軌道上 その二
船外カメラのモニターの中で、幅一に対し長さ二十の細長い長方形のパネルが、長軸を中心にゆっくりと回転し、角度を変えていく。青黒く濡れたようなその表面にはいくつかの光点が映っている。電気エネルギーの供給には役立たない、遠い星々の姿である。
地上管制センターから、流星雨再出現の恐れありとの緊急連絡を受け、太陽電池パネルを再び流星回避角度に移行させているところだった。原田はモニターの映像と制御卓に表示される数値を交互に確認しながら、小さなため息をついた。
どうにも釈然としないのだ。
パネルの動きは円滑で何の問題もない。間もなく流星回避処置は正常に終了する。外壁の損傷に備えて各モジュールの隔壁の閉鎖も終えている。前回の不意打ちに比べれば万全ともいえる迎撃体勢だった。だからといって、再び流星雨と遭遇することに不安がないわけではない。なにより現状がすでに危機的状況なのだ。わずかな損傷が駄目押しの一撃となる可能性は十分にある。だが、原田の胸のもやもやの原因は別なところにあった。緊急連絡に付随する形で送られてきた、事故調査報告の内容が気に入らないのだ。
〈もちづき〉の高度低下に関する調査報告(確定版)
※概要
〈もちづき〉の高度低下の原因は、大規模な流星雨との遭遇により、不運かつ偶発的事象が連鎖的に発生したためと推定される。
※原因
太陽電池パネルL‐2が、流星により破損した際、その破片の一部が、メインエンジンへの燃料供給パイプに亀裂を生じさせた。さらに、その十二分後、推定サイズ直径〇・一~〇・五ミリメートルの流星が亀裂近くに衝突。この影響でさらに広がった亀裂から、加圧燃料の微量かつ持続的な噴出が発生し、ブレーキ効果を生んだものと考えられる。
※現在の状況
燃料供給パイプ破損により、メインエンジンは動作不能状態。
※結論
高度回復は不可能。
以上
この事故調査報告は、内容の重要性にも関わらず、通常データ扱いで送信されてきた。調査報告のファイル自体も形ばかりの暗号化がなされているだけで、一般に出回っている解読ツールがあれば誰にでも復文できる状態だった。世に宇宙ステーションマニアは多いのだ。指向性の強い送信システムとはいえ、その気になればいくらでも通信の傍受は可能であるから、無防備というよりは、自ら世間に公表しているのと同じようなものである。
ああ、でもそんなことはどうでもいいのだ。
問題は報告の内容だった。
地上管制センターでは、〈もちづき〉のあらゆる状況をリアルタイムで把握しており、それらのデータから、報告書にあるような詳細かつ具体的な原因特定を行った、ということなのだろう。大きな災害に見舞われた場合、被災現場にいる者よりも、遠く離れた安全な場所で、入手したデータを客観的に見る立場にある者の方が正確な状況を把握できるというのは常識である。それは原田も知っている。
だけど、釈然としないのだ。
タイミング、作業箇所、そしてなにより自分自身の指に残る手応えから、原田には、〈もちづき〉の異常な高度低下の原因が、あのときのマニピュレーターの操作ミスによるものではないかという予感がずっとあった。そして地上からの報告に「燃料供給パイプ破損」の文字を見つけ、予感は確信に変わった。マニピュレーターが叩いた外壁付近にはメインエンジンへの燃料供給パイプが走っているのだ。
なのに報告では、流星衝突時に破損した太陽電池パネルの破片が原因だとある。
本当だろうか?
