第39話「迷子の白い子・参拾捌」

晴明は言葉が出なかった。

人間とはこうも残酷だったろうかと、ただそれだけを脳内で自問自答していた。

彼らにとっては玩具だったのかもしれない。


だが、この人物は。

この子は。

天海の大切な、たからものなのだ。

命と同価値の、たからものなのだ。

いくら金を積まれても売ることも買うことも出来ない

世界で一番大切な、たからもの。

天海の大事な大事な「弟」なのだ。


もしも自分が、自分の大切なものが、こんな風に扱われているのを見たとしたらどうだろうか。相手を殺してしまいたくなる程に激昂するだろう。

自分の信頼する者の大切な人が、目の前で無残な姿で痛ぶられているのを許せない、現状と同様に。


生きていても、そして、死んでいる今も。

「この、…外道ども、…!!笑うのをやめろ!!その子に近寄るな!!」

祐天を抱き締めたままの晴明が首を回して、聞こえるはずのない怒号を女と男へ飛ばす。


「晴明、弟は死んでるよ」


天海の声がして、晴明の肩が跳ねた。

語尾の震えた、押し殺した声。


「弟は死んでる。だからもうここにはいない」


晴明は言葉を返せず、ゆっくり顔を上げた。

天海が晴明の傍まで歩み寄って来ていたのだ。

そして祐天の背中から腕を伸ばした。

祐天を抱き締めたままの晴明の肩に天海の掌が乗る。

そして目を伏せて再び紡ぐ。


「弟は死んでる。俺は、あの時、この事実だけ、思い出した」

どこで、どう死んでいるかは思い出せなかったが、今記憶が繋がったのだと、何とか絞り出した声音で告げた。


天海は、目を伏せたままで、見なければならないのに、見ることが出来ない現状に葛藤している様だった。

 

晴明は、肩に置かれた天海の手を握りしめると、離し、最後にもう一度「白い子」の亡骸に触れた。

容易い言葉では言い表せはしないだろう。

しかし、彼は「一生懸命に頑張った」のだと、晴明はそう確信をしていた。

祐天にするように、天海にしたように、その額部分であろう箇所を、掌で撫でた。


「よく、…頑張ったな、怖かっただろう?天国には、もう怖い輩は、いないから、だから、今度こそ、…」

幸せに、それ以上は言葉が見つからなかった。

本当は、兄と幸せに生きたかっただろう、そう思ったからだ。


晴明は立ち上がり、天海と祐天を片腕を広げて囲うようにしながら、出入口付近の壁際まで下がった。

壁を背に、天海が座り込むと、しがみついた祐天も膝を付いた。

互いに肩に額を預け、見ないようにしている。

晴明は、女と男が居る方向に背を向け、衝立になるように膝を付いた。


「部屋を出よう。壊れても構わん。始末書は私が書く」

「………大丈夫。もうどうにもならないことだから、」

「それでも、あんまりだ。こんな、」

晴明が言葉に詰まり、口を引き結んだ。


遠くから下卑た笑い声と罵声と高笑い、またカメラのシャッター音が聞こえて来る。それを遮る様に、天海が呟きを零し始めた。


「……俺は、多分だけど、愛人を頼りに調べて来たんだ。一年近く探した、と思う。警察に相談もした、けど、家族の中のことだろうって結局うやむやにされて、警察も動いてくれねえのかよって思ったら……自力で探し出して連れ帰るしか他に方法なんか無いと思った。時間は思い出せねえけど、夜だった。携帯を電灯代わりにしてたのは覚えてる。一階は真っ暗だったけど、エントランスだったから、閉じ込めてるなら部屋だろうと思って、車の屋根に乗って二階のベランダに昇ったんだ。車用の工具で窓壊して中に入った。部屋の内側から鍵を開けて、廊下に出たら警報音が鳴ってた。エレベーターを使うと停められたら出られなくなると思って、階段を探したけど無くてさ。オートロックで出て来た部屋には戻れないし、他の部屋にも入れなくて。だから、廊下の行き止まりにある小窓を割って、もう一回外に出て、ベランダを伝ってニ階の端の部屋から探すことにしたんだ。携帯の灯を頼りに、一部屋ずつ確かめたんだ。それで、ここで、…………これを見た」

殴られたりしてるかもしれないとは、思っていたと天海は薄く笑みを見せた。

淡々と俯いたまま天海が言葉を紡ぐ。


でもまさかさ、もう殺されてる後だったなんてさ、俺は————、


その先は言葉にならなかった。


「その後がまだ曖昧なんだけど、そこから、車まで戻ったんだ。そんで、車の中で何かをしたことは覚えてるんだけど…何をしたかが思い出せない。その後に、あの山道へ向かったんだ。この辺の地理には詳しく無いから、山道は初めて行ったと、思う。それで、俺は、……自分から崖に車ごと落ちた。ただ下むいて、眼を閉じて、ハンドルに腕かけて固定して、アクセルだけ踏んで。そのまま、……俺は、多分、死にたくて、死んだんだ」


