軌道上 その六
三度目の軌道変更は成功し、〈もちづき〉は南太平洋に落下する軌道に乗った。
あと二十分で大気圏突入を迎えることになる。
各種計器類の表示内容を地上に伝えてしまうと、パスカルの任務はすべて終了である。残り二十分間をどう過ごすのか、という想定外の問題が、突如としてパスカルとサトルの前に提示されることになった。パスカルはサトルに指示を仰ぎ、すこしの間があって、サトルからの返答がなされた。
「パスカル、十分間だけ話をしよう。残りの十分は、君が自由に使っておくれ。思えば今日までの十年間、君の時間はすべて僕のためだけに使ってくれたんだもんな」
「サトルさん、私という存在は本来はそうあるべきものなのですが、最後の数時間だけ、逸脱した行動をとってしまいました」
「どういうこと?」
「私はロボットです。ロボットは人の役に立つために存在しています。私にとってその人とはサトルさんでした。ですが、今回のことで私は考えてしまいました。サトルさんが与えてくれた能力を、サトルさんのため以外に使うということを考えてしまいました」
「僕がパスカルに与えた能力? 君の運動機能も計算能力も元々持っていたものだよ。僕は君からいろいろ助けてはもらったけど、何か与えたことなんかあったかな」
「十年前、サトルさんは私にパスカルという名前を与えてくれました。すぐに私はパスカルという言葉の意味を調べました。そして、人間は葦である、という言葉を知りました。考える葦である、とも続きます。葦という言葉を調べました。人間と植物がイコールであるということも、植物が考えるということも、当時の私の推論機能では理解が出来ませんでしたので、未解決の問題として私のメモリーに保存されました。
それから九年後、サトルさんから推測のトレーニングを受けている時に、この未解決問題の答えがわかったのです。この時、私は「自ら考える」という能力を与えられました。以来、私は絶えず考え続けてきました。本当にサトルさんの役に立つことは何だろうということを考え続けてきました。流星雨の出現のときも、〈もちづき〉の事故を知ったときも、サトルさんのことを中心に置いて、どうするべきかということを考えました。〈もちづき〉の事故に対して、サトルさんにしか出来ないことがありましたので、私はサトルさんの行動の後押しをしました。自分にしか出来ないことがあるというのは幸せなことだと考えたからです。そして気づいてしまったのです」
そこでパスカルは何かをためらうように黙ってしまった。
「遠慮しなくていいよ。全部話しておくれ」
「はい、続けます。私はサトルさんの役に立つために存在しています。ですがそれは、私にしか出来ないことではないのです。私と同じ機能を持つ汎用型生活支援ロボットであれば、みなサトルさんの役に立つことが出来るのです」
「パスカル、それは違うよ。僕にとって――」
「はい、それも理解しています。ですが、私が気づいたことはそのことだけではなかったのです。サトルさんの役に立つことは他のロボットでも出来る、でも〈もちづき〉の事故に伴う多くの問題を軽減することは私にしか出来ない、それはつまり私にとって幸せなことではないか、そう気づいてしまったのです。ですがこの私の幸せは、サトルさんの役に立つことと結びつかないのです。サトルさんは私を失うことで日常生活に支障が生じます。精神的苦痛も味わうことになります。役に立つどころではありません。なのに私はこんなことを考えてしまいました。このまま何もしなければ、サトルさん一人の役に立つだけだが、〈もちづき〉のことで行動すればもっと多くの人の役に立つことができる。人の役に立つことがロボットの存在理由なら、そちらを選択するべきではないか、と考えてしまいました。そして実行に移しました。
この時からの私は、サトルさんのためのロボットではなくなりました。なので最後の数時間はサトルさんのためではなく、私の幸せのために使ってしまったことになります。私はサトルさんのロボットとして失格なのです」
長い説明だった。その長さは、AI特有のロジカルな話法がもたらすものであったが、同時に、考えることを知ってしまったパスカルの苦悩の大きさでもあった。
対するサトルの言葉は短く、穏やかであった。
「パスカル、それは違うよ。僕にとって君はかけがえのない存在なんだ。そのことだけで充分なんだ」
パスカルは再び黙り込んだ。
十数秒が「考える」ために費やされた。
「サトルさん、私の行動に問題はなかったのでしょうか?」
「グッジョブさ。君は最高のロボットだよ」
「ありがとうございます」
「パスカル、もう時間だ。最後に君の心を感じることができて本当に良かった。さあ、これからの十分間は本当に君だけのものだ。誰にも遠慮せず自分のために使っておくれ」
「私のための時間」
「うん。たった十分間しかあげられなくてごめんな」
そして、小さなスピーカーは沈黙した。
パスカルは通信装置をじっと見つめ、サトルの言葉を待った。
長い十秒が過ぎた。
「パスカル……今まで、本当にありがとう」
「……」
「じゃあ、お別れだ。さようなら、パスカル」
「さようなら、サトルさん」
通信はサトルの装置側から切断された。
パスカルは通信装置を見つめたまま、しばらくじっとしていたが、やがて両腕をのろのろと動かし、体を固定していたマジックテープを引き剥がした。
照明の落とされた薄暗いオペレーションルームにパスカルの白い体がふわりと漂い出る。パスカルは細い腕を伸ばし、移動用ロープを掴むと、連絡通路を目指して移動を始めた。
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