病院は戦場だ
「ええ、と、高野、ひろみさん、ですね……」
ナースステーションでは警察署のようなガン無視はなかったが、九割方の視界はマスターに向けられていた。しかし、マスクをして目と鼻筋しか見えてないのに、女性のイケメンレーダーというのは何と索敵能力が高いのだろうか。しかし人の命を預かっているという職務中の自制が働くのか、ギリギリで平常心を保っているのは素晴らしい。
「三〇五号室ですって。行くわよ。あ、どうもありがとうございますう」
薄く笑みを浮かべて私の腕を引っ張るが、彼も女性の集団の視線には流石に怖さを感じているらしい。掴まれた腕に指が食い込みそうである。
「マスター、ちょっと痛いです」
「え? あ、ごめんなさいね。ちょっと動揺しちゃって」
そう言って掴む力を弱めてくれたが、離すことはない。お爺ちゃんの介護のようなものである。
『あの……私、助かるんですかねえ?』
背後で静かに付いてきていたひろみさんが私に小声で声を掛けた。
いけない、影が薄くてど忘れしていたがひろみさんも一緒だった。
「うーん、どうでしょう。具体的な症状は家族にしか教えてくれないでしょうし。でも、一般病棟ですから期待は大いにありますよ」
『そっか。──そうですよね』
確か命の危険がある人はICUに入っている筈なので、容体が急変しなければ問題ないとは思う。……多分。
「失礼します」
二人部屋のようだが、一つのベッドはまだ誰も入っていない様子だ。
私達が入室すると、意外なことに彼女のベッドのところに先客がいた。ひろみさんと同世代の男女である。
「ええと……失礼ですが、あなた達はひろみの……?」
そう先に声を掛けて来たのは男性の方だった。恐らく彼も整った顔立ちの部類に入ると思うが、目つきに少々険しさがある。女性の生霊を一人背負っているが、その人はとても悲しそうな顔をしている。女性を不幸にするタイプの人なのかも知れない。
「私は坂東、この子は円谷と申しまして、ここ数年来の友人ですわ。趣味の映画鑑賞コミュニティーで知り合いまして……今回ニュースで事故のことを知って、お見舞いを、と思いまして」
マスターが頭を下げた。これはひろみさんと事前に打ち合わせをしておいたので、すらすらと口から出て来る。
『……その人達は、職場の同僚で、男性の方は一応恋人です。……結婚の話も出てましたけど、その一緒にいる女性と二股掛けられてたのを先日知りまして、もう別れるつもりでしたけど』
そんな予定外の爆弾をいきなり投下しないで下さいひろみさん。どんな顔をしていいか分からないじゃないですか。
「──ああそうなんだ。わざわざありがとうございます。でもまだ目覚めないんだよね」
そう言いながらもジロジロと品定めするような視線を向けられて、私は内心不快だったが、マスターは大人であった。
「あらそうなんですか。残念だわ。でもすぐ元気になってまた映画に行けるようになるわ。ね、ひろみさん。早く良くなってね」
ベッドに近づいて乱れている髪をそっと直す。眠っているひろみさんの頭に包帯は巻かれているものの、すぐ治りそうな軽い擦り傷しかなくてホッとした。女性の顔に傷痕が残るのは一大事だ。腕にはギプスがはめられているが、この若さだ、骨折程度はリハビリですぐに良くなるだろう。
「──あの、ひろみの意識が戻ったら連絡しますので、よろしければ連絡先を教えて頂けませんか?」
ずっと黙ってこちらを見ていた女性が、マスターに向かって笑顔で話し掛けた。華やかな目立つ美人で、ゆるくカールのかかった茶髪を払う姿に色気が漂っている。自分の見せ方を知っている感じで、とてもモテそうだ。ひろみさんとは真逆なタイプと言える。そして相変わらず私はほぼスルーされている。マスターといる限りこの扱いは慣れねばなるまい。
「あ、いえ。近くに住んでますし、定期的にお見舞いに来ますので」
「でも二度手間になるといけませんし」
