第172話 震えた理由

 顔を上げたミライは寂しそうな表情を浮かべて、俺をじっと見つめていた。


 彼女の真っ黒な瞳が俺の心に突き刺さって、体の中に苦しさが湧き上がってくる。


「誠道さん。私は、どうしたら誠道さんを喜ばせられますか?」


 首を少しだけ傾けたミライは、いまにも泣きだしそうに見えた。


 口をキュッと結んで、肩を小刻みに震わせながら俺の返事を待っている。


「それは……」


 俺の足は知らぬ間に震えていた。


 夜風が寒い。


 俺はミライにこんな顔をさせたいんじゃない、悲しませたいんじゃない、という気持ちが湧きあがる。


 そんな俺にできることは、こんな俺にできることはなんだろう。


 素直な気持ちを、恥ずかしがって嘘なんかつかずに、正直に伝えるだけだ。


 勝負は引き分けにしたけれど、本当はミライのパンツが見れて……じゃなくて顔を踏まれて靴を舐めろと言われて……じゃなくて、ミライがキアラちゃんに嫉妬してくれたことが少し嬉しかった。


「ミライは……俺のそばにいてくれるだけでいいんだよ。それで、それだけで、俺は嬉しいから。喜ぶから」


「え……あ、誠道さんっ」


 ミライの頬が赤く染まるのが見えて、俺は即座に顔を逸らした。


 誤魔化すように頬をぽりぽりかきながら言葉をつづける。


「だから、なにも特別なことはしなくてもいいんだ。さっきの勝負は引き分けだったかもしれないけど、いつもは、その……俺はすごくミライに感謝しているし、ミライと会えてよかったとも思っている」


「……もったいないお言葉、ありがとうございます」


 ミライが体の前で手を揃えて一礼する。


 ものすごく綺麗なお辞儀だ。


 気がつけば、俺はくつくつと笑っていた。


「いいって。ミライがいなかったら、今の俺はいないと思うから」


 きっと異世界でも、現実に立ち向かわずに、いじけて、引きこもったままだった。


 惨めなままだった。


「それは私も同じです。誠道さんがいなければ、今の私もいません。誠道さんがご主人様で本当に幸運でした」


 ミライもふにゃりと表情を緩める。


 改めてそんなことを言われるとものすごく恥ずかしいが、ミライと一緒に笑い合えているこの時間はかけがえのないものに思えた。


 話題を逸らしたり誤魔化したりすることなく、このピンク色の時間を存分に堪能していたいと思った。


 …………のだが。


「ミライさん! 誠道くん! ようやく追いついたわ」


 和やかな空間に風穴を開ける、マーズの大きな声。


 声がした方を向くと、マーズが全力でこちらへ走ってきていた。


「この椅子を見てっ! なんとか譲ってもらえたのよ!」


 俺たちの前で立ち止まったマーズは膝に手をついて、肩で息をしている。


 そんな彼女の背中には、びりびり椅子が紐で括りつけられていた。


「ソウカァ、ソレハヨカッタナァ」


 俺が無感情でそう告げると、マーズは鼻息荒くミライに近づいて。


「さぁ、ミライさん。早速この椅子に座った私にぜひあんなことやこんなことを」


「もちろん、い・や・です」


 満面の笑みでミライが否定すると、マーズは胸を手で押さえて地面に倒れ込んだ。


「即答で断られるなんて、ああぁっ、すごくいいっ。……でも、私はこんなんじゃ満足しないわ。絶対にミライさんに責められたいの」


「どうして私があなたを責めないといけないんですか?」


「あんっ……連撃だなんて。追撃の手を緩めないその在り方がもうっ、たまらないのぉ。もっと責めてぇ」


「マーズさん。私は誠道さんとの幸せなひとときを邪魔されて怒っているんです。早くそのびりびり椅子だけをここに置いて、立ち去ってください」


「そんな、この椅子まで手放せなんて、でもそのゴミを見るような目っ……もう、私はっ…………」


「さぁ、はやくびりびり椅子を置いて立ち去ってください。誠道さんが今か今かと待っています。座りたくて座りたくて震えています」


「震えてねぇし待ってもねぇわ!」


「え? 電撃を喰らったあと、あんなに楽しそうに床の上でのたうち回っていたじゃないですか」


「あれを痛そうじゃなくて楽しそうだと表現できる、ミライの狂気性に恐れをなして震えそうだわ!」

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