原田自身、自分の操作ミスがなければ素直に信じたかもしれない報告だが、あのときの冷や汗の感覚がそれを許さなかった。そういう疑惑の目で報告を読むと、事故当時の状況をまるで見ていたかのような具体的記述が、都合の良い作り物に思えて仕方がない。
もしも原因を本気で特定する気があるならば、この目で見てくればいいのだ。船外活動によりパイプの破損箇所を直接視認すれば、すべて明白になる。だが今は、限られた時間内での帰還準備が最優先事項とされており、今後も地上からの実地調査の指示はないだろう。
そしてなにより調査報告の通りであるならば、〈もちづき〉の高度低下は単なる不運な事故なのだ。仮に調査結果に疑惑が生じ、後日、実地調査を行おうにも、物的証拠は大気圏突入とともに燃え尽きている。状況証拠と推測を積み重ねた事故調査報告は、〈もちづき〉墜落の時点から、実質的な「事実」となるだろう。ならば、調査報告書の中で、原田の操作ミス、すなわち日本宇宙機構のミスを、あえて高度低下の原因とすることには何のメリットもないのである。
ようやくそこに考えが至ったとき、突然原田の脳裏に富永センター長の顔が浮かんだ。無駄な曲線が一切省かれたシャープな輪郭と差し向けられただけで体温を奪われそうな視線、決して弛められることのない口元。その外見を裏切らない言動。宇宙飛行士養成課程の特別講座で演壇に立つ富永が放った、締めの言葉が蘇る。
「宇宙で働くプロフェッショナルとして君たちに求められているのは、よけいなことを考えずに、自分に与えられた職務を正確かつ速やかに遂行することだ」
――太陽電池パネルの角度修正が終了しました。
パネルの制御装置から、富永を連想させる無機質な合成音声が流れてきた。同時に〈もちづき〉全体が最終段階の節電モードに移行する。モニターの輝度が下がり、照明がミニマムに落とされ、オペレーションルームは地上の夕暮れを思わせる薄い闇に満たされた。
原田はディスプレイに表示された数値を確認すると、さらなる節電のために常時監視が不要なモニターの電源を落とした。その直後、宇宙酔いに似た軽い嘔吐感が突き上げてきた。もう、十八時間休憩を取っていない。頭の芯に疲れがたまっている。三十秒だけと言い聞かせて、原田は目を閉じ全身の力を抜いた。
ベンチレーターの低く単調な作動音が、地虫の鳴き声のように耳の奥にまで染み込んでくる。頬のあたりでわずかに空気の流れを感じる。このまま目を閉じていれば、子どもの頃、夏休みに帰省した母親の田舎で心に刻んだ、一日の終わりの情景の中に身を置くことができそうだった。茜色の空の奥で、透き通った光を鋭く放つ宵の明星を見ながら家に帰った、あの夕景の中に。
だが原田はその誘惑を、頭を強く振って追い払った。このあとも、工場の生産物梱包や実験データの整理など、本来なら一ヶ月ほどかけてやる地球帰還前の作業が、数日に圧縮された形で待ちかまえているのだ。ぼんやりと過ごす時間は一分どころか一秒だってありはしない。
原田は壁を軽く蹴り、対面にある監視制御装置へとダイブした。競泳のゴール直前のように右腕を伸ばし、制御卓の脇にあるマイクを掴む。
「原田です。太陽電池パネルの保護処置が完了しました」
「こちらでもバッテリー給電への切り替えを確認した。今から工場内の点検を始める。原田君は流星の監視を頼む」
「了解しました」
原田は四台ある船外カメラのうち三台を地球側へと振り、四分割した監視制御装置の大型ディスプレイに表示させた。残る右上隅の一区画には、〈もちづき〉の軌道要素に関する実況値を並べる。その中で、現在高度を示す六桁の数字が、少しずつ、しかし確実にやせ細り続けていた。
三台の船外カメラは、いずれも赤茶けた剥き出しの大地を捉えている。おそらくアラビア半島の南東部であろう。視野の中には小さな雲一つなく、心なしか、いつもの地球鑑賞で見る地表よりも全てが近いように感じる。しかし、高度の低下が続いているとはいえ、まだ肉眼で違いがわかるほどではないはずだった。原田は現在高度の数字を改めて確認し、隙あらば暴走しようとする不安を抑え込んだ。
十数分で夜のエリアに差しかかった。インド洋の上空である。黒い海原のあちこちに見える光点は漁船の集魚灯だろうか、それとも小さな島があるのか――まるで月のない夜空のようだった。見つめるうちにぐるりと天地が逆転し、宇宙を覗き込んでいるような錯覚に何度も襲われた。
流星の出現はまだない。静かな時間が流れ、過ぎてゆく。
「こちら地上管制センター、〈もちづき〉応答願います」
