胸の内
虎牛 竜巳
あなたのように
父の手垢だらけの愛読書を、病院近くまで行くバスの中で、ぼーっと眺めている。ポケットの中の十円玉の金属音が安っぽく、バスが揺れる度にじゃりじゃりと鳴る。不快に思いポケットに手を突っ込み音が鳴らぬよう、暴れようとする二百四十円を沈めてやる。
次の次のバス停で降りればちょうど二百四十円で済む。財布は持っていない。一週間前に河川敷から川へと投げ込んだ。どうせ中身など入ってなどいなかったのだし、もう後悔なぞしていない。この二百四十円は家の中を必死に探して、ようやっと十円玉を二十四枚見つけてきたのであり、「これでなんとか、病院の近くまで」とそう思い、このバスに乗った。本にはカヴァがついておらず、片手に収まるほどの茶色い(元々茶色いかどうかはわからないが)表紙をしている。ただ、その茶色も、折り目によって白い筋が入っている。
中をパラパラと捲る。難しい漢字だらけでさっぱり読めもしない。読書なぞ、趣味でない。
私は父とは似ていない。真面目で尊敬される父。昔は相当な美男だったらしく、美女の知り合いが多い。しかし浮気の影など微塵も見せない男であった。対して私は、ズボラで見窄らしく、醜い容姿をしている。過去一度だけ、高い鼻が父に似ていると、祖父に言われたことがあるくらいで、全くと言っていいほど似ていない。その上私は相当に酒癖が悪いらしい。
何故聞いた風なのかというと、飲めば必ず潰れるまで飲むからである。誰に止められようと、気がつけば手に酒瓶を持っているとのことで、家に安い酒瓶の空きが十本二十本転がっている。そんな男に彼女などできるわけもなく。
これまで好きになった女たちは、皆、「他に好きな人がいるから」と言うふうな理由で私をふった。誰も私自身を見てはくれなかった。私自身に要因がないように私を振った。
空の薄暗い雲が、今にも雨を降らしそうである。雲自身、気だるそうに横へ流されている。運転手は寝不足らしく、目をこすりながらあくびする。私以外の二人の乗客も各々足を組んだり、窓ガラスに頬杖ついたりして窓をぼーっと眺めている。
バス停に着く。私の降りる一つ前のバス停だ。そこで、足を組んでいた小汚い乗客がのそりと立ち上がる。運転手の前まで行って、ポケットからしわくちゃの千円札を取り出して、何も言わずに運転手に差し出す。運転手も困り顔で、「四百円です」と言うだけだ。すぐ前にある両替機に汚らしい男の目が向き、すぐにお札がギュインと吸い込まれる音がする。それと同時に、一組の男女が睦まじそうにバスに乗り込む。
ジャラリジャラリと札が十枚の硬化に変換された。
そのうち四枚を運転手に渡して、男はバスを降りた。男の向かう先には役所があった。最近の工事で以前にましてその大きさを増している。男は役所に向かいふらふらと歩いてる。よく足元を見ると、ズボンの裾は泥に塗れていて、つい先刻汚したようではない、かっぺかぺに乾いた泥だ。擦れた靴底からは肌色がのぞいている。
一人小汚い男が下車し、バスの車内は、運転手と年若い男女と頬杖ついた男が残された。
バスは動き出す。私は再び父の本へと目を向ける。
この本は昨日、父に持ってきて欲しいと頼まれたものだ。この読み尽くした本のどこをさらに読もうと言うだろう、と疑問に思った。私の記憶が正しければ、これは私が幼稚園の頃から父が大層大事そうに保管しているもののはずだ。というか父の部屋には、この本以外に本はなかった。読書家でもない父がこの本だけは目につくところに置いていた。それほどの魅力が、この本にあるのだろうか。さっと見た感じ、挿絵ひとつない、つまらん(ように感ぜられる)本だ。やはり理解できない。そう思って本をパタリと閉じ、優先席に座る男女を見た。
男は女の腹を揺れる度に気にして、女はその挙動不審に苦笑している。呆れているようである。しかし果てているようではないようで。
