地上 その四の三

 サトルが目覚め、再び作業が開始された室内は、パスカルのセレクトによるライトブルーの照明が清浄な空気を、低く流れるパッヘルベルのカノンが穏やかな時間を演出していた。あとは二人がキーボードをたたく音、空調設備の立てるかすかな動作音だけ。

 こうして会話もないままに二時間近くが過ぎた今、少し倦んだ空気が漂い始めていた。


 以前はこうではなかった。

 互いに作業を行いつつも、他愛のない会話やパスカルに対する思考訓練などで、これほどまでに長時間の静寂が生まれるということはなかった。

 だが最初の流星雨が出現したあの夜以来、サトルの心にふとしたきっかけでパスカルへの疑念がよみがえると、答えの出ない悪循環の思考ループに陥ってしまい、パスカルと二人きりという状況に息苦しさを覚えてしまうのだった。

 パスカルはそんな空気が読めるのか、あるいは単に呼びかけがないから反応を示さないのか、いずれにせよ黙々と与えられた作業をこなし続けるのである。


「ちょっと休憩でもとらないか」

 サトルの呼びかけに、パスカルは「はい」と応えて席を立ち、アロマポットの受け皿にティーツリーの抽出オイルを三滴追加した。とたんに爽やかな木の香りが部屋の隅々にまで行き渡る。その足で部屋のコーナーにある給湯器に向かうと、少し温めの緑茶をカップに注ぎ、サトルのデスクに運んだ。サトルの軽い会釈を受け、無言のまま自分の作業デスクに戻ったパスカルは、再び端末モニターに薄緑色のカメラアイを向けた。パスカルが監視を任されているのは、日本宇宙機構から直接送られてくる〈もちづき〉の現在座標と速度を示すデータの監視である。同時に、サトルの計算による予測値との差分チェックをも行っていた。


 サトルは沈黙の重さにストレスを感じつつも、二度目の大流星雨の観測結果に対しては大きな満足感を味わっていた。結果的に〈もちづき〉の通信途絶という事態を招きはしたが、サトルたちの警告を間接的に受けた各国の宇宙機構が速やかに流星対策をとったため、被害は最小限に抑えられたのだ。その後、某国軍部による探索行動も見受けられず、アストロラウンジでの会合は大成功を納めたと言ってもよいと思われた。


 個人的には、日本宇宙機構の富永とコンタクトをとったことにより、その軌道計算技術を見込まれて、いくつかの仕事の依頼を受けた。それは正式な契約であり、技術料として第一種計算技師の対価を受け取ることになっている。報酬はもちろん嬉しいが、自分の開発した計算手法が公的機関にも評価されたという喜びは何にも代え難いものだった。


「サトルさん、日本宇宙機構の富永さんから接続要求です」

 サトルは右の掌を立てて了解の意志を示した。間をおかず、目の前のホログラフィック・ディスプレイに富永の上半身が浮かぶ。

「サトル君、体調はどうかね」

 二度目のコンタクトは挨拶抜きで始まった。

 サトルは背筋を伸ばし、微笑んでみせた。

「ありがとうございます。十分すぎる睡眠をとりましたので快調です」

「安心した。ではまず報告からだ。サトル君が予測した〈もちづき〉の落下予測地点だが、我々の軌道計算部門が三十分遅れで出した結果と水平誤差十二分未満という精度で一致した。失礼だが、これでサトル君の評価はさらに上がった」

「ありがとうございます」

「そこで新たな作業を依頼したい。対応は可能だろうか」

「最優先で取り組みます」

「ありがたい。では早速依頼内容を伝えよう。君が算出してくれた通り、〈もちづき〉はこのままでは人口密集地帯に落下する。これを避けるために軌道要素の変更を行わなければならない。これには姿勢制御用のブースターを使用することになった。そこでサトル君にお願いしたいのは、今から送るデータに基づき、落下候補地点1~5それぞれに〈もちづき〉を落とすために必要な、ブースターの噴射出力およびタイミングを求めてもらうという作業だ。姿勢制御用ブースターの諸元データは今送信中だからこれを参照して欲しい。依頼は以上だ。質問があればどうぞ」


 サトルは依頼内容の重大さに一瞬言葉を失った。

 今まで行ってきた計算は、すべて予測という、一歩引いた立ち位置からの関わりであった。だが今回の依頼の場合、サトルの出した計算結果に基づき〈もちづき〉に対してアクションが加えられることになる。そこに計算ミスがあれば、多くの人命が失われるかもしれないのだ。責任の度合いがまるで違う。