緊急連絡の呼び出しだった。事故発生以来、ほぼ一時間間隔で緊急連絡が入るため、原田の中では頻繁な定時通信という感覚になっていた。
「こちら〈もちづき〉です。原田が応答しています」
「近藤主任より重要な連絡があります。長谷川班長はすぐに呼び出せますか?」
「五分あれば」
「では、至急呼んでください。それから通信モードを3Aに設定願います」
「了解」
そうは答えたものの、いったい何のために? という疑念が原田の次の動作を鈍らせた。
通信モード3Aは、画質、音質、セキュリティレベルともに最高度の通信モードだ。その分、通信システムへの負荷も高く、他のデータ通信を圧迫するため、通常の連絡に使われることはない。想定される使用例としては、新素材実験での画期的な発見の報告など、とされている。
原田は、工場モジュールの長谷川に、至急オペレーションルームへ戻るよう伝え、通信モードの変更作業に取りかかった。虹彩、指紋、声紋の生体認証手続きのあとに、ようやくIDとパスワードの入力が許可される。原田は、流星監視用モニターに時々視線を走らせながら、煩雑なモード変更作業を続けた。
「すまん、遅れた」
長谷川がオペレーションルームに滑り込むのと同時に、3Aへの設定が済んだ大型モニターに一人の男が映し出された。
所々黒の混じる銀の短髪と四角張った輪郭、尖った鼻梁、がさがさに荒れた肌。かつて宇宙飛行士養成過程の研修生たちに鬼軍曹と呼ばれ、今は地上管制センターで現場の指揮を執る近藤だった。モード3Aの超高精細3D画像は、頬の皮膚呼吸をも映し出すのではないかと思うほどに、近藤の上半身を生々しく伝えてきた。まるでそこにいるかのようなリアリティである。
近藤を間近に感じた原田は一瞬、研修生に戻り、全身を硬直させた。すっと横に並んだ長谷川が手を伸ばし、音声系のスイッチを入れる。
「長谷川です。お待たせしてすいませんでした」
一呼吸遅れて、画面の中の近藤の表情が和らぐ。モード3Aゆえの遅延が生じているのだ。
「こちらこそ、忙しいときに呼び出して済まない。まずは、厳しい状況の中での迅速な事故対応、感謝している」
「地上も大変でしょう」
長谷川の言葉に、近藤は右の頬を少しだけ緩めた。妙に弱々しい反応だった。原田はその時初めて、近藤の牡牛を思わせる目の下にどす黒い隈が貼り付いているのに気づいた。
「どうした原田、俺の顔に何かついているか?」
「あ、いえ、失礼しました」
「何を緊張している。変な奴だ」
そういう近藤自身が、いつもとは違う雰囲気をまとっているではないか、と原田は思ったが、もちろん口にはしない。
ただ、いつまでも近藤と視線を合わせているのが辛くなって、隣の長谷川を盗み見た。長谷川も、近藤の様子に違和感を覚えているのか、少し目を細めるようにして画面を見つめている。
「まあいい。本題に入ろう」
近藤はそう言って、表情を引き締めた。鬼軍曹の復活だ。原田の背筋が反射的に伸びる。
「先ほど送った事故調査報告を見てもらったと思うが、〈もちづき〉の大気圏突入は避けられない状況となった。最新の計算結果では約六十時間後となっている」
え?
原田は聞き間違いだと思った。十時間前の報告では、大気圏突入は約百二十時間後とされていたはずだ。計算が合わない。五十時間も――
「近藤主任、その時間だと、最初に受けた報告とは大きな差があります」
原田の疑問を長谷川は淡々とした口調で指摘してくれた。
「申し訳ない。最初の報告では初期値にいろいろ問題があったようだ。今から六十時間後が正しいと思って欲しい」
「了解しました。なるほど、それでこの緊急連絡なのですね。帰還準備のペースをさらに上げろということですか」
「違う」
「おや」
「知っての通り、〈もちづき〉に搭載している緊急脱出用カプセルは使用不能となっている。――ん? 今、その原因もわかったとの報告が入ったようだ。ちょうどいい、口頭で伝えよう。バッテリー給電時に、太陽電池パネルの制御装置に対して繰り返し再起動をかけたことで、想定外の過電流が緊急脱出制御装置に流れてしまった、とのことだ。設計書段階で潜んでいた不具合らしい。当然あり得る状況を見逃していたのだな。ふん、チェックがずさんすぎる。話しにならん」
近藤は視線を下げ、画面には映っていない端末モニターを確認しながら、不満げな唸り声をあげた。
「話を戻そう。緊急脱出用カプセルが駄目な場合、次の手段として、日本宇宙機構の所有するシャトルを君たちの救出に向かわせることになるのだが、定期メンテナンスとのバッティングで、どれほど急いで準備をしても、六十時間以内には間に合わないということが判明した」
