軌道上 その一の三
「原田君、至急オペレーションルームに戻ってくれ」
突然、長谷川の声が四方のスピーカーから響いた。マイクに口を近づけすぎているのか、音声の高音部分が歪んで耳に刺さる。
原田は反射的に右手につかんでいたパイプを力強く後方へと押した。その勢いで出口までの残り二十メートルを一気に突き進み、モジュールの外へと飛び出す。
再び赤色灯の点滅を覚悟していた連絡通路は、しんと静まりかえったままだった。
「それは命令ですか!」
原田がオペレーションルームに入ると同時に長谷川の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。見れば、復旧した通信装置に向かって噛みつかんばかりの形相となっている長谷川がいた。
視界の端に原田を認めた長谷川は、顎で太陽電池パネルの制御装置を指し示す。原田は黙って頷き、制御装置へと向かった。
流星との衝突を避けるため、受光面の角度を変えていた十二枚の太陽電池パネルのうち、五枚のパネルに赤い障害ランプが点灯していた。正常に動作し、太陽追尾モードに戻せた残りの七枚の中には、最初に流星の直撃を受けて破損したものが含まれており、結果的に発電可能なパネルは六枚という状況だ。すなわち〈もちづき〉の発電能力は五十パーセントにまで低下したことになる。
「了解しました。命令であれば従います。工場の稼働率八十パーセントを維持しつつ、復旧作業にあたります。では次回の報告は一時間後となります。以上」
完全に感情を消し去った抑揚のない口調が、長谷川の怒りの強さを物語っていた。原田は口の中にたまってきた唾をごくりと飲み込み、長谷川の言葉を待った。
「聞いての通りだ。今後の復旧作業は工場優先でいけということだ」
原田の真正面まで移動してきた長谷川の目には、怒りの色がまだはっきりと残っていた。
「具体的にはどうしろというのですか」
「見ての通り、電力の供給量が半減している。〈もちづき〉では電力の九十パーセントを工場が使用しているから、単純計算でも工場の稼働率を五十パーセント、頑張っても六十パーセントにまで落とさなければならない。これが常識的な対応だ」
「でも、地上センターの指示は八十パーセント維持なのですね」
「指示ではなく、命令だ」
「では不足の二十パーセント分の電力はどこから賄うのでしょう」
「ここからだよ」
長谷川は人差し指を真っ直ぐに立てた。
「作業卓周辺以外の照明を落とし、エアコンの設定温度を三十二度まで上げる」
「本気ですか」
「それだけでは足りないから、基本的に全モジュール及び連絡通路の照明もほぼ切ってしまう。植物栽培プラントも真っ暗闇さ。野菜サラダは食卓から姿を消すし、食事も温めずに食べなければいけなくなる」
「照明、食事については何とか我慢できますが、室温三十二度では作業効率が――」
「だから一刻も早く電力供給能力を回復させよ、ということだ」
「そんな無茶な」
「地上でも無茶とわかっているから指示ではなく命令なんだ。ギリギリの状態になるまでは、スポンサーの利益優先というのは仕方のないことだろう。いや、スポンサーだけではない、今は他国の宇宙工場も生産効率を上げているから、日本としてはわずかでも後れをとるわけにはいかんのだ。つまりこういう場合は国益優先と言わねばならんのかな。でもまあそれは事務方の理屈だ。現場としては、我々の生命維持に影響が出そうな事態になれば、班長の権限で工場の稼働率を落とすから、それまでは我慢してくれ」
「わかりました。ところで今回の事故は、やはり流星群によるものだったのでしょうか」
「そうらしい。地上ではかつて無い数の流星が観測されたそうだ。他国の宇宙ステーションにも若干の被害が出ているらしいが、我々が最も濃密な部分を通過したとの説明があった」
原田の頭には、船外カメラで見た何百本もの白い軌跡が浮かんだ。
「では早速作業に取りかかろう。私は電力の配分調整をやるから、原田君は制御不能の太陽電池パネル復旧にあたってくれ」
長谷川は、原田との会話で少し感情の高ぶりが抑えられたのか、最後はいつもの柔和な表情に戻り、原田の肩をぽんと叩くと、大きな体をぐるりと反転させた。
「制御不能に陥っていた五枚の太陽電池パネルのうち三枚のコントロール再開に成功しました。これにより、電力の供給能力は七十五パーセントにまで回復します」
地上管制センターへ状況報告を行う長谷川の声は弾んでいた。
エアコンの抑制による不快指数八十五オーバーの中、二人は下着姿となって復旧作業を行い、二時間後にようやく状況の好転を見たのである。原田は長谷川の隣で額の汗をぬぐいながら、小さな達成感に自然と顔がほころぶのを感じていた。
「了解しました。それでは回復した発電量を全て工場モジュールに回し、稼働率を八十七パーセントに上げてください」
淡々とした口調で告げられるオペレーターの返答の内容に、原田は自分の耳を疑った。
