地上 その五の一

 近藤は強い違和感にとらわれていた。

 富永による説明はいつも一切の無駄がない。それでいて相手に応じた剛柔を使い分けるので、ほとんどの交渉において揉め事は生じない。だが、今回の富永は明らかに様子が変であった。まるで相手を挑発し苛立たせるための言葉をあえて選んでいるとしか思えない話しぶりなのだ。

 案の定、富永の説明が進むにつれ、参加者達の表情が険しくなり、会場の空気がざらりとした肌触りに変化していった。


 もしかして、疲れが出始めたのか?


 近藤はあらためて斜め前に立つ富永の背中を見た。そこにはいつもと変わらない気迫が備わっている。だが富永の内部では、何か変調が生じているのかもしれない。

 無理もないと思う。富永とて人間だ。不眠不休の疲れはもうとっくにピークを越えているはずだ。そんな状態で、大きな不満を抱えた五十名を越える人間に、ヤジの一つも許さず説明を続けていることがすでに奇跡的なのである。いつも通りにいかないのは、むしろ普通だ。だとすれば、これから先の展開は予断を許さない。富永のコントロールが及ばない状況を覚悟しておかなければならないだろう。

 近藤はいつでもフォローに回れるように、富永の発する言葉一つ一つを聞き逃すまいと、あらためて耳に神経を集中させた。


「みなさんは何か勘違いしておられるようだ。この集まりは、済んだことに対しての責任云々で無駄な時間を費やすためのものではないのです。補償の有無について、我々の説明に納得いかないのであれば、後日、司直の手に委ねてもらって結構。どのみちこの場で議論すべき話ではない。今、みなさんにお願いしているのは、中国のシャトルを借用とするか、あるいは買い取りとするかを決めていただきたいということ、ただそれのみなのです。二者択一の単純な判断です。この判断に必要な質問であればいくらでもお答えしましょう。何度も言いますが時間がないのです。責任云々といった無意味な議論は控えていただきたい」


 日本宇宙機構本部ビルの最上階にある第一会議室に〈もちづき〉のスポンサー企業三十五社の代表が集められ、富永の口から直々に、これまでの事故経過報告と今後の見通しについての説明が行われているところだった。

 説明の要旨は三つ。一つ目は〈もちづき〉の流星衝突事故及び以降の経過に関して、日本宇宙機構側の過失は一切なく、よってスポンサー企業への補償は行われないということ。二つ目は〈もちづき〉の落下地点変更のためには中国の提供するシャトルの貨物スペースを一部拡張して通信機器を積み込む必要があり、これに対して中国が貸与額の増額もしくはシャトルの買い取りを要求してきたということ。最後に、その費用はスポンサー各社と日本宇宙機構との折半となるため、借用、買い取りのどちらにするかをこの場で決めて欲しいということ。


 刺々しい雰囲気の中、一方的な説明を終えた富永が、質問があればどうぞと告げたとたん、会場全体から不満と抗議の声が地鳴りのように沸き上がった。

 富永はほとんど物理的なレベルにまで高まった怒気の圧力を平然と受け流し、会場全体をぐるりと見回してから「質問があれば挙手願います」と言い放った。

 一瞬の間があり、富永の正面で一本の手が挙がった。

「トヤマ製薬さん、どうぞ」

 会場が静まりかえる。

 小柄な中年男性が立ち上がり、手首に装着したハンディフォンのスイッチを入れた。

「お急ぎのようなので端的に聞きましょう。借用であれ買い取りであれ、なぜ我々が、中国の提供するシャトルの費用を五十パーセントも負担しなければならないのですか? 補償問題についても納得はしていませんが、まあそちらの論旨はわからなくもない。だが搭乗員の救助に対する私たちの責務は契約上発生しないはずです」

 同意の声が会場のあちこちから上がる。

 それを聞いた近藤の胸の奥には、吐き気を伴う怒りが生まれた。スポンサー企業の代表ならば当然の反応だと理解はするが、感情は納得しない。今ここで、馬鹿野郎と一言、大声を出せればどれほど気持ちがいいだろう。近藤は目を閉じ歯を食いしばって、甘美な誘惑に耐えた。