「……、女は地獄へ落とす。だがもう一人の方は、命令が無い限り何もできん。すまない」


「晴明が謝ることじゃねえよ。……本当にさ、生きてると親子って言うだけで、連れて行けるんだよな。俺が帰りが遅かった日に、弟が連れてかれたんだ。アパートに帰って来たら居なくなってて。ドアの鍵が壊されてる時点で誘拐なんだよ、俺からしたら。焦って隣に住んでる人に聞いたら、スーツ着た男が何人か来て、鍵壊したり、悲鳴聞いたりしたから、警察を呼んだんだけど、……親が障害児を病院に連れて行く所なんだけど、嫌がって暴れているだけだって説明されて、それ聞いた警察はああそうですかで帰ったって。そりゃ、親だって証拠ならいくらでもあるんだからさ、連れて行けるよな。役所にも、名前にも。特に弟は病気があったから、どの書類にも、最終的には親の名前の記載がいるもんばっかりだからさ、親子の証拠ならいくらでもあるよ。縁切るなんて結局は、…出来る訳無いんだもんな」


天海は祐天の背中を掴む指先に力を込めた。

そうしていないと、自分がどこかへ行ってしまいそうだった。


「……連れていかれる前に、中学校の子供の話を、俺は聞いてたんだ。十人くらいで仕事に行ってたから、みんなで協力したんだって。でも悪いことだったら困るからって俺に詳しく話をしてくれて。そんで、ちょっと心配になったから施設に連絡したんだ。そしたら褒められてたんだ、虐待で命を落とすかもしれない案件だったのを、みんなで協力して防いだって、お陰で児相も動き安くなったし、教師も陰でフォローしやすくなったって、だから悪いことなんてしていないんだって言われて。俺はさあ、嬉しかったんだよ。人に嫌がらせばっかされて生きて来たのに、人を思いやれる大人になってくれたんだなあって。それがまさか父親に繋がるもんだったとは思わなくて。……出来る限り実家から遠い地区に住んでたんだけどさ。県外に、もっと遠くに逃げられる金があれば良かったんだけど、無理でさ、必死に稼いでも、父親の足元にも及ば無くて」


晴明は何も言えず、ただ天海の声を聞いていた。

戦慄いた声。

悲しくて、哀しい。


「あの日、何度も何度も人工呼吸の手順思い出して、繰り返して、何度も何度も名前を呼んだんだ。それから、縋り付いて散々泣いたからさ。もう、俺は」

「…………、」


「俺は、弟が死んでること知ってるんだ」


晴明は、奥歯を噛んだ。

言葉にならない。


「この、生きてた世界じゃあさ。当たり前は親とか、その女とかの基準なんだ。俺が欲しかった当たり前は、その基準に当て嵌まって無かった。……当て嵌めて貰えなかった。生きてる頃は当て嵌めて欲しかった。でも、それで良かったんだって今になって思ってる。俺はそいつらと一緒になるくらいなら、異常者で良い。頭がおかしい人間で構わない。そいつらが普通なんだったら、俺は普通になんかならなくて構わない、弟を普通と呼ばなくて構わない。人を傷付けることが楽しみで生きてる奴らが勝ち組で、普通だって言うなら、俺と弟は異常で不適合で負け組で構わない。そいつらと一緒になりたくない……っ」


一層強くしがみ付かれた祐天が顔を上げた。

そして口を何とか動かした。

「俺は、天海とおんなじ、で、いたい。あの人達、みたいに、なるのは……嫌だ。俺は、天海と一緒が、いい、」

震えた声が何とか最後まで言葉を紡いだ。


「……天海、私も祐天と同じに、貴様と弟の考え方や生き方に賛同する」



甲高い女の笑い声が耳鳴りの様に響いていた。

その空間の中で、切り取られたように晴明が囲った腕の中は絶望と救いが、ない混ぜになっていた。


「……ありがとう、祐天、晴明…、」


「……天海、私は、……もしかしたら、何とか、弟を逃すことが出来る隙が、あるかもしれないと、そう、思って、いた。始末書を書いても構わんから、窓も扉も破壊して、逃すことばかり、……、」

晴明が水が落ちるようにポツリと呟きを落とす。


「生きてることを信じててくれて、俺は嬉しいよ。ごめんな言わないでいて」

「いいや……、お前の方が辛かったな、天海、…」


抱きしめられている祐天の嗚咽が聞こえた。

雨の様に、涙が散った。


「ひとごろし」


祐天が呟く。

涙が落ちた。


女が笑いながら、もう動かない「白い子」を嘲笑う。

男が笑いながら、もう息をしていない「白い子」に罵声を浴びせる。


「ありがとう祐天。もう泣かんでいいから」

「ひと、ごろし、……ひ、と、ごろし、返せ、ひとごろ、し、か、えせ、俺の、だいじな、」

「祐天……頼むから、もう、泣かんでよ」

天海の必死に耐えた涙まじりの声が、祐天の嗚咽と混ざり合った。


「悲しい時、苦しい時、泣いても良いんだ、天海。今、言葉にならないくらいに苦しいだろう?何も、私には救える術が無い。何にも傷付いて欲しくなくて、親になると言ったのに、…何もできない。だから、せめて、こうして抱き寄せて、囲っておく。せめてその気持ちに寄り添えるように。だから、」

大きな声で泣いても良い。

どれだけ悲しくて苦しいのか、教えてくれ。

どれだけ悔やんでいるのか、教えてくれ。

どんなに大切だったかを、大声で叫んでくれ。


神様に届く様に。


晴明の言葉が溶けると、天海は弾かれたように晴明を見つめた。

その両眼から、ゆっくりと涙の海が沸いて来る。


晴明が片腕で囲った暖かな空間の中で、天海は声を上げて、全ての悲しみを吐き出す様に泣いた。何度も何度も「護れなくてごめんな」と、「お前を護りたかった」と、そう叫び声を上げて。



◇続

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