第32話 緊急訓練の話 4

「……………え…………」


 ソフィアは鏡から視線をはずし、自分の左肩を見る。

 当然、そこには何もない。


「ソフィア?」

 真正面に立つライトに声をかけられ、ソフィアは顎を上げた。


「どうした」


 促され、ソフィアは再び手鏡に顔を向ける。

 やはり。

 泣きほくろのある女が、うつろな目で鏡を見つめている。


「なんなの……?」


 ソフィアは鏡越しに尋ねる。若干声が震えた。手も小刻みに揺れている。鏡が定まらない。


 その、歪にぐらつく鏡に。

 女は身を乗り出すように顔を近づける。


 徐々に大写しになる手鏡を、ソフィアは反射的に手放そうとした。


 途端に。 

 ぐい、とその上からライトに握られる。


「そのまま」


 いつの間にかライトは膝を突いて床に座っていたらしい。鏡の裏からライトの顔が半分覗いている。


「彼女が何か言う」


 黒瞳が冷徹にソフィアを見ていた。最早力を失ったソフィアの手ごと、彼は手鏡の手持ち部分を握り込んでいる。


「聞いて」


 促され、ソフィアはおそるおそる鏡を見る。顎が小さくかちかち鳴るが、ライトの手も、目も。彼女がここから逃げ出すことを許さない。


 ふぅ、と。


 鏡に大写しになった女が、ソフィアに向かって呼気をはいた。一瞬顔を背け、目を閉じたが、特に異変はない。ソフィアはそっと目を開ける。横目で、慎重に鏡を窺う。


「……あ……」


 鏡は、真っ白に曇っていた。

 ふぅ、と。

 女が呼気を吹き付けたせいだと気づいたのは、それが小さな水蒸気の粒に見えたからだ。


 その曇った鏡面を。

 女の指がなぞる。


「文字を……」

 ソフィアは呆気にとられて、鏡の向こうにいるライトに告げる。


「あの人、文字を……」


「読んで」

 ライトの指示に無駄は無い。ソフィアは頷く。


 呼気で曇る鏡面を、女の指が撫でた。

 つるり、と動くたびに透明な文字が綴られる。


 当初は、表出されるアルファベットをそのまま読み上げていたソフィアだが、それが意味をなしたとき、眉根を寄せた。


「please help me……?」


 どういうことだ。

 ソフィアは目を瞬かせる。


『この艦に乗る前に別れた恋人だ。ナターシャ』

 アンリの言葉が、記憶を揺さぶる。


『いろいろ口うるさい女だったんだ。最初は従順だったのに、だんだん俺に対して「どこに行くの」とか「私を連れて行って」とか……』


 執着心が強く、生き霊になってでもアンリにつきまとう、束縛系の女ではなかったのか。


――― ……助けて、って……?


 なにから。


 ソフィアは戸惑いながら、鏡面を見る。

 曇った鏡には、虹色に澄んだ文字しか見えない。


 助けて。


 自分の執着心からだろうか。

 魂だけになってもとらわれてしまう自分の心から、だろうか。


 どうすればいのか。

 自分に何が出来るのか。


 ソフィアは躊躇ったように忙しなく視線を左右に揺らす。

 その彼女の耳に、突如サイレンが飛び込んだ。


「艦体、被弾!」


 合成音声が室内に鳴り響き、ソフィアは悲鳴を上げた。


 同時に艦が揺れる。

 固定具で床と接着させていたとはいえ、車いす本体が大きく左右に触れた。


 ソフィアはだが。


――― 手鏡……っ


 真っ青になった顔で咄嗟に握りしめた。落としては大変だ。これはライトの母上が〝お守り〟として持たせた物だ。


 両手で手持ち部分を握りしめたせいだろう。あっけなく上半身が揺れ、振り幅から車いすの肘掛けから身を乗り出す。


――― 落ちる……。


 ぎゅっと目を瞑り、来たるべき床への衝突に身構えていたが。


 ぐい、と。

 前方から何かがぶつかってきて、ソフィアの背は車いすの座面に押しつけられる。軽い衝撃に首を後ろにのけぞらせたが、慌てて体勢を整えて目を開けると。


 視界が、真っ暗だ。

 何度かまばたきをして混乱する情報を脳が整理してみれば。


 目の前に広がるのは、喪服の『黒』だと気づく。

 肩口から腕にかけて感じるのはぬくもり。顔から胸にかけて感じるのは、軽い圧迫だった。


「大丈夫?」


 声が上から振ってくる。

 ソフィアは顎を上げた。


 直ぐ側に。

 ライトの顔がある。


「あ、ありが……」


 ありがとうございます、と言おうとして口ごもる。

 どうやら、自分は、膝立ちになって正面にいるライトに、抱きすくめられているらしい。


 そう気づくと同時に顔がどうしようもなく熱い。


 顔だけじゃない。

 伝播した熱は首から手から体から。

 ソフィアの体を真っ赤に染め上げていく。

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