軌道上 その一の四
長谷川は室内を大きく見回してから、足元の壁を蹴り、左上方にある集中監モニターへとダイブした。原田は開きかけた口を中途半端な形に保ったまま、目で長谷川の背中を追った。
――〈もちづき〉の降下速度が許容範囲を超過しています――
――〈もちづき〉の降下速度が許容範囲を超過しています――
――〈もちづき〉の降下速度が許容範囲を超過しています――
抑揚のない無機質な合成音声が流れる。アラームがサイレンから音声報知へと切り替わったのだ。それは最高レベルの緊急事態発生を意味していた。
「原田君、ちょっと来てくれ」
長谷川の声がうわずっていた。それを聞いた原田の全身に鳥肌が立った。どんなアラームよりも、長谷川が冷静さを失っているという状況が怖い。原田は返事をすることも忘れたまま、長谷川の右隣へと滑り込んだ。
「この数値、どう思う?」
長谷川が指さす先には、赤く強調された六桁の数字があり、じっと見るうちに右端の数字がほぼ五秒に一ずつの割合で減少していくのが確認できた。それは〈もちづき〉の高度が毎秒〇・二メートルの割合で下がり続けていることを意味していた。
「これは、こんな数字は――あり得ません」
まず原田の頭に浮かんだのは、表示装置の故障という事態であった。
〈もちづき〉は通常、高度四百キロから三百キロを保って地球を周回しているのだが、この高度でも希薄な大気がある。この大気との摩擦によって〈もちづき〉の進行にブレーキがかかり、少しずつ周回速度が落ちていく。その結果、一日当たり約七十メートル程度の高度低下が生じることになる。この高度にある宇宙ステーションにとってはどうしても避けられない現象で、〈もちづき〉では、数ヶ月に一度メインエンジンを作動させて周回速度を上げることにより、高度回復を行っていた。
だが今の状況は五秒で一メートル、一日に換算すれば約一万七千メートル高度を下げている計算になる。もし、万が一、装置の表示が正しいとするならば、早急に高度低下を止めなければならない。さもなくば大気圏への突入という事態を招くことになる。
カチリ、と微かな音がアラームの合間を縫って響いた。
通信装置が地上管制センターからの呼び出しに反応したのだ。
「こちら地上管制センター、〈もちづき〉の異常な高度低下を確認しました。何がありましたか。こちら地上管制センター、応答願います」
表示装置の故障ではないのか。
原田の全身に震えが走った。
長谷川は身じろぎもせず、モニターの数字を覗き込んでいる。
――〈もちづき〉の降下速度が許容範囲を超過しています――
――〈もちづき〉の降下速度が許容範囲を超過しています――
「こちら地上管制センター、〈もちづき〉応答願います」
――〈もちづき〉の降下速度が許容範囲を超過しています――
――メインエンジン燃料供給パイプの内圧が低下中――
――〈もちづき〉の降下速度が許容範囲を超過しています――
――メインエンジン燃料供給パイプの内圧が低下中――
「こちら地上管制センター、〈もちづき〉応答願います」
――〈もちづき〉の自動高度回復不能――
――〈もちづき〉の降下速度が許容範囲を超過しています――
音声報知される項目が徐々に増えてゆく。合間を縫って地上からの呼び出しが淡々と繰り返される。これら複数の音声が重なり合い、反響し、オペレーションルームは気の狂いそうな騒乱に埋め尽くされていった。
「大規模な流星群とはいっても、これほどの影響は受けないはずだ。何か他に原因があるはず……」
長谷川は減り続ける数字に目を奪われたままぶつぶつと呟きを漏らしている。
原田は拳で制御卓のスイッチを叩き、アラームの音声報知を止めた。
突然、耳が押さえつけられたような静寂が訪れる。
「班長!」
原田は長谷川の肩を背後からつかみ、強く前後に揺すった。
のろのろと振り向いた長谷川の目は寝起きの子どものようだった。原田はうなじのあたりが粟立つのを感じ、それを押さえ込むように大きな声を出した。
「班長、これはランクAの緊急事態です。地上センターの呼び出しに応答してください。無理なら私が代行します」
どこか焦点がぼけていた長谷川の表情がさっと変化し、その輪郭にいつもの力強さが戻ってきた。
「そうだった。見苦しいところを見せてしまってすまん。連絡は私が行うよ。原田君は状況の把握に努めてくれ」
「了解!」
班長も疲れているんだ。
原田は大きな安堵と共に、長谷川との強い連帯感を覚えた。同時に、なんとしてもこの状況を乗り越えてみせるという決意が全身に漲ってくるのを感じ、警告メッセージで埋め尽くされた集中監視モニターに向け、挑むような視線を送りこんだ。
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