目も逸らしたくなるほど、仲睦まじいことだ。
それにしても、二人はあまりにも若い。男の髪が赤いことに少なからずギョッとしたし、女も女で黒い髪はしていない。薄く茶色がかっている。二人の耳には、ピアスが光る。男は左で女は右に。
母は私に厳しかった。しかし同時に深い愛情を抱いてくれていたのだと思う。私も母を愛していたし、母の厳しさは愛情の裏返しなのだろうと、幼いながらに理解してもいた。一番出来の悪い私を、母は見捨てないでくれた。
勉強も運動も、鈍くできなかった私は運動会もテストも、いつも恥ずかしい結果を叩き出し、私はいつしか、その結果を父にも母にも、言い出せなくなってしまった。テストは答案を隠し、時々とれる見せられるほどの点数を、さも自分の実力であるかのように臆面を見せないように注意して提出していた。
その日は、私が初めて百点の答案を母に見せた日だった。父は仕事で私の帰る頃にはまだ帰っておらず、いつもなら父が帰ってきた時に満を辞して私の答案を見せるのであるが、その日は初めて取った百点に気が舞い上がってしまって、早く誰かに見せたいと、そう思って、家に既に帰ってきていた母に私の満点の答案を見せようと思ったのだ。
母は、涙を流していた。テーブルに広げられていたのは、ベットの下に厳重に隠しておいたはずの目を逸らしたくなる点数の私の答案の数々であった。私は居間に入ることを躊躇った。否、家から飛び出すことを検討すらした。それほどまでに、追い詰めらた。何に追い詰められていたのか、今となってはわからない。いや、それはきっと、私自身に追い詰められていたのだろう。私は私を追い詰めていたのだ。
しかし私は、そんな葛藤があったにもかかわらず、半開きの扉を大きく開けて、力強く私の帰還を宣言した。何故なら、私の鞄の中には泣く母も泣き止むサプライズを潜ませているのだから。この答案を見せれば、母の顔は立ち所に笑顔になるであろう。そう踏んでの、ただいま、だった。
母は私の帰還に気ずくとそれまでの弱々しく泣いていた態度を改めて、一瞬で狩人の眼光へとその瞳から発するものを変えた。
座れと指示を受け、冷や汗かきながら席についた。母の示す席は、いつも私の座る席でなく、いつもは兄が座る席で、母の目の前に当たる席。
席につき、問い詰められる前に、私は唯一の武器を母に示した。母は、とても悲しそうな顔をした。それは百点を捏造した、とか疑ったわけではない。
そのあと私は、泣くことしかできず、母の話も、話半分にしか聴こえてこなかった。
あの時、母が、悲しそうに見えたのは何故なのか。それはきっと、私が嘘ををついてしまったからなんだと思う。点数が悪くても、それ自体に怒るような人ではない。私に点数の悪い答案を見せて、それで怒られてしまうと、思われていたことについて、悲しんだんだと思う。その時の私はただ、お母さんにそんな悲しい顔させてしまったという罪悪感により、意味もわからず泣いてしまった。
それから母は、私に勉強を教えてくれるようになった。母もそこまでいいとこの出ではなかったが、小学生のお勉強くらいは教えられる、と本人に言われて、それに従って、私の成績は少しずつ伸び始め、6年生にはまぐれで取ったたわけでない、本当の満点を今度は父もいる前で両親に見せた。母は嬉しそうにその答案に花丸を書き足してくれた。
そんな母も4ヶ月前に亡くなった。元々心臓が弱く、季節の変わり目だったこともあり、体調がすぐれない日が多く、床に伏せってうわ言のように私を呼んでは、仕事はどう、とか、友達とはどう、とか聞いてくる。私はそれに、ぼちぼちだよ、と私でなくても答えられるような答えしか返さなかった。言い訳するなら、本当にぼちぼちだったのだ。友人とも最近はめっきり会っていないし、職場では取り上げて言うことも何もない、なんの手柄もなんの失敗もない、平穏で刺激のない毎日を送っていたのだ。きっと母も、なんてことのない私の話などが聞きたくて私を呼んだのではあるまい。もっとこう、刺激のある毎日の話を聞きたがっているのだろう。
