葬儀へ(下)
恐らく本人は、私とも普通に話せているし、私も別に目をハートにして自分を見ていないどころか、全く病む気配もない。そうか流石に二十代後半にもなったし、どこぞの掃除機のように病んだ女性への強い吸引力がなくなったのでは? と仄かに期待をしていたのかも知れない。
残念だが、それは大いなる勘違いである。単に私が裏事情を知っており、事故物件のイケメンよりまず定職を得たい、という願望が段違いに強いだけに過ぎないし、そもそも顔から入るタイプではない慎重な人間だからである。
火葬場へ行くために店の前で待ち合わせをしていた私は、マスクをして黒いスーツで現れたマスターを見て、なるほど未亡人がとんでもなく色っぽく見えるという説は本当なのだなあと実感した。何しろ元々の造形クオリティーが高いと、目元しか見えてなくても超絶イケメンなのである。更にフォーマルスーツともなれば、パイロットや警察官などの制服と同様で、普通の人間でも二割増しである。これで何の被害もなく電車に乗ろうなどとは片腹痛い。オネエ喋りをしたところで、女の私がそばにいてはワンチャン狙いのメンがヘラってる女子の猛攻があってもおかしくない。
私自身も世の女性を敵に回すのは勘弁して欲しいので、タクシーで移動することにした。
「電車でも四駅ぐらいなのにタクシーなの?」
「……いえ私、かかとのあるパンプスというのを余り履かないもので、歩いているうちにすぐ爪先なんかが痛くなって来るんです。すみません我が儘いってしまって。私がタクシー代持ちますので」
「あらそうなの? なら早く言いなさいよもう。それじゃ辛いわよねえ。いいのよ、お金なんてバイトに出させる訳にはいかないでしょ」
自分のためだけじゃなく、これはマスターのためでもあるんですよ、とは思ったが、パンプス云々の話は事実なので、さほど良心は痛まない。
火葬場に到着すると、二人の受付女性が明らかにマスターの顔に衝撃を受けて体が固まり、よその遺族と思われるご年配の和服の女性すらも、アイドルを見たように頬を染めたのを見て、私の判断は間違ってなかったと確信した。
「円谷さん」
「あ、美佐緒さん」
私たちを見つけた美佐緒さんがこちらへやって来た。彼女も私と同じようなシンプルな黒のワンピースである。美佐緒さんは当然弟さんの葬儀ということで、元からマスターに邪な視線を向けることもないので安心だ。
「坂東さんも、わざわざ弟のためにすみません」
「いえ、私もお店で仲良く話もさせてもらったので、やっぱり出たいと思って無理を言ってしまって」
どうぞ、と案内された部屋には線香の香りが漂い、ロウソクが灯された台に挟まれるように、棺桶が一つ。
「失礼致します」
焼香をし、久松さんの顔を眺めると、いつも見ている顔と寸分たがわなかった。飛び降りたと聞いていたが、顔には特に大きな傷はついてないようで、穏やかな顔に何かしらほっとする。
マスターは初めて彼の顔を見たのだが、「本当に、先に行くには早すぎるわよ」と悲しそうに目をを伏せた。
少し経ってもう一人、五十代位の眼鏡をかけた、細身のスーツの男性が入って来た。
「この度は……」
「──山本さんも、わざわざありがとうございます」
これが恐らく久松さんの上司の方なのだろう。パワハラ上司などと新聞には書いてあったが、物腰も柔らかで居丈高な感じも受けなかった。
僧侶の方の読経のあと、久松さんが火葬されるまで待機室に通される。
お酒は弱いのでビールは断り、出て来た食事だけ食べながら、マスターと話をしていたが、少し席を外した美佐緒さんがお茶を淹れ戻って来た。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
少し離れた場所に座っていた山本さんにもお茶を出して、ちょっとトイレ行って来ますね、と美佐緒さんが席を立った。
「あ、私もトイレ行って来るわね」
マスターが席を立ち、山本さんの後ろを通ろうとしてよろめき、テーブルに手をついた際に山本さんのお茶をひっくり返してしまった。
「あらやだ、すみません! ずっと正座してたので足が痺れちゃって……」
「いやいやお気になさらず」
マスターは詫びながら、慣れた手つきでテーブルにあった布巾でこぼれたお茶を拭うと、
「こちら、まだ手をつけておりませんのでどうぞ」
と自分のお茶を差し出した。
「私もどん臭いわねえ。布巾もついでに洗って来なくちゃ」
と部屋を出て行った。私はその一連の流れに何か不自然なものを感じ、自分も、というように部屋を出る。
周囲を見回すと、ロビーにいた美佐緒さんの手を取ったマスターが、ずかずかと歩いて行くのが見えたので、早足で後を追いかけた。
角を曲がった人気のない通路で、美佐緒さんの腕を掴んだままのマスターが話をしているのが聞こえ、あちらから見えないように物陰に身を潜ませる。
「──私、見てたんです。山本さんのお茶だけ、何か液体を入れてましたよね? 何をなさるつもりだったんです?」