間に合わない? それはどういう――
「そこで、各国の宇宙機構に援助を要請したところ、中国航天局からシャトル提供の申し出があった。現在中国では救出用シャトルの打ち上げ準備が進められている。今から約五十時間後には〈もちづき〉の軌道に乗る、とのことだ」
ふう、と音を立て、原田は止めていた息を吐いた。雨上がり直後の厚い雲間から射した一条の光を全身で受け止めたかのような安堵感が、全身に染み渡っていく。
しかし、晴れ間と思えたものは次の嵐の前触れだった。
「だが一つ、大きな問題がある。中国から提供されるシャトルは貨物運搬専用で、搭乗定員が操縦士を含めて二名なのだ。よって、一往復で帰還出来るのは一名のみとなる。しかし六十時間以内に二往復は不可能である。――長谷川君、すまない。他の手段は、ないのだ」
近藤と長谷川は互いの目の奥にあるものを汲み取ろうとするかのようにモニターを隔てて対峙し、黙り込んだ。
実際の時間は五秒間もなかったであろう。だが原田にとっては永遠とも思える重い静寂だった。息苦しさが限界と思われたとき、ふっと空気がほぐれ、長谷川が口を開いた。
「承知しました。近藤主任、お気になさらずに」
長谷川の返答は淀みなく、爽やかな風のようでさえあった。原田はとっさに言葉が見つからず、力ばかりが肩と背中に集まり、胸が詰まった。
「早い段階で、今後の対応方針をお知らせいただき感謝します。おかげで残りの六十時間を無駄なく使うための計画が立てられます。工場生産物の梱包で、優先すべき作業がありましたら指示願います」
違う。
「そうか――。よし、作業指示についてはこの通信と平行して、工程表の形で送信する。かなりきつい内容になるので覚悟しておいてくれ。それから、延期となっていたプライベート通信を一時間後に行う。モードは3A、一人につき三十分の特別版だ。この通信はそのためのテストみたいなものだ」
違うだろう。
「そんな無茶やっていいんですか」
もっと大事な――
「富永センター長には許可をとってある」
「やりますね」
二人とも――
「いい加減にしてください!」
原田は、近藤を映す大型モニターと長谷川の間に割り込んだ。
「一人しか帰還出来ないという問題をこのまま流してしまっていいのですか? まだ六十時間もあるなら、最後まで、最後の一分まで、二人そろって帰還するための努力をすべきでしょう。宇宙飛行士の最優先事項は『生きて地上に帰ること』だと教えてくださったのは、近藤教官ではなかったのですか? 『あきらめたらどんな優秀な奴でもそこで終わりだ』が、長谷川班長の口癖じゃなかったんですか? 私は、ついさきほどまで、日本のシャトルが救援に来てくれると思っていました。だから少しでも工場の生産物を持ち帰れるようにという指示にも納得し、作業していたのです。だけど、そんな事態なら、残りの六十時間、荷造りなんかしている場合ではないでしょう。最後まで、あきらめず、二人そろった帰還のための努力をして、それで、どうしても駄目だったなら、その時は、残るべきは――私です。〈もちづき〉の高度低下の原因は私の――」
原田は目を閉じ、息を大きく吸い込んだ。
「私のマニピュレーター操作ミスによって燃料供給パイプは破損したものと思われます。それは長谷川班長もご存じのはずです。どうか私に、船外活動による燃料供給パイプの修理を命じてください」
ずっと胸につかえていた煩悶を一気に吐きだし、原田は荒い息をついた。ゼイゼイと胸が鳴る。
モニターの中で、近藤が表情を曇らせる。
「最新版の事故調査報告を読んでいないのか? 燃料供給パイプの破損は、流星の――」
「あれは嘘です」
「嘘?」
「嘘は言い過ぎだとしても、何の物的証拠もない、都合の良い、推測です」
「では聞くが、君の操作ミスが燃料供給パイプの破損に繋がったという確たる証拠があるのか?」
「ありません。だから船外活動で証拠を確認し、修理をさせてくださいとお願いしているのです。〈もちづき〉の落下の原因が私の操作ミスによるものか、違うのか、はっきりしないまま、これ以上、帰還準備だけを継続することは、もう耐えられません」
「それが理由か」
「いけませんか」
「今は個人の感情を考慮している状況ではない。宇宙で働くプロフェッショナルとして君たちに求められているのは、よけいなことを考えずに、自分に与えられた職務を正確かつ速やかに遂行することだ」
原田の全身に鳥肌が立った。
まさか近藤の口から富永の台詞が発せられるとは――
「あなたは――」