全て? じゃあ、この蒸し風呂状態をまだ続けろっていうのか。気温三十二度、湿度八十六パーセントがどんな状態なのか、そこで二時間作業をしたらどうなるのか、取り替えた下着を全部送りつけてやらなきゃわからんのか。
頭に血を上らせた原田が通信装置のマイクに身を乗り出そうとするのを、真横に伸びた長谷川の右腕が制止した。
「回復した電力の二十パーセントを搭乗員の作業環境改善に充てさせてください」
地上オペレーター以上に平板で事務的な長谷川の声が、オペレーションルームに低く響いた。
原田は間近にある長谷川の横顔をそっと盗み見た。睫毛一本ふるえていない。原田には到底まねの出来ない自己抑制だった。
「改善内容とその理由を具体的にお願いします」
地上オペレーターからの返答には少しの間があった。
「オペレーションルームの設定温度を三十二度から二十八度へ下げます。この作業環境改善により、現状維持の場合と比較して作業効率が三十パーセント上昇します」
「提案内容を検証しますのでしばらくお待ちください」
十秒の沈黙。
「では、工場稼働率八十三パーセントとし、室温設定は三十度として下さい」
「工場稼働率八十三パーセント、室温設定三十度とします」
「引き続き電力供給能力の回復に努めて下さい」
「了解。次回報告は一時間後とします」
長谷川が振り向き、無精髭にうっすらと覆われ始めた頬をつり上げニヤリと笑う。
「成功報酬がなきゃ、やってられねえからな」
その一言で、原田の胸で育ちつつあった黒く歪な塊は、溶けて消えた。原田の頬も自然と緩む。
すぐに長谷川の手で室温が二度下げられ、オペレーションルームの空気は、実際の温度低下以上に爽やかなものへと変化した。
「さてと、残りの太陽電池パネルをどうしてくれようか」
長谷川の言葉遣いにも余裕が感じられた。
「制御ユニットの再起動はすでに二度試していますから、別な方法を考えなければいけないでしょう。あとは船外活動補助用のマニピュレーターをパネルの回転軸へ打ち付けてみるか、直接の船外活動による不具合部分の確認・修理でなんとかなるかどうか、といったところですね」
「船外活動は最後の手段だ。まずは殴って目を覚ますってやつを試してみるか」
「やってみます」
すでに準備は整えてある。原田は操作盤に向かって姿勢を正した。
「あせらず慎重にな」
原田は額の汗を拭い、両手をマニピュレーター操作用のジョイスティックに伸ばした。
「マニピュレーターの制御リミッターを解除します」
「解除了解」
長谷川が原田の右肩越しにモニター画面をのぞき込む。船外カメラの中央には、右方向から太陽光を受けながらゆっくりと角度を変えてゆくマニピュレーターの白く輝く細長いポールが映し出されている。その先端が画面の右隅外へ出る直前、原田の右手親指がジョイスティックを鋭く弾いた。それまでのスローな動きから一転、マニピュレーターは大地に打ち下ろされる鍬のように白い残像を残し、画面左斜め下へ消えた。直後、カーンという軽く甲高い音がオペレーションルームの壁全体から伝わってきた。
「どうした? 今のはいくら何でも乱暴すぎないか」
長谷川がモニター画面と原田の顔を交互に覗き込む。
「申しわけありません。汗で、指が滑って……」
「そうか、次は慎重にいこう。その前に深呼吸だ。指先の発汗は暑さのせいじゃないぞ。緊張に伴う生理現象だから落ち着けば大丈夫。何の問題もない」
長谷川の手が伸び、原田の固まった両腕をそっとジョイスティックから引き剥がした。
二人の深く長い呼吸音がオペレーションルームに響く。
「よし、いくか」
「はい。――あ、ちょっと待ってください」
原田は視界の隅で何かのインジケーターランプが赤から緑に変わるのを認識し、伸ばしかけた腕を止めた。
「班長、太陽電池パネルの制御機能が回復しています」
先ほどまで赤く点灯していた制御パネルの二つのランプが、やわらかな緑の光を放っている。二人は、同時に身体を浮かせ太陽電池制御パネルの前へと移った。パネルの自動太陽追尾機能をオンにすると、画面上の数字が頼もしい早さで設定値に向かって変化していくのが確認出来た。
「殴られて、ようやくお目覚めといったところかな」
長谷川の明るい声を耳にしながら、原田は強い違和感を覚えていた。
(今の操作は完全に失敗だった。マニピュレーターは見当違いの場所を叩いている。だから、この復旧は別な要因が働いたものだ)
そのことを長谷川に言おうか、言うまいか。一瞬ではあったが、原田の心に躊躇いが生まれた。状況が好転したのだから、班長の判断通りということでいいじゃないか。甘い囁きに気持ちが傾きそうになる。だが、宇宙飛行士の訓練過程で徹底的に叩き込まれた危機管理意識がそれを許さなかった。
〈生じた疑問点はすべてその発生理由を明確にすべし〉
〈情報共有により、単独判断を排除すべし〉
原田は長谷川に向き直り、報告を行うべく唇を舐めた。
そのとき――
再び非常事態の発生を告げるアラームが作動し、オペレーションルームに〈地獄のラッパ〉が高らかに鳴り響いた。
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