そう思って私は、ぼちぼちだよ、と俯いて答えたのだった。
母が亡くなって一月もせぬ間に、父が入院した。既に定年を迎え、母を失ったショックからか、酒の量が増えていたようで、昼間から飲むことも多かった。私が仕事から帰ると、そこには既に出来上がった初老が転がっていた。私は慌てて救急車を呼び、幸に命に別状などはなく、急性アルコール中毒で、医者の話はよくわからなかったが、とにかく数日で退院できるようなのだが、精神的に鬱状態にあるかもしれない、とのことで、入院が長引く可能性があると言われた。
その日を境に私は父の見舞いに行っていなかった。兄は度々見舞っているようで、父の病状を連絡してくる。兄は東京での事業に失敗して泣く泣くこちらに帰ってきて妻子を携えて、嫁の実家に住み着いていたが、それももう3年も前のこと。今ではどこに家を建てようかと話し合いを重ねているそうだ。兄は父に似て美男で、七つになる娘を溺愛ししている。私自身も兄の妻子とは顔を合わせている。しかし交わしたのはあくまで顔だけであり、言葉を交わすことはなかった。というか、私は話しかけられたのに、無言で別方向を向いており、顔を合わせたかどうかも怪しいところではある。
一週間前に来た兄の連絡では、父はやはり、母の死で少々まいっているらしく、しばらく入院が必要になるとのことだ。
そして、昨日の父からの「〜の本を持っていてくれ」という連絡に至る。
どうして時折来る兄にでなく、私にそれを頼むのかというと、私がまだ、実家に暮らしているからだ。家事などは一切やったことがない。これまで母にしてもらっていたのだが、それももう叶わない。私の部屋の荒れ様は、家に掃除をせかす者がいなくなったのだから、必然であろう。
今日私が父の病室を訪れる理由は二つ。
一つはこの本を届けること。もう一つは、ある一つの言い難いワガママを通すためであった。
私はちょうど三ヶ月ほど前、会社をクビになった。飲み会中にある女性社員をぶん殴ってしまったことが原因だそうだ。無論覚えていない。殴ってしまった次の日、私は家の玄関の前でぶっ倒れていた。右の拳は青く腫れ上がっており、口の中が、前日の酒のねっとりとした気持ちの悪い唾と、鉄くさい血の味がした。また飲みすぎた、と思い、腫れた拳も、特に気にも留めなかった。唾をぺっと吐き出して、朦朧とした意識のまま家に入った。すぐにシャワーを浴びて、干しっぱなしであったワイシャツを着、頭が訴える痛みを無視して、木曜日の仕事へ向かった。電車に揺られる中で、携帯が無くなっていることに気づき、またあの居酒屋に取りに行かねばならないのか、と億劫になった。
会社に着き、私に対する周りの目の異変に気づく。無理もない。前日に女をぶん殴っておいて、翌朝ケロッとした顔で出勤する者なぞ聞いたことがない。いや、私が初であろう。
その視線が気になりはしたが、元々好かれているなどとは微塵も思っておらず、その視線も、昨日の飲み会で、また何かやらかしてしまったのだろう、申し訳ないな、とその程度に思っていた。従ってその突き刺すような視線を無視して仕事を始める。
しばらくすると、部長から呼び出された。会議室には右の頬が真っ赤に腫れ上がり、目も半開きの女がいた。ことの顛末を聞き、青ざめ、ただ平伏するしかなかった。
そんなことで許されるはずもなく、警察には言わない代わりに、退職を言い渡された。私は全て失った様であった。元々何も持っていなかった様なものなのに、『職』と言う唯一持っていたものまで、取り上げられてしまった。
