第29話 緊急訓練での話 1

「ああ、よかった。ハートさん」


 自室のある廊下で声をかけられ、ソフィアはジョイスティックを操作して振り返る。


「連絡をしようと思っていたんだ」


 そこにいたのは、経理課の中尉だ。目を細めて笑い、手に持っていたタブレットを掲げて見せた。どうやら、それでソフィアと通信しようと思っていたらしい。


「すいません。なにかお店のことで?」


 珍しく定時に閉めたものだから、困ったことでもあったのだろうか。ソフィアは慌てて彼を見る。


「いやいや。単純に、業務連絡」

 中尉は颯爽と歩み寄る。


 職業軍人とは思えないほど華奢な男性だ。愛用の、大きな黒縁眼鏡のせいもあり、企業の中間管理職に見える。


――― だけど、軍靴をはきなれてるなぁ……。


 彼の靴底にも電磁石が入っているだろうに、ライトのように、がつがつと物音がしない。スムーズに近づく彼は、やっぱり軍人さんだな、とソフィアは妙なことで感心した。


「あのね」

 中尉はソフィアの正面に立つと、声を潜めて腰を折る。


「なんですか」

 思わずソフィアも神妙な声で尋ねた。


「一○分後、『敵艦に遭遇する』っていう緊急の訓練をするんだ」


 囁くように中尉はソフィアに告げた。

 ソフィアは不思議そうにそんな彼を見る。


「行事予定にありましたか?」


「ないよ。だから、『緊急』の訓練なんだ」

 中尉は陽気に笑う。


「射撃手や戦闘機乗りが、不意な攻撃を受けてどれぐらい適切に対応できるか、ってところをシュミレーションするんじゃない?」


 中尉はそう言うと、「ま。ぼくらは、ほぼ蚊帳の外」とまた笑う。


 そんな表情をすると、目尻に深いしわが出来て、本当に人のよさそうな笑みを作る。この人は軍人なんか、向いてないなぁ、とソフィアは思うのだが、そこはやはり適性をよく見られているのだろう。彼は入隊以来、ずっと事務畑を歩んできているのだそうだ。


「先日みたいに、無重力状態になることはないと思うけど……。一応、極秘訓練だから、詳細は聞かされてないんだよね」


 中尉は腰のホルダーにタブレットを差し込み、むふぅ、と息を吐いて腕を組む。


「ただ、ほら。ぼくの管轄には君がいるから。『こっそり、訓練があることだけ伝えておきなさい』って、艦長が」

 中尉はそう言うと、ぎゅっと眉根を中央に寄せた。


「結構揺れるから。カラビナをどこかにひっかけて、車いすを固定しておくといいよ」


 そう言って、ソフィアの車いすに付属している腰ベルトを指さした。


「それもちゃんと締めてね」

「わかりました」


 ソフィアは笑みを浮かべる。どちらかというと、苦笑いだ。ソフィアの父親と年齢が近いせいもあり、中尉が自分を見る目は、いつも過保護だ。「障がいがあるから」というより、「娘と年の近い娘さんに、なにかあれば大変」という親目線を感じて、ソフィアはくすぐったい。


「あと二日ほどで、この航海も終了だね」


 中尉は、にこりと口角を上げて見せた。ソフィアも頷く。艦に乗り込むまでは、三ヶ月の派遣期間が随分と長く感じたものだが、始まってしまえば、あっという間だ。


「君と一緒に仕事ができて、ぼくは楽しかったよ」


「光栄です。中尉。私もです」

 ソフィアは心からそう伝え、それから彼を見上げた。


「帰港したら、やはり家族に会えることが一番楽しみですか?」


「そりゃそうだよ」

 大きく頷いてみせたが、その後顔を顰める。


「まぁ、あっちはどう思っているか知らないけどね」

 ふてくされたようにそういうから、ソフィアは笑った。


「今度ね、孫が生まれるんだよ」

 笑顔のソフィアをまぶしそうに見ながら、中尉はそう言う。


「そうなんですか! おめでとうございます」

 ソフィアは両掌を合わせて中尉に笑顔を向けた。


「予定日は?」


「今から一か月後なんだけど……。初産って、早いっていうじゃないか。ひょっとしたら、もう生まれてるかな」


「それは気が早すぎでしょう」


 ソフィアは噴き出す。予定日より早くなる、と言ってもせいぜい一週間前後ではないだろうか。


「艦がついたら、有休消化で、結構長くお家でお休みができるんでしょう?」

 ソフィアが尋ねると、「まあね」と中尉は照れたように笑った。


「じゃあ、出産に立ち会えますね」


「生まれたら、写真を見せるよ」

 真面目な顔でそういう中尉に、ソフィアはまた笑う。もう、孫馬鹿決定ね、と心の中で思いながら。


 ふと、気づいた。

 妊娠や出産。それに恋にまつわる話を、この艦内では結構自然にしていたな、と。


 射撃手のあの彼は同室の愚痴をよくソフィアにこぼしていたが、会話のほとんどは、残してきた恋人ののろけ話だ。この中尉もこうやって、娘の妊娠や出産の話をするし、戦闘機乗りの少尉も、ソフィアを女性として気遣ってくれる。


