第38話「迷子の白い子・参拾漆」
晴明の揺れる服の袖を片手で握り締め、立ち尽くす祐天の前で、沙梨真と男は誰かに罵声と嘲笑を浴びせる。汚いからとの理由で、触れることはせず、言葉と足蹴りのみで責め立てた。
罵声と笑い声が響く。
女は携帯を取り出し、写真を撮った。
男が罵声を飛ばし、何かを蹴り飛ばす度に、笑い声を上げながらシャッター音を響かせた。
人殺し。
また祐天が呟いた。
晴明は、そっと前に進み出た。服の袖を掴んでいる祐天も一緒に前へと歩みを進める。
女と男の目先、正確には足元。
晴明が片膝を折って屈む。
横たわる白髪の全裸の人の形がそこにあった。
晴明は、その形を呆然と見つめた。
白髪の髪が引きちぎられた様に周囲に散乱している。
その塊は身動ぎもしない。
常夜灯に照らされた身体は変色し、かろうじて人の形を保っている状態だった。
落ち窪んだ両眼があったであろう部位、こけた頬であろう部位、損傷が激しく見ただけでは、ただの人の型をした塊だ。会話を聞いていなければ人だということすら不明であった可能性の方が高かった。
身体と床、ベットの上のシーツには赤黒いものがあちこち飛び散っている。
下半身部分のフローリングに大量の赤黒い跡があり、常夜灯でも分かるくらいに変色していた。
首には犬用の首輪があり、太い鎖でベッドの足に繋がれていた。
首輪の周囲は一層真っ黒に変色し、今にも千切れてしまいそうだった。
「…祐天、見えているか?」
震える吐息の様な晴明の声に、祐天が首を縦に揺らし、肯定の意を表した。
晴明は頭部の付近に近寄り、膝を付いた。
頼む、頼む、と胸中で何かに縋っていた。
しかし、それは叶わないことを知っていた。
眼から筋が伝っている気がした。
涙の跡だろうか、それとも血の跡だろうか。
顔は既に崩れ始めていた。
窪んだ眼、半開きなままの穴は口元だろうか。
腕であろう箇所、脚であろう箇所、どれもが床に着いている部分は、
手足の指はあらぬ方向へ曲がっている。
指先の爪は全て剥がされている様に見える。
室温十六度に設定された冷房が唸りを上げる室内で、鎖に繋がれた、全裸の「白い子」がそこに居た。
天海の世界で一番のたからものが、そこに居た。
話を聞く限り、
特徴を見る限り、
間違い無い。
父親が見えなくなっている祐天が、この子の姿は見えると頷いたのだ、天海にもこの子の姿は見えているだろう。
認めたくは無い。
だがもう、この子は。
晴明は横たわるその人物から目線を離し、笑い声を上げる二人を見上げた。
いくらなんでも気が付くだろう。
それとも自分が悪い想像をしているだけか?
瞬きをしていない。
肺が上下していない。
まるで動かない。
「……」
晴明は、無言で横たわる塊の、胸部であろう部分にそっと指先を触れさせた。
生きている人間であれば、衝撃がある筈だが、それが無い。
どの箇所に触れても、なんの衝撃も返って来ない。
薄い膜を通しての接触だが、その身体が硬直していることが知れた。
全く動かないのだ。
自分が生きていたなら、触れた時に、その体温に驚いたのではなかろうか。
心臓が動いていない。
命の鼓動が聞こえない。
きっと、深海に沈み込む様に絶望的な温度をしている。
人の死体の温度。
まるで真っ暗な空間に落とされるような、圧倒的な冷たさ。
芯から凍りついているであろうと思わせる温度。
もう二度と温まることは無いのだと言い聞かせられているような温度。
魂と切り離されたこの身体には、もう冷たさと虚無しか残っていない。
窪みの中にあるであろう眼には何も映していない。
映すことができるはずが無い。
晴明がその虚な眼を覗き込もうとした瞬間、男が横たわる人物の腰骨の辺りを蹴り飛ばした。
「寝たふりをしてれば、兄が助けに来るとでも思ってるのか?もう来ないぞ。お前の世話はもう嫌だと言っていたからな、おい起きろ。日の光でも火傷をすると言うから冷やしてやってるだろう?ほら、お前に聞きたいことがあると言う、お客さんを連れて来た。以前、随分と迷惑をかけた人だろう?今度こそちゃんと礼儀を通せ。全く誰に似たのか」
沙梨真は甲高い声で笑う。楽しくて仕方がない様で、絶え間なく笑い、嘲笑をぶつけ、携帯電話で写真を撮り続けていた。しばらくそうしていたが、携帯電話をポケットへとしまうと、男の腕に自分の腕を絡ませた。
