──ああ。


 耳を蕩かす、甘い声。

 産湯から引き上げられるように、公達は覚醒した。


 灯りは全て落とされ、曹司は冷たい闇に包まれている。

 そして、彼自身は、闇とは裏腹に、温かく、柔らかいものに包まれていた。


「ああ……」


 今度は、甘い声が肌に響く。

 彼の引き締まった肉体の上、艶かしく蠢くものがある。


「汝は、誰ぞ……」


 掠れた声で質せば、そのものはびくりと震え、動きを止めた。

 けれど、それも一時のこと。再び柔らかい肉体がこすりつけられる。


「何故、答えぬ……何故、かような……」

「ああ……お答えできるなら、どれほど良かったことでしょう……」


 声に悲しみが混じった。もはやいかなる希望もないと、いや、のみが希望であると、悟らざるを得なかった者の声。

 悲しみが、公達の胸をも貫いた。それでいて、例えようもない快楽が湧き上がり、共に嘆くこともままならない。


「けれども、あなたさまのお言葉を聞き捨てることもできません……わたくしは、賊に拐かされたのでございます……」


 確かに、それは質しへの答えではなかった。また、そうとしか答えようのないことでもあった。

 悲と楽を同時に味わわされながら、公達は問わず語りを耳にする。


「まるで、鬼のごとくすさまじき姿なれど……啖われなかったのならば、賊であったのでしょう……。この身は、慰み物とされたのでございます……」


 公達の胸を、さらなる悲痛が貫く。

 悍ましいことであった。ことが、尚更に悍ましい。


「穢されることは、啖われるよりおぞましきことなれど……憎き者たちに骸を晒すことは、なお耐えがたきことでありました……。わたくしは、洛の方位をさぐり、賊どもの隙をさぐりました……」


 たやすいことであったはずがない。

 生き延びることは、穢され続けることと同じ。

 引き裂かれた体の傷が癒え、心の傷が膿むほどの長きに渡って、その行為は続いたに違いないのだ。


「そして……湯を使った際に、ついに賊どもの目をのがれ……洛へ駆け出したのでございます……」

「お、おお……」


 女体の蠢きが、熱を増した。

 それは、恐るべき寒気に晒された記憶に抗ったゆえであろうか。それとも、心の熾火が燃え上がったゆえであろうか。


「風が、濡れた肌をひどく凍てつかせ……粗末な朝餉を食べたばかりであったので、ひどくひもじい思いをしました……けれども、あの地獄に引き戻されることが、なにより恐ろしく……わたくしは、力の限りに走りました……」


 濡れた裸体で、冬の夜を走ることは、命捨てることと変わるまい。

 ただ、生き地獄から抜け出したかったのか。

 逃げれば助かると、愚かにも信じ込んだか。


 そうではあるまい。苦難を耐え忍び、機を伺い続けた姫だ。

 どこかを、なにかを、あるいは誰かを、目指したからこそ。

 それは、我が家でも、父母でもなかった。


「命永らえぬことは、わかっておりました……ただ、穢らわしいことのみを覚え、閻魔王に召し出されるは、あまりに耐え難く……うつくしきことを覚え、冥府へ渡りたく……」


 いつしか、女体の蠢きは止まっていた。

 さめざめと忍び泣く声ばかりが、肌を切なく揺らす。


 ようやく闇に慣れてきた目で、懐の女を覗く。

 果たしてそれは、あの哀れな姫であった。


「ああ、見たもうな……御身を穢せし罪は、冥府で償わされましょう……いまは、御目までも穢したもうな……」

「吾は、そなたに見えたことがあったろうか」


 答えずの問いに、骸姫は目を瞠った。

 泣き濡れの黒瞳は、濁りのない玉のようであった。


「ございません……ただ、風聞したばかりにございます……。あなたさまが、宿禰をお好みになると……」

「羇旅か」

「笑いたもう……そのようなおかたと、彼方に心遊ばせてみたいと……そう願うばかりにございました……」


 言って、姫は瞳を伏せる。


 万葉の双璧、山部赤人。

 叙景を能くし、自然を美しく捉え、羇旅歌たびのうたを多く遺した。


 女の身ながらにして、彼方を夢見たか。

 それでいながら、臨終の地に洛を選んだか。


 この身を、心旅立たせる門と、そう信じて。


「すまなかった」


 突然の詫びに、玉の瞳が公達を見上げる。


「訪れるべきであった。見出すべきであった。吾の胸は今、そなた一人に埋め尽くされている」

「ああ……」


 はらはらと涙がこぼれた。感涙であった。


 弔いではなかった。ひとえに己の為であった。相聞できぬ女に向けられる唯一のものが、すなわち法華経であったにすぎない。

 恋であった。やるかたない恋であった。


 胸に燃え上がる炎が、彼の体を動かした。

 女体をしかと抱き寄せ、組み伏せる。


 黒瞳が、じわりと蕩ける。

 男の熱が移ったように、女もまた燃え始めていた。


「美しきものを覚えたいと言ったが、叶えられるかわからぬ。男子は所詮、このようなもの」

「それが、見とうございました……」


 今、男は獣であった。美しき獣であった。

 最良の夜に、男がこのようになると、女は教えられずして知っていた。


 影が重なり、体が交わる。


 最初で最後の、ありうべからざる夜に、二人は、なにより美しきものを見た。

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