ひと月ほど謹慎という形を取り、その後正式に退職という運びになった。何度も女に頭を下げる。元々どんな顔だったのだろうか。田村さんという女性は二十代後半のOLで私も以前、一度だけシュレッダーを任せたことがあった。あまり顔を見なかったが、社内では美人だと噂があったか。
田村さんは無言で俯いていた。殴られた男と目を合わせるなど、恐怖以外の何ものでもないに違いない。伝わっているかどうかはわからないが、しかし、何度でも頭は下げた。
会議室を出る時、部長に呼び止められ、君のだろう?、と携帯を渡された。確かに私のもので、さっと机に置かれた携帯をふんだくる様にして乱暴に取り、会議室を後にした。会議室を出るとき、田村さんは先ほどよりも深く俯いている様に見えた。
帰り道、普段なら電車を使うところを私は歩いて帰った。験した事はなかったが結局四時間ほどかかった。その四時間で、いろいろなことを考えた。父になんと言おう、母に墓前でなんと伝えよう。これからの再就職よりも前にそれが気にかかった。
コンビニで、一本の酒瓶を買った。もうどうせ、翌日だろうとそのまた次の日だろうと、私はあの会社に向かわなくていいのだ。いくら飲んでも止められない。いつ飲んでも文句も言われない。
次の日、目が覚めると、酒瓶は四本転がっていた。
金は使えば無くなるのだなあとつくづく思う。もとよりないに等しい貯金が私の口座から姿を消した。昼間の晴天の下、河川敷で寝そべりながら瓶を傾ける。こんなに愉快な事はない。空の晴れが気持ちがいい。酒に酔う感覚が心地よい。のに、私の気持ちは晴れず、ただどこまでも、どんよりとした重たい雲が、太陽を隠す。気怠げな雲は、今にも雨を降らしそうである。
私の今持っている二百四十円が私の全てだ。
鼻頭を赤くなるまで擦ったり、目を瞑ったり、座り方を変えたり、足を組み替えてみたりと、ソワソワする。
落ち着きなく視線が彷徨う。結果、目に留まったのは役所前から乗り込んだ男女だった。未だ二十代前後だろうか。もしやまだ学生ではないか?そう思われるほど、両者ともに若い。早婚は望まれる様だが、あまりに早いといえよう。この考え自体、古いのであろうか。
ついに私の降りるバス停に着いた。握っていたお金をポケットから取り出して、握り込む、手汗のせいか、十円玉が滑りやすい。
優先席に座っている二人を追い抜き、運転手に整理券と二百四十円を渡す。運転手は整理券をみもせずに、二百四十円を受け取って、バスを降りると、プシュッと間抜けな音を立ててドアが閉まった。
バスが遠のいて行くのを見届けて、近くなった病院に向かって歩き出す。ここから既に病院の高い建物が見えている。二十分もかからずに着くだろう。昨日の酒でうまく歩けない。歩道を歩いているつもりだったのに、気付けば車道に乗っていて、クラクションによって歩道に戻される。
左手に持っている本がいやに重い。何も背負っていないのに、石でも背負っているかのように後ろへと引っ張られる感覚を味わう。
家に届いていた会社からの封筒が思い出される。白い封筒にビニールの向こう側には私の名前が刻まれていた。開けるのも億劫で、ぽいっと、ポストに一緒に入っていた宛名も宛先も書かれていない茶封筒と一緒にゴミ箱に捨ててやった。気分はよかったのに、なぜだか息が詰まり、涙を流していた。嗚咽をも漏らして、泣いた理由を昨日の酒の所為にした。
ぽつりとつむじにぞくりとする冷たい感覚を味わう。雨だった。先刻から風は強かったし、そろそろではないかとは思っていた。本が濡れないように、シャツとジャージの間に挟んで、急いで病院に向かった。
病院に着き、自分が衰えたことを知る。以前ならこの程度では疲れなかった。にもかかわらず、息が切れて豚のようにヒーヒーと言っている。ベンチに腰掛け息を整える。人の息遣いを思い出して、ついに院内に踏み込んだ。