 黙り込むサトルに向かって、富永は少し首を傾け「何か問題があるかね」と問いかけた。富永にしては含みのない、素朴な口調だった。

 サトルは背後にパスカルが寄り添う気配を感じながら、一度虚空に視線を投げた後で、ゆっくりと口を開いた。


「このような重大な依頼をしていただき光栄に思います。ですが、僕には荷が重すぎます。万が一計算ミスがあった場合、責任をとる方法も思いつきません」

「君がそのようなことを心配する必要はない。君の出してくれた計算結果を採用するかどうかを判断するのは私だし、君に依頼することを決めたのも私だ。君は純粋に与えられた条件を満たす解答を導き出してくれればよいのだ」

「ですが、僕の出した計算結果を採用するかどうかの根拠は何に求めるのですか。もちろんそちらの専門家の方も同じ作業をされることと思いますが、もし二つの答えが食い違った場合、どちらを採用されるのですか」

「なるほど、思った以上に君は頭の回転が速いな。ではその質問に答えよう。二つの答えが異なる場合、私は君の出した計算結果を採用する。君の指摘通り、こちらでも同様の計算を行わせているが、それはあくまでも補助的なものだ」

「なぜ、僕のような者がそこまで信頼されるのでしょう」

「実績があるからだ」

「実績、ですか」

「そうだ、二年前〈もちづき〉の放熱板切り離しの際に、君が匿名で知らせてきた計算結果があるだろう。あのとき我々が想定していた予測も許容誤差内に収まりはしたが、結果としてかなりのズレが出た。一方、君の計算結果は、最終的な放熱板の落下状況とほぼ一致していたのだ。それと今回の〈もちづき〉の高度低下の現状も、君の予測が一番良い近似を示している。以上が君の計算結果を採用する理由だ」


 サトルは再び黙り込んだ。富永の説明は論理的で反論の余地はない。

 だが、とサトルは不安になる。これまで成功してきたからといって次回も成功するという保証はない。そして失敗は大惨事を招く。


「何を躊躇しているのか知らないが、誰かがこの計算をやらなくてはいけないのだ。ならば私は、客観的に判断し、一番精度の高い計算結果を導ける人物を選択するだけだ。今のところ君の計算能力が一番高いからこうして依頼をしている。もし君が断ればこちらの担当者が出した結果を用いる。君のものより若干精度は落ちるが使えなくはない。ただそれだけのことだ」


 そう、何もしなければ、ほぼ間違いなく〈もちづき〉はロサンゼルスに落ちる。それだけは避けなければならない。だからといって、日本宇宙機構の職員でもない人間が、若干十七才の一般人が、引き受けるべき仕事なのだろうか?

 サトルは固く瞼を閉じ奥歯を噛みしめた。引き受けるんだ、と後押しをする声は胸の内にある。だが、あと一歩の勇気がどうしても生まれない。

 その時、パスカルがサトルの耳元に顔を寄せ、囁くような声で語りかけてきた。

「サトルさん、ここで逃げては軌道計算屋としての名が廃ります。誰かがやらなければいけないのです。そしてそれはサトルさんが適任であると言われているのですよ。引き受けましょう。二人で〈もちづき〉の最後の幕引きに協力しましょう」


 サトルは目を開き首を捻って、すぐそばにあるパスカルの顔を見た。

 淡い緑色の二つの目がある。無表情なはずのパスカルが明るい大きな笑顔でこっちを見つめている。


 ――サトルさん、元気出していきましょう。


 初めて出会ったときのパスカルの声が耳の奥に蘇る。

 そうだ、一人じゃないんだ。

 歪な心を抱えて四角い部屋に閉じこもっていた僕を、眩しい陽光の下に引き出してくれたあのパスカルが、今もこうして隣にいるじゃないか。去年母さんが死んだとき、もう一度壊れそうになった僕を支えてくれたパスカルが、一緒に頑張ろうって言ってるじゃないか。いつだって、どんなことだって、二人で乗り越えてきたじゃないか。

 そう気づいたとたん、サトルの身体の奥底から迸るような活力が湧き上がってきた。全身の細胞一つ一つが今にも小躍りを始めそうなほどだった。

 サトルは顔を上げ、背筋を伸ばした。


「やります。僕にやらせてください」

「その返事を待っていた。必要なデータはこちらで全て準備する。計算に必要な環境も提供しよう。あとはそこにサトル君の技術とセンスがあれば必ず最善の結果が導き出せる」

「はい、全力を尽くします」


 富永はモニターの中で小さくうなずくと、わずかに視線を動かし、サトルの右隣に目をやった。


「サトル君、君のパートナーの名前は、何というのだろうか」

「パスカルです」

「なるほど、良い名前だ。――では、よろしく頼む」


 サトルは富永の消えたホログラフィック・ディスプレイに向かって、ありがとうございますと、歯切れの良い声を出した。そしてデスクの隅に置かれたカップを取り上げ、すっかり冷たくなった緑茶を一気に飲み干した。

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