原田はモニターを見つめたまま絶句し、体をがたがたと震わせた。
「原田君、落ち着け」
長谷川が原田の正面に回り込み、分厚い掌で原田の両肩を掴んだ。その反動で、二人はもつれ合いながらオペレーションルームの壁際へと漂っていく。近藤は大型モニターの中からそれを見ている。
長谷川の掌から流れ込む暖かみで、原田の震えはゆっくりと治まっていった。焦点の合っていなかった原田の視線が長谷川の顔をようやく認識した。
「班長は、それでいいんですか。なぜあきらめるんですか。生還の可能性を模索することは『よけいなこと』なのですか」
「聞け。近藤主任はなぜ特別回線で繋いできたと思う」
「こんな内容、外部に漏らすわけにはいかないからでしょう」
「それもあるだろう。だが、これだけの重大な話は、本来、富永センター長から伝えられるはずだ」
「センター長が、嫌な役回りを近藤主任に押し付けたとでも」
「あの人はそんなタイプじゃない。組織のトップとしての責務から逃げるなどありえない。いいか、近藤主任は、私の先輩であり、君の恩師だ」
「そんなこと――」
「地上では、あらゆる方策が検討されたのだ。何百人というスペシャリストが、富永センター長の下で知恵を絞り、近藤主任と力を合わせ、なんとか〈もちづき〉を、搭乗員を救おうとしたのだ。その結果、一人だけではあるが帰還出来ることになった。地上の、仲間の、努力のおかげだ。だがやはり、一人だけの帰還というのは、我々当事者にとっては限りなく厳しい現実だ。地上でもそのことは十分すぎるほど承知しているだろう。もし私が地上の責任者なら、今、このタイミングで、当事者達に伝えるという決断が下せたかどうか――だが、富永センター長は決断を下された。我々をプロとして認めておられるからだ。そして伝達役を近藤主任が引き受けてくださった。あえて誤魔化しのきかない、息づかいまで伝わるようなリアル映像の特別回線を使ってだ。そのことに私は心から感謝している。なあ原田君、今となっては原因の特定に大きな意味はないのだ。それぐらいのこと、本当は君だってわかっているのだろう」
「それは――」
「ならば我々も、二人の上司の決断と、多くの仲間の努力に応えなければいかん。それは残された六十時間を、最大限無駄にすることなく使い、〈もちづき〉の成果を少しでも多く地上に還元することだ」
「ですが、燃料供給パイプを修理するという選択肢が検討されていません」
「検討はした」
それまで黙って二人のやりとりを見守っていた近藤が口を開いた。
原田と長谷川は同時に振り向く。三対の視線が浅い角度で交差する。
「燃料供給パイプの修理には、船外活動を含めた十一時間の作業が必要と算出された。だが流星雨との再遭遇が予想されている現状では、船外活動は行えない。仮に流星雨の出現がなく、修理が完了したとしても、メインエンジン使用には漏れた燃料の補給が必要となる。だが燃料は、地上から専用シャトルで運ばなければならない。よって、メインエンジン修理による高度回復という選択肢はないのだ。そしてもう一つ、はっきり言葉にしておくべきことがある。帰還する一名は原田君と決まっている。〈もちづき〉に残るのは長谷川君だ。なぜなら長谷川君は班長であり、〈もちづき〉搭乗員の最上位者だからだ。これは規則であり、いかなる理由があっても変更はない。事故の原因にも左右されない。この規則は何百年も前から、船に乗る者の不文律としてある。帆船が宇宙船に、海が宇宙に代わっても有効な、誇り高い船乗りの心意気だ。おい原田、私の講義を忘れたか? あの講義のときの君の――」
突然、音声が途絶え、大型モニターから近藤の姿が消えた。代わって信号入力無しの表示が暗転した画面に白く浮かび上がる。
――通信回線が切断されました――
「流星だ」
長谷川の掠れた声につられて振り向くと、船外カメラの映像を映す三つの画面すべての中で、夜の地球の黒々とした広がりが無数の白い矢を吸い込んでいた。最初の流星雨に勝るとも劣らない数である。前回の被害状況から考えて、今回も無傷とはいくまい。その被害第一弾として、おそらく予備のアンテナが星屑の直撃を受けたのだろう。
ほどなくカメラは夜明けの気配を捉え始めた。朱色に染まった雲の峰々が流星の短く鋭い軌跡を薄れさせ、間もなく姿を現す太陽の威力を見せつける。徐々に広がる雲間には、磨いた鋼のように鈍く輝く海が見える。
原田と長谷川は言葉を失い、瞬きも忘れ、移りゆく地球の景色に見入るばかりであった。
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