 もちろん、ライトも。


「あのさ、ハートさん」


 中尉の呼びかけに、ソフィアは目を瞬かせた。

 表情を改めて、中尉が自分を見下ろしている。


「なんですか?」

「さっきも話したけど、君と一緒に仕事ができて、本当によかったんだよね」

 中尉は膝を折って座ると、ソフィアと視線を同じにしてそういう。


「できれば、次の航海も君と仕事がしたいと思っている。それは、この艦内のクルー全員の意見でもあるよ」


「ありがとうございます」


 ソフィアは戸惑いながら小さな声で応じる。中尉はそんなソフィアを見つめ、穏やかに笑みを深めた。


「お世辞じゃない。だからね、ハートさん。是非、その旨を本社に伝えて欲しい。もちろん、ぼくからも軍を通じて本社に連絡をするつもりなんだ。君を再び、この『白童丸』に派遣して欲しい、って」


 ゆっくりとまばたきをするソフィアに、中尉は笑みに苦みを混ぜる。


「だけど、ほら……。この艦は、『不思議なこと』が多いだろう?」

 言ってから、中尉は肩を竦めた。


「あ。今のは、十分表現を和らげて君に伝えてみたんだ」

 ソフィアは思わず噴きだした。


「そうですね。『不思議で、とても怖いこと』が多いですね」


 ソフィアは両手で口元を隠し、くつくつ笑いながら中尉を見る。中尉も応じるように声を出して笑った。


「そうなんだ。『不思議で、とても怖いこと』が多いもんだからさ。売店の派遣はいつも『更新』されない」

 中尉は、そんな彼女を下から見上げ、柔和に微笑みかけた。


「ぼくらは、みんな、君とまた仕事がしたい。だけど、そのことを、軍を通して君の本社に伝えたら、それは半ば命令になるだろう。ぼくらは、君を困らせたいわけじゃない」


 中尉の言葉の端々からは、ソフィアへの気遣いや、配慮が感じられ、ソフィアはやっぱりその好意がくすぐったい。


 同時に、とてもありがたいと思った。


 社会に出て。

 いや、脚を失ってから〝対等〟に扱われたことは、ほぼない。過大な気配りや、憐憫からの庇護はあったとしても。

 期待されることなど、ソフィアにはなかった。


 そもそも〝共に並び立つ存在〟として扱われたことはなかったのだ。


 だが、この艦は違う。

 ソフィアの技術を認めてくれたし、ソフィアをひとりの仲間クルーとして、必要だとも言ってくれた。


「もちろん」

 ソフィアは力強く頷いた。


「もちろん、私もこの艦にまた乗りたいです。ぜひ、宜しくお願いします」


 中尉は大きく頷くと、手を伸ばし、ソフィアの頭を柔らかく撫でた。懐かしい、とソフィアは思う。まるで父に褒められたようだ、と。


「ありがとう。今後ともよろしく」


 中尉はするりと立ち上がると、「……さっきのセクハラかな」とソフィアを撫でた手を見て呟くから、ソフィアはまた笑い声を立てた。


「じゃあ、訓練中、十分注意をするんだよ」

 中尉はそんな彼女を穏やかにみつめ、そう言った。


「僕はこれから持衰のところに行って、訓練を伝えて……。それからブリッジに戻るよ」


「あ……。ライトの所に?」

 ソフィアの言葉に、中尉は驚いたように目を見開いた。


「持衰を知ってるの? 驚いた。いつの間に本人を知ったんだい」

「いろいろ、ありまして」

 ソフィアは言葉を濁し、そしておそるおそる申し出た。


「もし、よろしければ私が彼に、伝えますが……」


「いや、そんないいよ!」

 中尉は慌てて首を横に振るが、ソフィアは「大丈夫です」と彼の前で拳を握ってみせる。


「この電動車いすをもってすれば、中尉よりすみやかにライトの所に行き、ミッションを達成することが出来るでしょう」


 ソフィアは出来るだけ堅苦しい言葉遣いで言うと、軍人のように敬礼をしてみせた。


「中尉、ぜひ私にお申し付け下さい」


 くすり、と中尉は悪戯っぽく笑うと、「うむ」と表情を引き締めて自分も敬礼をする。


「では、ソフィア・ハートくん。君に命じよう。持衰のところに向かい、今回の極秘情報を伝えてくるのだ」


「ははっ。その後、可及的速やかに自室に戻り、大人しくしております」

 ソフィアは、ぴんと背筋を伸ばす。中尉は、もっともらしく首肯した。


「うむ。頼んだぞ!」


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