「きっと貴方の魅力の無い奥さんに似たんじゃない?娘さんは半分は奥さんで出来てる訳だしね。ふふ、本当に嫌な目つきをしてるわよねえ。黙ってただ座ってれば、珍しい置物になったのに。余計なことをするからこうなるのよ。あら?そういえば、どの道、外へは出られないのよね?太陽の下を歩け無い、入浴も出来ない、まともに喋ることもできない、字も書け無い、あなたみたいなのを異常者っていうのよ?あのね、あなたみたいな迷惑な生物を受け入れていた施設がどこにあるのか知りたいのよ。さっさと答えて。汚いから、早く部屋に帰ってシャワーを浴びたいの。さっさと言いなさい」
男には猫撫で声を出し、足元の人物へは高慢な態度を見せる。
女にとっては自分と自分が認めたもの以外は見下して構わない存在なのだ。
横たわったままの人物は答え無い。
答えられる筈が無いことをこの二人は本当は知っているのだ。
晴明の横で、今度は沙梨真がその人物の投げ出されている手を踏みつけた。
踵で何度も何度も、笑いながら踏みつけた。
早く答えろ、と何度も言葉にし、気がすむまでその手を踏みつける。
天海は呆然と立ち尽くしていた。
祐天は晴明の無くした腕部分の袖を握ったまま動かない。
晴明は膝を付いた状態で、笑いながら暴力を振るい、カメラのシャッターを切る人間を、目の端に捉えた。
これが人か?
本当に?
自分も生きていた時はこれと同じ「人」だったのか?
人は全て平等にとはいかないことは承知している。
死人となった今も、現世での不平等さは理解している。
何にでも優劣をつけられ、それに抗いながら人は生きるのだ。
だとしても、これは?
許されることなのか?
許して良いことなのか?
人の本性はここまで残虐だったか?
この子が何をした?
助けられる者を必死に助けた末路がこれか?
兄に愛された分だけ、他人の痛みを理解しようとした結果がこれか?
そんなのはあんまりじゃないのか?
この子が救おうとした男児は、母親の腕の中で平穏を得たのに。
痛かっただろう?
怖かっただろう?
泣いただろうか?
叫んだだろうか?
兄を、天海の名を、叫んだだろうか。
いいや、この子はきっと、兄の名を呼ばなかった。
世界で一番、兄を愛しているから、きっと兄に助けを乞うことはしなかっただろう。絶命する瞬間、脳裏に浮かんだのは兄の笑顔だったに違い無い。
それまできっと耐えていた。
歯を食いしばって叫ぶのを堪え、そうして。
晴明は自分の歯が小さく鳴っていることに漸く気が付いた。
祐天がぼんやりと、また呟いた。
ひとごろし。
抑揚の無い声で、低く、小さく、消える寸前の炎の様に呟いた。
晴明は振り向いて、祐天を抱き締めた。
縋り付く祐天の手と、晴明の手。
震えているのは祐天か晴明か。
「ひとごろし」
薄暗い常夜灯に照らされた室内に、その声は刃の閃きの様に点滅した。
だが、聞こえているのは、晴明と天海だけだ。
他の人間には聞こえない。
人の姿をした怪物には聞こえない。
横たわる「白い子」にも届かない。
亡骸になった「白い子」には、もう、何も聞こえはしない。
暴力も嘲笑も。
もう何もかも。
晴明は祐天を抱き締める片腕に力を込めた。
脳内で模索していた自分の計画は全てが実行不能になってしまった。
生きているものだとしか思っていなかったのだ。
そんなことが罷り通るものかと思っていたのだ。
人をこんな残酷な方法で痛ぶるなど、ましてや絶命させるなどと。
息絶えていると分かっていて、玩具の様に足蹴にするなど。
そんなことは人として出来るはずがないのだと。
自分も天海も祐天も、元は生きていた人間だったのだと認めたく無い。
認めてしまうと同列の生き物に鳴ってしまう気がするのだ。それならば、生きていた事実ごと消してしまいたい。晴明の思考が悲鳴を上げる。
「祐天、もう…、見るな、頼むから、もう」
「…、う、ぁ…、」
堰を切った様に祐天の喉が鳴り、嗚咽が響いた。
その眼から、雨粒の様に雫が幾つも落ちた。
◇続
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