受付で父の名を出して、待てと命令された。受付の前にあるソファーに沈むようにどっかりと座り込む。両手をついてのけぞっていると、呼び出され、父との関係について問われる。そこで私は、ためらった。葛藤の末、息子であるとそう伝えた。無論看護婦も訝しげに私をみたが、私のどこかに父の面影を感じたのか、笑みを讃えて父の病室を教えた。
つんと、病院独特の刺すような匂いがする。ただ、嫌ではなかった。
父の病室は七階だった。看護婦によれば、エレベーターを降りて、左手前の病室だそうだ。私は階段を使って七階まで登った。病室に入る前に、プレートを確認する。確かに父の名前が刻んである。
十分後、私はその病室をノックした。
「はい」
弱々しい、父の声が聞こえた。入るのをためらってしまうほど、か細い声に私は困惑した。私は虚栄を張って横開きのドアを勢いよく開けて、明るく取り繕って、
「久しぶり」
父は、心から嬉しそうに顔を歪めた。
「おお・・・。よく来たよく来た。まあ座れや」
まるで年老いたおじいちゃんのように私を歓迎した。折木のようなその細い腕は以前にまして細くなった気がする。私は父のベットの横で背もたれが父に向いている椅子に腰掛けた。椅子は思っていたより硬く、まるで私を追い返さんとしている様であった。
「持ってきてくれたか、本」
早速父は、頼んでいたものを催促した。
「・・・持ってきたよ。雨でちょっと濡れちまったかも」
「そんなんいいよ。読むこともないやろうで」
「は?読まんのになんで持ってこさせたんやし・・・」
「うーん・・・お守り・・・とは違うんやけど・・・大切なものやな」
よくわからない。ここに母や兄がいればきっと理解できたのかもしれない。
「そういえば、会社はどうしたんや。平日やぞ」
ギクリと口から出そうだ。いや、そんなコミカルな表現で切り出せる話ではないのだ。むしろ父の視線がギロリと鋭くなっている気がする。私は言葉に詰まってしまう。
あまり、長居はしたくない。
「もしかして、俺のために休んだんか?」
もしそうなら、どれだけいいだろう。そうでないことに恥しか感じ得ない。
「お父さん、実は俺、会社クビになっちまったんだ・・・。」
言葉にして伝えた。父は何も言わない。表情など見れるはずもない。どんな顔をしているのだろう。鬼の様に怒っているのだろうか。それとも釈迦のように憐んでいるのだろうか。
「あの・・・会社の人を・・・酒で、よって・・・それで・・・殴ってしまって、会社を追い出されて・・・」
曖昧に切って、意を決して、父の顔を見る。
父は、虚無を顔に表していた。
鬼でも釈迦でもなく、父は能面だった。なんだか魂でも抜き取られたかのようで、口も半開き。目は瞳孔が際限なく広がり、まるで瞳に宇宙でも写しているかの様に無限の虚無がその顔にあった。
父の細い腕は、あの本をぎゅっと強く握りしめていた。
「そ、それで、えっと・・・金がもう、なくて、それでその・・・お金を借りたいんだ・・・」
胸の内側で、自我が暴れ回る。今すぐにでも、この自我を吐き出してしまいたい。
もうそこから、父の顔は怖くて見れなかった。もういっそ、鬼でも釈迦にでもなってほしいと、そう思った。父でない、何者かに。
沈黙が父の口から吐き出された。
永い沈黙の後、
「その棚の、一番下を開けてくれ」
その声に感情はなかった。言われるがまま、棚を開ける。中には何通かの手紙と思われる封筒があった。
「白いやつをくれ」
その中で白い封筒は、一通しかなかった。
白い封筒を手渡す。父は危うい手つきで封を開け、7枚の紙切れを無言で私に渡した。
私は「アリガトウ・・・ゴメンなさい」といって受け取り、それきり父は、ゴロンとベットに寝転り背を向けしまった。
「早く、新しい仕事見つけろよ」
父として、最後に助言をくださった。私は「またなんかあったら連絡してくれ」そう言って病室をでた。部屋を出る時、声はかからなかった。
