身代わりの薬

猫助

身代わりの薬

 それは、ひどく小さいのに僕の生活の大部分を支配していたように思う。

 いつの頃からか、僕は薬無しでは普通の生活が送れなくなった。ここで言う「普通の生活」とは学生としての生活、例えば「教室で授業を受ける」だとか「人前で発表する」とか「みんなと登下校する」ってことで、こういうものが一切素面じゃできなくなった。きっかけはもう分からない。多分、他に人がいることに異常なほど気負いやすい性質なんだろう。一人でいる時や周りの視線を気にしなくて良い時はなんともないのに、それが親しい友人であっても、隣に人がいるだけで症状が出る。病院でも「精神的なもので、気にしないことが一番だ」と言われたが、それができたらこんなに苦労はしていない訳で。その後自分なりに民間療法を試したりお呪いのようなものを色々とやってみたが、症状が落ち着くことはなかった。だから、その薬を見つけたのは本当に偶然だったこともあって、何度振り返っても運が良かったとしか思えなかった。

 大きさは洋菓子で使われる飾りの銀の球体よりも小さく、色は見たことのない緑で、値段は言うほど高くない。そして、どこの薬屋でも買える。何より飲み始めた当日から効果を感じた。僕はその薬のおかげで平穏な学生生活を送ることができた、お終い、となれば良かったのだが。

 服用し始めて数年が経ち、僕は大学生となった。親元を離れ学業と内職を両立させる日々に知らず知らず疲れたのか、症状が重くなり薬の量も増えた。ちょっとした苦学生のような生活の中にありながらもそれほどの負担ではないはずのその薬が、やがて僕の中で大きな存在感を放ち始めた。ありとあらゆる苦痛がこの薬に由来しているような気がして不気味なのに服薬を止めることはできない。薬を変える気も起こらない。薬の効果に安心して三歩進んでは、不安で三歩下がる。その繰り返しだった。だが、ただでさえ気遣ってくれている周囲にそれを言うことは憚られた。新しい緊張に苛まれながらも何とか毎日をやり過ごす。「墨田」と出会ったのは、そんな生活が一年と少し続いたある日のことだ。

 学年合同授業で僕の右隣に座った墨田は医学部学生らしく賢そうな横顔をしていた。それがふいに歪んだことに気がついたのは僕の左隣に陣取っていた友人で、その原因は僕だった。

 「あ、ああ。悪かった。すぐ仕舞うから。」

 飲んでいた薬は漢方薬も混ざっていたからか、独特で強い匂いがして、開封の時は周りに気をつけていたのだ。が、その時は事情をよく知る学友といたので気が緩んでいた。肘で小突かれ咄嗟に状況を察した僕は墨田に謝罪を入れた。

 「いや、別に。」

 そこに返ってきた言葉は素っ気なかったが、確かに気にしてはいないようだった。少なくとも、僕はそう感じた。だから、墨田に呼び出された時はまさかその薬のことを言われるとは思いも寄らなかった。それは合同授業から三日と経っていない日のことで、僕と墨田がどういう会話を交わした結果なのかは余りよく覚えていないが、何はともあれ大学横の小さな公園にあった色褪せた遊具に並んで腰を下ろしたのだった。

 開口一番に墨田は服薬を止めるよう言ってきた。不安を見抜かれたことに動揺しつつもそれは無理だと言いかけると、一先ず話を聞いて欲しいと遮り、そのまま言葉を重ねてきた。


 墨田は地元でも評判の医者一族の生まれで、物心つく前から医者としての将来が期待されていたという。墨田はそのことに特に不満もなく、言われるがまま勉学に励み同じような境遇の子どもたちと毎日を過ごした。しかし、墨田の年子の兄は違った。長男として律されることに納得し墨田と切磋琢磨することに喜びを感じていたはずが、いつの間にかそれらが不満と緊張と行き場のない怒りで塗り替えられた。恐ろしいことに、理性はそのままで。墨田の兄の心は静かに外側から剥がれ落ち続け、やがて重い症状が現れた。