「……実は仕事柄、余り連絡先を面識のない方に伝えたくないんですの。申し訳ありません」
マスターが柔らかい口調ながらもハッキリと断る。女性は少し動揺していた。恐らく、自分の美貌に自信があって、声を掛けて断られることなどあるまいと思っていたのだろう。本音を言えば、お姉さんよりマスターの方が百倍美形だし、自分に対して好意を見せて来る女性はことさら苦手としているトラウマ持ちの引きこもりなので、万が一にも勝機はないと思います。
「あの、でも……」
「ほら坂本さん、いくら親友のこととはいえ、この方達にも都合がある。しつこくしたらご迷惑だろう。──すみません、彼女ひろみの親友なもので今精神的に不安定でして」
「あ、いえお気になさらず。こちらこそお邪魔致しました。ではまた」
マスターは小ぶりに包んで貰った花束を渡して私を促し病室を出た。
『へー、親友って、相手の彼氏と付き合うもんなんだー……ふーん』
ロビーを抜け外に出ると、何故か一緒にひろみさんまで付いてきた。
「ひろみさん、ちゃんと病室に戻らないとダメじゃないですか」
私が小声で注意すると、
『だって、あの二人が揃っているところにいるのはちょっと……』
そういえば彼も、寝取られ側と寝取り側、よく同じ場所に連れて来たものである。まあ意識不明じゃなければ来てなかったかも知れないが。
マスターにあの人達の関係性を説明しておいた。
「……ああ何だか気分が悪いわ。ちょっと、二股かけられてるとは言え、今付き合っている人が目の前にいるのに何で私に連絡先とか聞いてくるの? ちょっとおかしくない? 倫理観とか道徳観念どこに消えたのよ」
『あの子は昔から面食いですから……美人だし』
「ああなるほど。美形好きだそうです彼女」
「何で話もしたことがない相手の顔だけ見て判断するのかしらね? 中身を知らなきゃ好きになるならない自体が始まらなくない?」
「マスター、世の中には色んな方がいます。犯罪まで走らない限りは、個人の趣味嗜好は否定してはいけません。そんな権利もありません。単にマスターとは合わない方だというだけのことです」
「……そうね。ごめんなさい、言い過ぎたわ」
こんな小娘に言われた程度で反省してしまうマスターは素直である。
「とにかくひろみさん、病室に戻って下さい。彼らが帰ってからで構いませんから。それでもし何か状況に変化があれば教えて下さい。マスターが来ると、あの方と揉め事が起きそうなので今回だけにしておきますが、私は定期的に伺いますので」
『……分かったわ。小春さん、本当に来てね。お願いするわ』
「乗りかかった舟です。約束は守ります」
ひろみさんが手を振って病院に戻って行った。
一安心して駅に向かって歩き出すと、マスターが呟いた。
「……まだ私、社会復帰は難しいみたいね……」
「そんなに落ち込まないで下さい。ぱんどら内では復帰してますから。別にマスターが悪い訳じゃないですし」
いきなりマスターが私の前にぐいっと顔を近づけた。
「……小春ちゃんは私を間近で見ても全然平気なのにねえ」
いや、急に顔近づけられたらものすごく驚きます。私は成育環境から顔に出にくいタイプだと言ってるじゃないですか。
でも、私が全く動揺してないと思ってくれていれば安心だ。他の女性も普通に接することが出来る人がいるかも、という希望がマスターに生まれる。いつかは引きこもりから脱却して欲しいのだから、希望があるというのはとても重要なのだ。
だから私は、優しい言葉にぐらついてもいけない。
食事にほだされてもいけない。
ジバティーさんに怯える姿が少し可愛いなんて思ってはいけない。
オネエ喋りなマスターの声が心地いいと思ってはいけない。
そして、マスターを好きになってはいけないのだ。
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