠者に等しい。


「何でもいいけどさ、早く僕の心から出ていってくれないかな」

「ここは私の住む世界なのに、どうして出ていかなきゃならないの?」

「今日も交渉は平行線のままか」

「私は何も間違ったことは言ってないよ」

「こっちも何も間違ったことは言っていないんだけど」

「自分の世界を疑わないのね」

「君にも疑ってほしいんだけどな」


 こんな具合で、こちらの立ち退き勧告を一向に聞き入れてくれない彼女とどこにも向かわない不毛な会話を繰り広げるのが日課と化しつつあった。


「僕の孤独な世界はいつになったら訪れるのやら」

「孤独?」


 僕の悪態に、隣に鎮座していたクオンが反応した。


「そう、孤独。僕しかいない僕だけの世界。僕にとっての楽園」

「ただ一人になるだけで孤独にはなれないよ」

「“孤独”って言葉の意味、知ってる?」

「貴方の方こそ」

「一人ってことだろう?」

「合っているけど、正確じゃない」

「物理的か精神的かの話?」

「そう」


 鉄面皮を絵に描いたような無表情でクオンは語るが、あいにく自分は彼女が思う以上に孤独だ。それはこの世界が証明している。


「精神的にも孤独だよ僕は。何もない、静寂しか存在しないこの世界がその証拠だ」

「私がいるよ。だから貴方は孤独じゃない。よかったね」

「そう、だからどこかへ行ってほしいって話なんだけどな。話が振り出しに戻っちゃってるよ」


 僕は別に、家庭環境に悩んでいるとか学校でいじめられているとか周囲との才能の差にコンプレックスを抱えているなんて事実はない。ただシンプルに、他人よりも自分を優先したいというだけ。他人に優しくするより自分に優しくしたい。他人に割くリソースが惜しい。大なり小なり誰でも思っていることが少しばかり度が過ぎているだけだ。

 他人に迷惑をかけなければ、一人が大好きでも構わないだろう?

 もし自分に才能と呼べるものがあるとすれば、それは誰よりも自分を大事にするという才能だと思っている。


「なぁ、本当に君は一体誰なんだ?」

「クオン」

「それは知ってるよ。聞いているのは君がどこから来て、何のためにここにいるのかってことだ」

「私はこの世界が生まれたときからここにいるよ。そしてこの世界が終わるのを待ってる」

「やれやれ」


 彼女の言うことはいちいち抽象的というか要領を得ない。もう少し具体的な質問を投げてみよう。


「じゃあ、君の好きなものは?」

「音楽かな」

「音楽?」


 意外な回答だった。確かに凛とした佇まいの彼女が沈まない夕焼けに照らされたこの世界でイヤホンを繋いで曲を聴いている様は実に絵になるだろう。この何もない世界に住んでいるという彼女がいつどこでどうやって音楽を聴いたのかという疑問は残るが。


「どんな曲が好きなんだ?」

「人の声が入っていないもの」

「つまりインストか。趣味が合うね」


 偶然にも、その好みは自分と一致していた。自分も音楽は好きだ。普段現実で外を出歩く時はイヤホンで音楽を聴くことを欠かさない程度に。周囲の声や生活音を聞くと、自分の生きている世界には自分以外の人間が大勢いるということを嫌でも実感してしまう。だから聴く音楽も、不要なものが削ぎ落とされたインスト曲が大半を占めている。もっとも彼女がそういう後ろめたい理由でインストを好んでいるのかは分からないし、多分違うと思う。


「何か、曲でも流そうか」

「……流せるの?」

「【Maritozzo】の機能にそのくらいは組み込まれてるよ」


 僕は宙で手を開くと、【Maritozzo】のメニュー画面をそこに浮かび上がらせた。俗に言う空中ディスプレイというやつだ。便利なもので特定のハンドジェスチャを行うことでこうした機能を呼び出すことができる。


「これなんてどうだろう?」


 かけたのは普段現実世界でよく聴いている、とあるアニメのBGMで使われたという楽曲だった。ピアノしか使われていないシンプルな旋律だが、静かに奏でられるメロディはこの何もない世界には丁度よく噛み合っていると思う。


「………」


 彼女は静かに目を伏せ、まるで音をじっくり咀嚼でもするかのように聴き入っていた。傍から見ればベンチに座ったまま眠っているようにも見える。

 曲が一周したところで彼女は瞼を開けた。


「———うん。好きだよ、この曲」

「それは何より」

「他にも、あるの?」

「曲?」

「そう」

「一応あるけど、全部ではないね。【Maritozzo】でインストールしてあるのは普段現実リアルで聴いてる曲の一部だから」

「聴きたい」


 そう訴える彼女の瞳には、これまで見えなかった彼女の感情ともいえるものが宿っているように見えた。その目に、僕は少しだけ興味を持ったんだと思う。


「じゃあ、明日ここに来る時までに現実向こうで準備しておくよ」


 思えば、僕が自分の好きなものを他人に勧めるような真似をしたのはこれが初めてだった。


***

***

***


「———うん、気に入った」

「クオンならそう言うと思ったよ」


 これで二百五十五曲目。アニメ・ゲームのBGM、クラシック、ヒーリング、ケルト音楽など自分が気に入った曲をクオンに聴かせるようになってからというもの、奇妙な交流が続いている。

 毎日家に帰って【Maritozzo】で精神世界に入り、彼女と駅のベンチに座って一緒に音楽を聴く。ただそれだけ。特別会話が弾むわけでもないしそれ以上何をするでもない。ただボーっと水平線の向こうに沈みそうで沈まない夕日を見つめるか、水平線の向こうまで続く廃線の線路を目で追うだけ。そこにあるのは無為自然とした時間。

 元々は彼女の素性を探るために始めた行為だったが、クオンと過ごすこの時間をどこか心地良いと感じているのは否定できない。でも、それを間違いだと非難する自分もいる。僕が彼女と過ごしながら考えているのは大抵いつもそのことだった。


「本当に沢山音楽を聴いているのね」

「音楽を聴いてないと人間社会で生きていくなんてことできないからね」

「そうなの?」


 クオンは不思議そうにそう尋ねた。


「他人の声なんて僕にしてみればただの雑音だから」

「本当に人が嫌いなのね」

「嫌いだね」

「どうして?」

「いろいろ挙げればキリがないけど、敢えて一言でまとめるなら“自分じゃないから”かな」

「?自分と他人が違うのは当たり前じゃないの?」

「そう、当たり前だよ。当たり前だけど、他人と違うから問題が起こる。学校のいじめから家庭ごとの貧富の差、国家間の戦争まで。結局のところこの世界におけるすべての不幸の原因は人間同士の“非同一性”で、同時に人類にとって最大の不幸がそれだと僕は思うよ」

「………そうなんだ」


 そう言うとクオンは少しだけ悲しそうな顔を見せた。


「どうしたの?」

「ねぇ―――さとる


 彼女が初めて僕の名を呼んだことに、僕は少なからず驚愕する。

 そして次に彼女の口から出る言葉が、僕の世界を変えた。


「私のことも、嫌い?」



>「嫌いだ」

 →Next 『無念』

>「嫌いじゃない」

 →Next 『無想』

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