 「兄は気負いやすくて落ち込みがちだった。きっと、良くないものも背負ってしまったんだ。」

 そう分析する墨田の目には陰りがあって、当時の苦労のようなものが今にも流れ出てくるようだった。


 墨田の両親は大分早くその薬に辿り着き、墨田の兄も「症状に悩みたくない」と進んで服薬した。そこからは僕と同じように、今までが信じられないほどの効果を感じ、薬無しの生活が考えられなくなったと言っていたという。これで全て解決、お終い、となれば良かった。

 

 「意識が朦朧とした、というのが最初の訴えだった。やがて全身の脱力感、離人感、浮遊感を訴えてきて、両親は薬を飲むのを止めるよう言った。あの薬にはそんな症状が出る要素はないはずだった。けど、」

 「これを飲まないともっと怖い。」そう主張して何年も薬を飲み続けたという。もしかしたら、そんな症状が出る前から薬に対して思うところはあったのかもしれない。だが、薬を変えようとかそういう気は起こらなかっただろう。何故かって、今の僕がそうだからだ。これさえ飲んでおけば症状は出ない。だから何があっても飲む。そんなある種の怠惰と安心感が首をもたげて佇んでいるのだ。

 墨田の話は未来の自分の話でもあると本能的に感じた僕は、面識がない墨田の兄とすっかり精神を共有しているような気になっていた。


 見かねた墨田が兄をよく気に掛けるようになると、何故か墨田自身が同じ症状に悩まされるようになった。兄を見ていた墨田は決して飲まないと心に決めていたが幾度となく手が伸びた。最早時間の問題だった。結局、飲むことはなかったが、それは墨田の兄の死と同時に墨田自身の症状が無くなったからだった。もう少し症状が出ていればどうなっていたか分からなかった。

 医者一族から死者、しかもそれが第一継承者だとなれば、昔ながらの価値観を持つ墨田の一族が隠蔽するのは当然のことで、墨田の兄の死因は未だ不明だという。やがて誰ともなくあの薬のせいだと囁かれ、元々長男が死亡した気まずさを勝手に感じていた家族により、墨田は亡き墨田の兄として生きることを求められた。そうして墨田家では弟が死に、兄が生き返り、今に至る。


 「つまり、君は」

 「そうだよ。墨田弟、さ。」

 今は亡き男の代わりとして生きる墨田、いや、墨田弟はそう言って僕を見た。

 「別に後悔もなにもしていない。ただ、俺が思うに、アレは『身代わりの病』だ。気負いやすいっていうのは、人の悪いものも吸い込みやすいんだろう。だからあの病に罹患しやすい。弟を兄にしたように、死者を生者にしたように、誰かの悪鬼だとかそういうものを背負って誰かの身代わりになってしまうのだ。薬はそれを抑えているに過ぎず、限界を超えれば効かなくなるのだ。言うならば、あの薬も患者の『身代わり』を少しの間だけどしているのだよ。本当に少しの間、ね。」

 だから止めな、間に合う内に。

 そう言うと、満足した様子で墨田弟は立ち上がった。そのまま出口へ向かう広い背中に、僕は小さな疑問を投げかけた。どうして僕にそんな話をしたのか、と。

 「知って欲しかったからだよ。『墨田』という生きた弟がいたことを。それに、俺は名無しで人を助けられるほどカッコイイ人間じゃないからさ。」

 僕の質問に少しズレた返答をした墨田の声は、全てを受け入れたような、どこかスッキリとした様子で、それだけが頭に残った。




 墨田という学生が退学したと風の噂で聞いてから数ヶ月後。僕は薬がいらないほど症状が落ち着いた理由と、墨田弟の残した言葉の真意を理解することになった。

 鼻をついたのは、あの漢方薬の独特で強い匂い。大きさは洋菓子で使われる飾りの銀の球体よりも小さく、色は見たことのない緑。

 僕は目の前にいる、その薬を飲む学生に声を掛けた。

 「誰かの悪鬼だとかそういうものを背負って誰かの身代わりになってしまうのだ。」

 「俺は名無しで人を助けられるほどカッコイイ人間じゃない。」

 果たして、身代わりはどこまで続くのだろうか。墨田弟の言葉が、脳内で僕の言葉として蘇った。

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