剥き出された血の肉塊

※このエピソードにはグロテスクな描写が含まれます。


その厳然たる敵国の王の降伏の却下に、ボヘミティリア王城の城壁にいたデンガキンの心臓が止まった。もはやこのまま止まり続け、死んでしまったほうが楽だとさえ思えてしまった。


だが、デンガキンは本能的な生存欲求が湧き上がり、今更になって自分が本当は死にたくなどないのだと理解した。ガタガタと全身が慟哭するように震えている。


目の前にいる黄金の悪魔がこの国を守る王としての意地も、偉大なる兄デンガダイ・バウワーの弟としての矜持も、遥かに凌駕して全て投げ捨ててしまいたくなるほど怖かった。人間の本能を支配する根源的な生の欲求、恐怖、それがデンガキンの全身を緊縛して動けなくしてしまっていた。


ユーグリッドは大砲部隊を引き連れたソキン軍と合流した。そのままアルポートの重鎮に手短に指示を出す。


そしてソキンは大砲部隊に命令を下し、大砲の導火線に火がつけられた。


「ボヘミティリア王城に標準を合わせろぉッ!! デンガキンを狙えェェッ!!」


ドゴオオオオオンッッ!!


その号令の瞬間、耳を貫くほどの轟音が鳴り響き、王城の崖が崩れ落ちた。


間一髪、デンガキンは砲撃をかわして倒れ込んでいた。自分にその黒い殺戮兵器が向けられた時、反射的に横に向かって飛び込んでいたのだ。自分でもどうしてそんな動きができたのかわからない。運動などろくにしたことがなかった自分でも信じられないほど俊敏な動きだった。


「・・・・・・う、う、ゲホッ、ゲホッ」


デンガキンは城壁に土煙が巻き上がる中、体中が痺れるほどの痛みに堪えながら、半身を起き上がらせ地面に尻をつける。そして心臓が不思議なほど安静に落ち着いており、自分がまだ生きているのだと自覚した。


だが、デンガキンはその時見てしまった。その赤黒い恐ろしい形相を。


煙が晴れた時、デンガキンが最初に見たのは兵士の死体だった。下半身が吹き飛ばされ、上半身だけとなった体が城壁の壁に叩きつけられている。そして何より目を奪われたのが、その兵士の剥き出しとなった赤い肉の顔面だった。


その両目にあったはずの眼球は黒い空洞となって抜け落ちており、その眼孔からは視神経の赤い肉の糸が垂れ下がっている。そしてその細く赤い肉の筋の先には、小さな黒点を持つ2つの白い球体がだらんとぶら下がっている。


その真黒な眼孔の上部では、そこにあったはずの白い頭蓋が粉砕されていた。皺だらけの脳髄が晒され、赤い迷路のような紋様が冬の風に吹きさらしとなっている。


垂れ下がった眼球の両隣にある鼻筋は、岩窟(がんくつ)のように削げ落ちている。赤い肉厚の鼻孔が半筒の形となって抉れており、2つの真っ黒な空洞が曝されている。


そしてその下部にあったはずの唇は全て剥がれ落ち、肉の断崖にへばり付いた二十数本の白い歯を剥き出しにしている。その上歯うわばには赤い肉塊から流れる血が滴り落ちており、そして歯の僅かな隙間を縫ってまた垂れている。その血滴はポトリポトリと突き出された舌へと零れ落ち、熱い粘着質な糸を何本も引いている。


顔の全ての表皮はめくれ上がり、筋張った赤黒い絶壁を露わにしている。その歪な肉の破砕物には、蟻の卵のような光沢がぬめり気を帯びて放たれている。もはやそれが人間だったとは思えない。その真紅の肉の壁はまるで、顔の半分を化け物に喰い千切られたかのような衝撃的な様相であった。