「……さあ、坂東さんの見間違いでは?」
「この布巾、そのお茶をこぼして拭いたものです。調べて貰えば分かるんじゃないかしら?」
ひらひらともう片方の手に持っていた布巾を振る。
「──あの人は飲まなかったって言うことですか? ……余計なことを」
少し沈黙した後に聞こえて来た美佐緒さんの声は、あの昨日の柔らかい話し方ではなく、とげとげしく、吐き捨てるようなものであった。
「何かの毒なの?」
「……アジサイの花をね、絞って液を煮詰めたものよ。私、子供の頃間違って食べて中毒起こして入院したことがあって。猛毒って訳じゃないわ。あの人も中毒になって入院でもすればいいと思って。死にはしないわ」
「アジサイって、確か嘔吐とか痙攣とかして苦しむって聞いたことあるわ。その人の健康状態によったら命に関わるじゃないですか! 美佐緒さんだってすぐばれて捕まりますよ! いったい何故そんなこと──」
「捕まったっていいのよ恨みが晴らせれば! だって、佑介はあの人のせいで死んだんじゃない!」
マスターの手を振り払って美佐緒さんが叫んだ。
「坂東さんには分からないわ。両親が亡くなってから、ずっと私は弟と二人で生きて来たの。私のたった一人の家族だったのよ。佑介がいてくれたから、辛い時があっても私も頑張らないとって気持ちにさせられたし、やって来れたのよ。佑介があんな大きな会社に入った時は本当に誇らしかった。……それが何? 何年もボロボロになるまで仕事させられて、私が知らない間に飛び降りたのよ? 佑介がそこまで追い詰められていたのを知らなかった私だって同罪だけど、少しぐらい仕返ししたっていいじゃない! だって謝りたくても、もう佑介は戻って来ないんだものっ」
ぽろぽろと涙をこぼす美佐緒さんに、思わず飛び出して姿を見せたものの、何と声をかけたらいいのか分からない。そんな私の背後から「本当にすみませんでした」と声が聞こえ、驚いて振り返ると、山本さんが美佐緒さんの方へ向かって歩いて行くところだった。
彼は美佐緒さんの前で土下座をした。そしてそのまま話を続けた。
「盗み聞きしてしまってすみません。お茶をこぼされた辺りから何か気になってしまって……。お姉さんは何も悪くないです。久松君は、仕事は出来るが完璧主義者というか、自分が納得するものしか出したくない、というタイプでした。職人気質というか……別にそれ自体は悪いことじゃないんです個人の仕事ならば。ただ、どうしてもそのこだわりの強さから、他の同僚より仕事が遅れる。会社というのはグループ作業の部分がありますし、納期が守れるのも重要です。それで同じ部署の奴から疎まれていた所がありました。私は昭和生まれの古い人間ですから、同じ職場の仲間同士、仲良くやって欲しかったし、グループとしての協調性を求める部分もあって、ほどほどでいいから納期をまず考えて欲しいとも言いました。彼は、自分が残業してでも間に合わせるから、ちゃんと満足するまでやらせて欲しいと訴えました」
「…………」
「体を壊すまで頑張ってもしょうがないから、ある程度の妥協点は作れ、とアドバイスはしたんですが、『人より少し時間がかかっても、中途半端な仕事をするのは嫌だから』と言われると、こちらも遅くまで残業してないでさっさと帰れとは言えませんでした。私がもっと強く言っていれば、限界まで無理をさせずに済んだのかも知れないと思うと後悔してもしきれません……」
美佐緒さんは諦めたような顔で首を横に振った。
「……本当は、薄々分かってましたのかも知れません。あの子、昔から要領悪いというか、自分がこうって思ったら曲げないところがあって」
美佐緒さんが涙を拭うと、山本さんを立ち上がらせ、深々とお辞儀をした。
「私、弟は悪くない、だから誰かが悪いんだって思いたかった。でも、私が何の責任もないなんて言えないから、山本さんを勝手に敵みたいに思って敵討ちしよう、なんて。本当にこちらこそ、すみませんでした」
「……恋人と別れたのも、嫌いになったんじゃなくて、もし警察に捕まったりすれば迷惑かかると思ったからなんじゃないんですか?」
マスターが静かに問う。
「──あの人は、そんなことに巻き込まれていい人じゃないんです。幸せにならないといけない人なんです」
「……あの、山本さん」
私はそっと悲痛な顔をしている山本さんに声をかけた。
「美佐緒さんを訴えますか? やろうとしたことを考えると、傷害……下手すると殺人未遂ってことになると思うんですが」
「いいえ。別に何もなかったですし。それに、守るべき妻子がいるので簡単には死ねないですが、入院して済む程度なら飲んでも構いませんでした」
「入院で済むかどうかはその人次第だからやめといた方がいいわ」
マスターが慌てたように口を挟んだ。
「でもそれではお詫びのしようが……」
美佐緒さんが山本さんに訴えかける。
「被害者側が何もなかったって言ってるんだから、もうお終いでいいじゃない。それに、お姉さんが弟さんの骨拾わないでどうするのよ」
