一章 三節 先輩はいつだって理不尽
先輩に怒られて、部活始めのミーティングが終わって、気が付けばもう憂鬱な練習の時間になっていた。空の色は、まだ青い。まだしばらく家には帰れないだろう。
そんなどうでもいいことを考えつつ、トランペットを構えた。銀色に輝く楽器は窓の外の青を反射している。私にはどうしてもそれを綺麗だと思うことはできない。
お腹を膨らませるように、息を深く吸い込んだ。その息を楽器全体に行き渡るように通して、まずは楽器を暖める。
夏の楽器は冬の楽器に比べれば温かいが、それでもまだ演奏するには冷たすぎる。楽器を吹く前に暖めないとろくな音が出ないのだ。
楽器を温めながら、周囲を確認する。今日はパートリーダーの先輩が休みなので、同期一人と先輩二人、後輩三人、そして
そのなかでもまともに練習してるのは氷斗さんと私だけだ。多分、パートリーダーの監視がないせいだろう。監視役がいないだけでここまで崩れるとは流石底辺公立中学校だ。
後輩三人と同期は楽器を放置してはしゃぎ回って遊んでいた。先輩二人は何故かダンスを踊っていた。無論、私にはこの人達を注意することも出来ないし、出来たとしても絶対にしない。
なぜなら彼女らは全員スクールカースト最上位にいる人間だから。注意なんてしようものなら明日から一軍どものいいおもちゃに成り下がるだけだ。
「天音さーん、ちょっとこっちで一緒にやりませんか? 楽器の音の高さを調節したいんですよ」
同じく銀色のトランペットを片手に持った氷斗さんがこちらに声をかけてくる。もう片方の手をブンブン降っている。楽器、音落とさなければいいけど。
それはそうと、私にはこの人が楽器を出来るイメージはなかった。むしろ音楽が苦手だとどっかで言っていた気がする。
それなのに、
「……別に構いませんけど」
そう口にしながらも私は美鈴先輩の方をみた。やっぱりまだ踊っていて、私達なんていないかのようにはしゃいでいる。
ただこの先輩の厄介なところは、遊んでいるときでも私が気にくわない行動をすればすぐに叱りにやってくる所だ。自分が練習していないにも関わらず。
「天音さんどうしたんですか?」
「あ、いや何でもないです」
考え事をしているときに硬直してしまうのは私の良くない癖だ。
「音だしってやりました?」
「もし仮にやっているように聞こえたなら貴女の耳は腐っていますね」
「ひっどいなぁ……まあいい、それじゃあ音だしの時間五分くらい取るんでそしたら音合わせますか?」
音だしはとても大事だ。それをやるやらないで一日のコンディションは変わってくる。
「それじゃあ今が47分なので……52分にやりましょうか」
「りょーかいです」
氷斗さんが自分の場所に戻った事を確認したら、私はもう一度トランペットを構えた。
今度はさっきよりも深く息を吸ってから、鋭い息を管の中に通した。出た音は、チューニング
そこから息の流れる速さと、指使いを変えて音をどんどん下に下げていく。ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ドと一回下げきると、いつもより音が高い事に気が付いた。
一度トランペットをおろして、チューニング管と呼ばれる管を少し抜いた。そうすると、少しだけ音が低くなるはずだ。
もう一度構え直してチューニングB♭を吹いた。うん、今度はわりといい感じかもしれない。
そんな感じで、いつも通りにまずは個人で音をそろえる作業をしているときのことだった。
「天音ちゃん、なんで今になって音出しをしているの?」
「……少し準備に手間取ったせいです」
振り返らなくてもわかる、この声は絶対美鈴先輩の声だ。❘お
「いつも準備早くしろって言ってるよね?」
「はい」
適当に返事をしつつバレないように先輩の使っているスペースを確認してみた。こちらは準備どころか楽器すら出ていない。流石という感じだ。
「何度も同じことを言わせないでよ」
「すみませんでした」
「他の子はみんな自立してるし、どうして人と同じことができないの? もしかして頭が良くないから? あなただけだよ、みんなの足手まといなのは。大して上手でもないくせに先輩にたてつくなんて信じられない」
「……」
まったく、こちらが反応しないのを良いことに言いたい放題である。とりあえず適当に謝っておくべきであろう。こういう理不尽には謝罪が一番効く。
「すみませんでした」
「その言葉はいいからはやく練習を始めて!! ただでさえ上手じゃないのにこれ以上練習しなくなったらもっとできなくなっちゃうよ」
「わかりました」
はい、すみません、わかりました、この三つは私が愛用している言葉だ。基本的にこの言葉を繰り返しておけば中学生相手ならどうにでもなる。
「それじゃあ早く練習して」
「はい」
嵐のような美鈴先輩が去っていったのを確認し、一つため息をついた。たかだか一つ年上の、ただの中学三年生に何故怒られなけれないのだろうか。
こっちにすべての非があるのであれば仕方がないと思う。ただ、先輩たちのように遊んでいるわけでもなくただもくもくと準備をして、ようやく練習を始めようとしたときに注意される……どう考えてもこちらに非がないじゃないか。
やっぱり中学生の考えることは阿呆だ。勿論、その阿呆の中に私がいないとは言えないけれど。
少し離れたところから、くすくす声が聞こえた。美鈴先輩の❘お
それと同じくらいのタイミングで、視界に氷斗さんが入った。彼はこちらを憐憫の目で見ている、まるで捨てられた猫を見るかのような目で。
氷斗さんも、やっぱりほかの人間と変わらない。ただ見ているだけでこっちを助けようとはしないのだ。
そう思った瞬間にハッとした。私は、助けてほしいのだろうか? いや、そんなはずない。先輩はあと一年もせずに卒業するんだし、私だって二年もせずにここを出ることができる。
それに、こちらが何の対価も支払っていないのに助けてほしいだなんてあまりにも身勝手過ぎはしないだろうか。
「……早く、練習しなきゃ」
そうだ、面倒くさいことを考えずに練習を始めてしまおう。無心で練習をしていれば、少しは気も晴れるだろう。ということで、私は今度こそ音出しを始めることにした。
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