「おっしゃるとおりです。搭乗員救出に関しての経費負担をみなさんにお願いすることは出来ません。私の説明が言葉足らずでした」


 富永の返答に、近藤は耳を疑った。

 ここは押し返さなくてはいけない。引いては駄目だ。やはり富永はおかしいのだ。このまま説明を続けさせるのはまずい。

 だが、近藤が一歩前に踏み出そうとしたときには富永の説明が再開されていた。


「先ほどの説明に補足させていただきます。中国から提供を受けるシャトルは貨物運搬専用機であることは既に説明しました。このシャトルで〈もちづき〉の搭乗員一名と、工場モジュールでの生産物を積載可能量の上限いっぱいまで地上へ運ぶ予定です。現在、〈もちづき〉の搭乗員二名には、そのための梱包作業を行わせています。梱包の優先順位はスポンサー各社に不公平が生じないよう配慮した指示を出しています。一覧は手元の資料の最終ページを見てください。

 さてこのように、みなさんの宇宙工場における成果品を無駄なく回収するため、我々日本宇宙機構は現地における人的労働力を提供しています。そこで、みなさんには持ち帰りに要する経費を負担していただきたいのです。要するに費用の半額は搭乗員救助分として我々が、残りの半額は成果品の運搬費としてみなさんが持つ、と考えていただければ結構。もし、経費負担ができないということであれば、生産物の持ち帰りは行いません。シャトル調達費用は全額我々が負担し、搭乗員の救助のみを実施します」

「ちょっと待ちなさい。それは脅しじゃないですか。せっかく持ち帰り準備をさせているのにもったいないでしょう」

「そうだ」「汚いぞ」といった声が後を追う。

「脅し? 寝ぼけてもらっては困る。搭乗員の内、一人は地球へ帰還できないのですよ。その彼があなた方の元へ生産物を送り届けるための作業を今も休まずやっている。この事実を認識していただきたい。

 もし先ほどの言葉が伝わらなかったのならわかりやすく言い換えましょう。我々は一人の人間の、貴重な人生の残り時間を提供しているのだ。これをあなた方が無償で受け取るという道理はない。金が出せないのなら、彼には残された時間を自由に過ごさせてやる。文句あるかね」


 一触即発の危うさを孕んでいた刺激的な空気が、一瞬にしてずしりと重いものへと変化した。誰もが背中に砂袋でも背負わされたかのような表情で黙り込んでしまった。その中で、参加者の一人が最後の抵抗を試みる。


「先ほどの説明では〈もちづき〉との通信手段は断たれているということでしたが、梱包作業中止の指示はどうやって伝えるのですか? 迎えのシャトルが着いた時点で、それまでの作業が無駄であったと知らされる方が酷じゃないですかね」

 富永の首の角度がわずかに右に振れ、その顔が発言者の方に向けられた。

「心配無用だ。現在、世界中で発信されているモールス信号に我々のメッセージを乗せてもらうよう依頼する。Stop working and use the time for yourself. とでもしようか。HOPE に比べればなんとも無粋なメッセージだがね。通信途絶前に搭乗員に与えた過酷な作業指示を撤回したいのだと言えば、彼らは喜んで協力してくれるだろう」


 近藤には見なくてもわかる。心の奥底まで指し貫かれるような冷たく鋭い視線が発言者に向けてまっすぐに放たれているのが。そして視線を当てられた者は、まず間違いなく自分の発言を後悔するのだ。


「他に質問は? なければ決議をお願いしよう。念のため選択肢を一つ追加するので注意願いたい。その一、シャトルは追加経費を支払って借用とする。その二、シャトルを買い取る。その三、スポンサー各社はシャトルの調達経費を負担しない。以上の三択です。決議は十五分後とします」

 この流れで「その三」は選べない。事実上の二択である。

 スポンサー各社から派遣されてきた代表者は、事前に配布された資料をあわてて捲り、借用と買い取りの経費比較および持ち帰り生産物のリストに目を通し始めた。


 冷静に考えれば富永の理屈は論理的ではない。契約上は、先に指摘があったようにスポンサー各社に搭乗員救助シャトルの経費負担義務はないのだ。生産物の持ち帰り準備は、もともと搭乗員の精神安定を狙いとして指示した作業であり、貨物専用シャトルはそれしかなかったから仕方なく提供を受けるだけである。スポンサー企業のために特別な便宜を図ったわけではない。だが、今の彼らは感情的に揺さぶられ、負い目を感じてしまっている。富永の設定したルール上での判断を知らず知らずのうちに強いられているのだ。この場での決議は議事録に記載され、正式な契約事項に加えられる。あとでそのことに気づいて抗議してもどうにもならない。