「お姉さん──もし気になるようでしたら私から一つお願いが」
山本さんが手を挙げた。
「出来たら、恋人さんともう一度話をして下さい。久松君は悲しい結末になりましたが、お姉さんまで幸せを諦めるべきじゃない。少なくとも久松君は絶対に望んではいないはずです」
「山本さん……ありがとうございます……」
顔をくしゃくしゃにして何度も頭を下げる美佐緒さんに、私は決意をした。
葬儀から一週間近く経った日曜日、私は改めて話があるとぱんどらに美佐緒さんを誘った。あれから改めて恋人と話をして、好きな人が出来たなんて信じられる筈もなく、弟さんの葬儀が終わるまでは待ってるつもりだった、という恋人と無事よりを戻せたそうで、初めて会った時よりずっといい笑顔を見せた。
私は正直に弟さんとの付き合いは嘘であったことを謝罪した。ただそれには事情があることを告げ、自身の家系のことも伝えた。初めは「何故……?」とキョトンとした顔をしていた美佐緒さんだが、ここにたまたま久松佑介さんが霊として存在しているのだという話をすると、今まで祖母と何度も受けた記憶がある、信じたい気持ちはあるが胡散臭いといった目つきに変わった。
「別に霊感商法とかする訳ではないですし、私自身は、別に信じて貰えなくても構わないです。ただ、佑介さんの気持ちは伝えたいと思って。ですが、最初から信じて貰えた方が話が早いので、何か佑介さんと美佐緒さんしか知らない内容か、私が知りえない内容の話というのがありますか? ご本人に確認しますので」
黙ったまま少し考えていた美佐緒さんが、それなら三つ、と話し出した。
「一つ。私が一度だけ佑介を強く叱った事があるの。その理由は何?
二つ。私が保管している父と母の形見は?
三つ。佑介が大学時代付き合っていた女性の名前は?」
私は美佐緒さんの真横で心配そうに立っている久松さんを見た。
『一つ目は、小学校四年の時に、同級生の女の子を突き飛ばして額に怪我をさせた時。
二つ目は、父さんが腕時計で母さんが結婚指輪。
三つ目は、記憶が少し薄れてて……さ、さ、さつき。そう平岩さつき!』
私は久松さんから聞いた話を繰り返す。信じられないという驚きを見せたまま、美佐緒さんは目を潤ませた。
「本当に……ここに、佑介がいるの? ああ、なんで私に霊を見る力とか話せる力がなかったのかしら」
「良いことばかりでもないですから、見えない方がいいと思いますよ」
私はそう言うと、美佐緒さんへの伝言を伝えた。
「久松さんは、まず恋人とよりを戻してくれて本当に嬉しいと。あの人にしか姉さんを頼める人はいないから、と」
「佑介……」
「それと、会社のせいじゃなくて、自分の方に問題が多々あったんだから、と。自分で勝手に忙しくして、自分で勝手にストレス溜めたせいでの暴挙だったし、会社にも、当然姉さんにも恨みなんかないから、と言ってます。ずっと社会に出るまで面倒見させて最後も後始末任せちゃってごめんね、と」
美佐緒さんは黙ってただ泣いており、久松さんはオロオロと美佐緒さんの周りを回っていた。
「最後に、今までありがとう、それとずっと気にしているみたいだけど、別にダイエットとかしなくても姉さん可愛いから安心して。内緒にしてって言われてたけど、雄一郎さん、脇腹をもにゅっとつまむの好きなんだってさ。──以上です」
「あの子本当に……ばっかじゃないの、もう」
泣き笑いのような表情を浮かべた美佐緒さんは、「円谷さん、弟は……佑介はずっとここにいるのかしら?」と聞いて来た。
「実は、お姉さんの心配という憂いがなくなったせいなのか、久松さんの影が日々薄くなってまして。どのぐらいかかるか分かりませんが、いずれ輪廻の輪に入れるのかも知れないですね」
「……自分の命を粗末にしたんだから、きっと時間がかかるわよね」
「どんな亡くなり方をしても、亡くなってしまえば皆無垢な魂なので、関係ないよ、と。──これは祖母の受け売りですけども」
「そう。……ありがとう円谷さん」
美佐緒さんは立ち上がると、周りを見ながら声を上げた。
「佑介、上手いこと輪廻転生出来たら、また会いましょう。何なら私の子供に生まれて来てもいいわよ。先に逝ったペナルティーで、今度は私の老後の面倒しっかり見て貰うから!」
じゃ、と笑顔を見せた美佐緒さんは、マスターにも頭を下げて帰って行った。久松さんは泣きっぱなしである。
「本当にお疲れ様ね小春ちゃん、ブレンド飲む?」
「ありがたく頂きます」
ひっそり邪魔にならないように隅で大人しくしていたジバティーさんたちも、最後はもらい泣きして『良かったねえ』と久松さんの肩を叩いたりして喜びを分かち合っていた。
それから十日ほど経った頃には、久松さんの姿は私でも認識出来なくなった。単に店から消えただけなのか、成仏して輪廻する方向へ向かったのかは不明だったが、個人的には美佐緒さんの子供に生まれ変わってくれたらいいなあ、と思うのであった。
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