私は病院出、コンビニに立ち寄った。院内のコンビニには行きたくなかった。なんだか棚に陳列される商品たちが私を拒絶しているように感ぜられるのだ。私の手が触れようとするとスッと、離れて行くように。
今ポケットには、七枚の紙切れが入っている。その紙に込められているのは、信頼、信用、愛情・・・。紙にしてはいやに重い。先程まで持っていた小銭の方がよっぽど重いはずなのに、今は、この紙切れに込められる思い、想いの方が重い。
病院から少し歩いた先、戸を引く前に、病院の七階からこの場所が見えないかどうか確認して、店の重い引き戸を引いた。店内の人の少なさに、寒気を覚える。この時間、外は土砂降り。こんな中くる奇人はそう多くはいないだろう。
雨にぬれたのでタオルの一枚でも買おうか、傘の一本でも買おうか。そんな考えを持つ。
結局買ったのは一本の缶コーヒーだけだった。
冷たい雨に打たれながら、私はひたすらに歩いた。家まではまだ遠い。父と話している時、何かが喉の奥の方から溢れて、吐き出しそうになった。それは私の自我とそう思ったが、本当にそうだろうか。俺があの場で吐き出したかったのは、父に対する本音だったのではないか。
父は、私を見てくれない。
私は父に認めて欲しかったのだ。あの日、私が初めて本当の百点を取った時、父は「そうか、次もこの点数を取れる様に頑張りなさい」といった。出来のいい兄と比べられ、どんなに足掻こうが、どれもこれも兄に及ばず、できない人の苦労を知らない父は、自分とできる兄が世界の全てだと、それが普通で、それ以外は普通でないのだと、そう信じている。
あの時、私が欲しかったのは、そんな言葉じゃないんだ。
僕はただ、僕の努力を認めて欲しかったんだ。僕ができないのはわかってる。兄ができるのもわかっている。お父さんがすごいのなんて、とっくのとうに知ってるさ。それでも僕は、僕の努力は無駄じゃないんだって、そう教えて欲しかったんだ。僕みたいな出来損ないでも、お父さんの後を追いかけてもいいって、自信が欲しかったんだ。
お父さんほどかっこよくなくていい。お兄ちゃんほど頭が良くなくていい。お母さんほど優しくなくていい。でも、僕だけのダサくて間抜けで意地悪い、お父さんみたいな僕という、人間になりたかったんだ。
だからあの時欲しかった言葉は
「頑張ったな」
この一言で、きっと、私の人生は、大きく違っていたんだろうと思う。
家につき、自室で蹲る。啜り泣く声は、さながら子供のようだ。私の心はあの頃に止まったままなのだ。あの時から私は、父とも兄とも母とも、目を合わさなくなった。それどころか、他の人間とも目を合わせられなくなった。人の目を見ると、その瞳に映る自分が、ひどく滑稽に思えてしまうのだ。
友は目の合わなくなったから、離れていった。帰り道、手を繋いで歩くほど仲の良い彼ら彼女らが、私の元から離れていった。その様は、まさに滑稽で、私の周りだけ、ぽっかりと空いた間隔がドーナツ状に広がっていき。結局は誰もいなくなった。
永遠を誓い合った彼女ですら、目を逸らしてしまうほど。
私はもう、何も残っていない。金も誇りも友人も、家族ですら遠のいた。生きる気力すら、無くしてしまった。
胸の中が、ひどく寒い。蹲るが、深く蹲るほど、寒気は増していく一方だ。布団を被ろうが、頭を抱え込もうが、一向に暖まらない。生傷にヒューヒューと風が吹き込んでいる様だ。
母の墓前に参って、祈る。手を合わせれば、私の声は届くだろうか。話しかければ、答えるだろうか。届かぬと知っているし、答えぬと知っている。しかし、謝らなければいられない。
「ごめんなさい。嘘はつかなかったから、許してください」
翌朝、私は自宅の居間で、首を吊っているところを発見された。
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