 つまり、近藤に違和感を生じさせていた富永の不可解な煽りは、すべて計算の上での演出だったということだ。近藤はあらためて富永の底知れない用意周到さに戦慄を覚えた。


 近藤と富永は第一会議室を出ると、その足で地下三階の統合司令室へと向かった。幹部専用の直通エレベーターに乗り込み扉が閉まると同時に、近藤の口からため息が漏れる。

「借用でなく、買い取りでよかったのでしょうか?」

「どちらでも良いのだ。彼らはほぼ同じ経費なら買い取りが得だと判断したんだろうが、あんな年代物の中古シャトル、今回のフライトにしか使えまい。もう一回飛ばすには完全なオーバーホールが必要だ。その費用で最新式のシャトルが一台買える。そもそも貨物運搬を必要とする宇宙ステーションは当分の間存在しなくなるのだから、中古シャトルの使い道はないだろう。まあ、買い取りなら操縦士としてこちらの人間を送り込むことが出来るし、帰還場所も日本国内にすることが可能になるから何かと仕事がやりやすい。いずれにせよ彼らは経費負担に応じたことで、事故に関する補償問題は棚上げにせざるを得なくなったということだ。日本宇宙機構側に瑕疵があるならば、運送費云々以前にこちらが損失補償をすべき立場だからな。彼らがあくまでも事故による損失の補償を求めるつもりなら、三つ目の選択肢を選ばなければならないのだ。ま、トータルとして考えれば、買い取りというのは我々にとってベストな選択ではある」

 ならば、買い取りを選んでしまうような資料が配布されたのだろう。すべて富永の掌の上で事は進んでいるのだ。近藤はもうこの話題は終わったと判断した。


「今からの打ち合わせとは何ですか」

 返答までに少しの間があった。嫌な予感が近藤の体に走る。

「外務省から緊急の連絡があった。その対応を協議する」

「外務省? 中国政府が何か言ってきたのですか」

「アメリカだ。これまで今回の事故に関する国家間の対応は日本政府が行ってきたのだが、その中で〈もちづき〉の落下地点変更計画を早急に実行しなければ、周回軌道上にあるうちに〈もちづき〉を破壊するという通告があったということだ」


 破壊? 戦争でもないのに他国の宇宙ステーションを破壊するというのか。

 鳴り響く警報音、白く伸びる光条、飛び散る無数の破片――近藤の頭には、いつか見た宇宙空間を舞台とした戦争映画のワンシーンが鮮やかに浮かんだ。

 それで富永はどう対処するつもりなのか。


「アメリカにすれば当然の対応だろう。むしろ今頃になって通告を行うなど遅すぎるぐらいだ。彼らには自国への厄災を事前に排除する権利と義務がある。そしてその手段も保持している」

「軍事衛星ですか」

「そうだ。レール・ガンか高出力レーザーだろう。数年前に非公開で行われた実験では問題なく機能し、現在は実用段階にあると聞いている」

「向こうは本気なのですね」

「当然だ。ロサンゼルス市民三百十五万人の命と安全を守らなければならないのだからな」


 エレベーターが停止し、扉が開いた。白い廊下が真っ直ぐに延びている。富永を先頭にして二人はエレベーターを下りた。


「我々はどうするのです?」

「当初の計画通り〈もちづき〉を海に落とせば良いだけのことだ」

「依頼していた計算結果は出たのですか」

「その報告をこれから受ける」

「十七才の少年でしたね」

「年齢は関係ない。実績と能力がすべてだ」


 統合司令室の前に着いた。

 富永が振り向く。

「もしアメリカが行動に出たら、過去最悪のスペースデブリが発生することになる。そうなれば現在運用されている全世界の人工衛星、宇宙ステーションにも多大な被害が出るだろう。アメリカは正当防衛を盾に、すべての責任を日本に押しつけてくると考えておかねばならない。我々は、デブリの回収と被害補償の全責務を負うことになる。これらの費用はスポンサー企業に回すわけにはいかないから、日本宇宙機構と日本政府が折半して支払わざるを得まい。その結果、日本の宇宙開発は最低でも十年間凍結となる。宇宙産業で生計を立てている日本経済はほぼ壊滅だ」


 床がぐらりと傾いた。近藤の受けた衝撃はそれほどまでに大きかった。そして、破壊される〈もちづき〉には、長谷川と原田が搭乗しているという事実を些事のように感じていることに気づき、全身の血が凍りついた。

 これが富永の視点なのか。

 いや、こんなものではないのだろう。もっと先を、もっと広範囲を見ているのだろう。


「しかし我々にもプライドがある。自国の事故の後始末を他国にさせるつもりはない。自らの手で綺麗に決着をつけてやるさ」

 それは近藤が初めて耳にする、富永の感情を伴う言葉だった。

「今から作戦会議だ。気持ちを切り替えて臨むように」

「はい」


 近藤の全身に武者震いが走った。

 富永は正面に向き直り、統合司令室のドアにIDカードをかざした。

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