戦を知らぬデンガキンはまともに人の死体など見たことがない。今まで勇敢な兄たちに守られ、ずっと平穏に暮らしてきた。だがその残酷な現実の中にあった兵士の肉塊こそが、デンガキンが初めて目の当たりにした戦争の悲惨さだった。


「う、うわああああああああッッ!!!」


デンガキンは何も視界に入らないまま王城の中へと逃げ去った。心臓の動悸が止まらず、先程見た無残な顔の死体の光景が何度も頭の中で蘇る。


デンガキンは誰の目にも触れられることもなく、自室のベッドに駆け込んでいた。掠れた呼吸を繰り返し、本能的に左胸を両手で抑える。この津波のように襲う心臓の鼓動が続けば、自分は本当に死んでしまうかもしれない。


(嫌だっ!! あんな惨たらしい姿になって死にたくないっ!! ユーグリッドは本気で僕を殺すつもりなんだ!!)


心の中で、何度も否定してきた受け入れがたい事実を叫ぶ。デンガキンにはもはや無力な己が縋れる希望など持ち合わせていなかった。張り裂けそうな心臓を抱えながら、アルポート軍に殺される未来を待つしかない。その泣き叫びたくなる残酷な真実を前に、とうとうデンガキンの心が張り裂けた。


デンガキンは腰から短剣を抜いた。震える手で離れそうになる柄を握り直し、ゆっくりと細い刃を腹に向ける。そして一拍呼吸をすると、時間の全てが停止したかのような静寂が部屋に訪れる。だがその短剣を持った両の拳はついに、勢いよく腹に向かって押し込まれた。


ドスリと鈍い音が鳴る。腹の中が激しく痛い。心臓の鼓動を忘れるほどに激しく熱い。血が流れ出る腹を屈め、本能的に刃を抜き出してしまいそうになる。けれどデンガキンは既に絶望に溺れており、無我夢中で力任せに刃を横に切り払った。


デンガキンはそのまま剣を放り投げ、ベッドに力なく仰向けに倒れる。血液が溢れ出る腹に片手を添え、わなわなと口を半開きにして震わせた。


(痛い・・・・・・痛い・・・・・・戦争ってこんなに痛かったんだ・・・・・・助けて、ダイ兄上・・・・・・ハク兄上・・・・・・レン兄上・・・・・・)


兄たちとの思い出が閃光のように浮かび上がりながら、デンガキンは涙の粒を流す。だがやがてその雫を流せる力すら消え失せてしまい、その濡れた瞳には暗闇が訪れた。


(僕は、一体何のために生まれたんだろう・・・・・・兄上たちの足を引っ張り、兄上たちに何度も迷惑をかけ、バウワー家の家名にも泥を塗ってしまった。そんなちっぽけな僕の命のために、兄上たちは戦争まで起こしてくれたというのに・・・・・・そんな兄上たちに何の恩返しもできなかった僕に、どうして生きてる価値なんかあるだろう?


・・・・・・ああ痛い・・・・・・苦しい・・・・・・僕は兄上たちが必死で戦って手に入れたこの王国すら守れず、何の役にも立たないまま死んでいくんだ・・・・・・ああ嫌だ・・・・・・死にたくない・・・・・・僕はもっと、健康な体に生まれたかった・・・・・・)


そしてバウワー家の四男、デンガキン・バウワーは痛みと自責に苦しみながら絶命した。


腹を斬った血の滴る短剣が、ベッドの上から無情な音を立ててずり落ちる。


もはやボヘミティリア王国には、その憐れな男を介錯かいしゃくする慈悲のある者さえいなかった。その切腹した男は孤独で無念な死を遂げ、絶望の奈落に沈んでいったのである。


ボヘミリティリア王国の狂気の騒乱はまだ終わらない。血に飢えきった獣の軍勢の腹を満たすには、デンガキン一人の命などでは到底事足りなかったのだ。そして血しぶきの臭いが立ち込める夜空が明るくなる。


1月26日朝7時、覇王デンガダイがこの地獄を目の当たりにするまで後2日となった。

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