第15話 営倉での話 2
「セイラが、
ライトは椅子に座り、右手に持ったカップに、ふう、と息を吹きかけた。どうやら猫舌らしい。カップに口を寄せては、顔をしかめ、しきりに、ふうふうと呼気を吐きかけている。
「私は、人間の……、女の子だと思っていました」
ソフィアは苦笑し、紅茶を口に含む。
真っ先に感じたのは渋味だ。濃いめに入ったから更に鮮烈になったのかもしれない。少しスモーキーな香りが口腔に広がる。
この味なら、ミルクをもらえばよかった。
「本来、持衰は人間だよ」
ライトはそろり、とコーヒーを口に含み、それから安心したように微笑んだ。ぎしり、と音を立てて簡素な椅子に深く腰掛けると、向かいのソフィアに視線を向ける。
「其の行来、海を渡りて中国に詣でる時、恒に一人をして、頭を梳けらず、機蝨を去らず、衣服垢汚し、肉を食せず、婦人に近づかず、喪人のごとくせしむ。
これを名付けて持衰となす。
若し行く者吉善なれば、共にその生口と財物とを顧し、若し疾病あるか、暴害に遭わば、便ち之を殺さんと欲す。
其れ 持衰 謹まずと謂うなり。」
いきなりつらつらと並べられた言葉に、ソフィアは目を丸くする。
「なんです、それ」
呪文かと思った。ソフィアは長い睫を瞬かせる。ライトは笑った。
「ふるーい、書物に載ってるんだ。長い航海をするときにね。あ、ここでの航海というのは〝海〟のことだけど」
ライトは前置きをすると、さらにネクタイを緩めてシャツのボタンをひとつふたつ、外した。
ふうと息をつくと、露わになった喉仏が大きく上下する。なんとなく中性的な容姿をもっているが、やっぱり男性なんだなぁ、とソフィアは妙なことに感心をした。
「まだ、エンジンとか、羅針盤とかない時代の話だ。航海をするにも命がけ。その船にね、ひとりの男を乗せるんだ」
ライトと目が合って、ソフィアは慌てて視線を逸らした。あんまり見つめすぎては失礼だろう。ソフィアは紅茶を口に含み、尋ねる。
「どんな?」
「髪を伸ばしっぱなしでとかず、のみやしらみをわかせ、喪服の衣服を汚したままの男」
聞いた瞬間ソフィアは眉根を寄せる。随分と不潔な男だ。
そう感じたとき、思い出した。そうだ。電気員の男がそのようなことを言っていたではないか。
随分と不潔な男を船に乗せるのだ、と。
もし、災いが起ったら。
人身御供にするために。
「航海中、その男はずっと不潔なのですか?」
ソフィアは顔をしかめたまま尋ねた。
「ずっとさ」
ライトは笑った。
「その不潔な男は、肉や魚を食べず、女性を近づかせず、ただ、航海の安寧を祈るんだ。で。もしも航海が無事済み、港についたなら、この男は解放される。たくさんの褒美や金、食べ物をもらってね」
「船から降ろされる……?」
ソフィアは驚く。では、クルーではないのだ。ライトは頷き、「ただ」と続けた。
「もし、嵐に見舞われたり、船内で疫病が蔓延したりしたら……」
「したら?」
ソフィアは繰り返す。渋い紅茶だと思ったが、存外、口の中がさっぱりした。
「持衰は殺される」
「え、こ、殺すんですか?」
やっぱりそうなのか、とソフィアは素っ頓狂な声を上げた。ライトは短く笑う。マグカップを机に置くと、手を伸ばして人形を持ち上げた。
「殺す、というか。生け贄にされるのさ。災いをとめるためのね」
生け贄。
小さく呟くソフィアの前で、ライトは人形を抱く。
大きなその人形はまるで彼のこどものようだ。左肘に腰をかけ、上腕部に背をもたせかける彼女は、ゆるく瞼を閉じたまま、ライトを見上げていた。
「荒れた海に身を投げて水難を逃れる話、というのは割とよくある。それと同時に、災害から逃れるために人の命を差し出したり、ね。持衰はそういった役割を担っていたんだ」
ライトは人形の襟を正してやりながらそう続ける。顎を上げて彼を見上げる人形は、うっとりとされるままに見えた。
「今は流石に、人身御供はしない。かわりに、人形を使ってるんだ」
「それが、
ソフィアの言葉にライトは頷く。
「その身に、災いを呼び込み、喰らう。彼女がこの航海の持衰だ」
「彼女が、ってことは他にも?」
ソフィアは首を巡らせた。部屋には他に人形らしいモノは見当たらないが。
「航海のたびに、持衰は替わる。褒美を持たせ、綺麗にして、その役目から解放してやらないとね」
ライトは笑みを浮かべてソフィアにそう言った。
その口調も、眼差しも。とても柔らかだ。ソフィアはそっと、彼の腕の中にいる人形を見た。
さっきまで肉を喰らい、皮膚を裂き、宙を飛んで獲物を捕獲していた人形。
ソフィアは瞬時に鳥肌だった腕を、服越しにさするが。
ライトは彼女とは違う目で人形を見ているのだろう。
その身に災いを呼び込むためだけに作られた人形。
解放されるまで、戦うことを使命づけられた人形。
ソフィアにとってはおぞましささえ覚える人形だというのに。
ライトは愛しげにその、汚い髪を撫でている。
「前の持衰はキャロラインというお嬢さんだったんだ。彼女は衛星タイタンで解放され、乞われて航海士に譲り渡した。今は彼の奥さんのものになっているよ」
「……そう」
ソフィアは小さく頷いた。
では、このセイラという人形も、この航海演習が終了すれば、誰かの人形になるのだろう。綺麗に洗われ、衣服を取り替え、そして、目の前のこの様々な貢ぎ物を持って。
「あ」
ソフィアは小さく呟く。「なに」。ライトが目を見開く。
「これ、セイラのための品物なんじゃないですか? 私、食べちゃった……」
正確には『飲んだ』のだが、いいのだろうか、とソフィアは戸惑う。ライトは声を立てて笑った。
「セイラがいい、って言うんだから問題ないよ。ってか、セイラは喜んでるからね」
「セイラが?」
ソフィアは、人形を見る。
ライトが揺すり上げたからだろう。かちん、と音を立てて眼球が動く。ごろり、と青い瞳がソフィアに向けられ、彼女はぎょっとした。人と全く違わぬ双眸には、怯えたような自分の顔が映っている。
「いつもは、ぼくとふたりだけの生活だから。女の子が来てくれる方が良いみたい。それに、君のラッピングは綺麗だ、って褒めてたしね」
ライトは暖かな眼差しを人形に向ける。
ソフィアはぎこちなく笑みを浮かべ、それから急いで紅茶を飲んだ。
人形も気味が悪いが、その人形を、生きているもののように扱うライトというこの青年も十分薄気味が悪い。
あの時は、なんとなく茫然自失としていたので、「よかったら部屋でお茶でもどう?」と誘われてついて来てしまったが、早く退出しよう。そう思って胃の中に紅茶を流し込む。
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