Ruin Venus 第一部

トナカイ

第一章 『ありがとう』の意味。

 ずいぶん長い間……こうして一人でいる気がする。

 何故だか、全て空しくて。

 独りでいる時間。――突き付けられた現実。

 本当に、独りに。なった事などなかったのだと。

 気づいた時には遅かった。気づいたのは……君がいなくなったあの日。

 俺はまだ……子供だったのだ。

 全て手に入って。

 ある程度思い通りにならない現実と、本気になれば何とかなる生活。

 『少年』であった日々。

 自分では。大人だと……思っていた。

 そんなもの、自己意識の錯覚でしかないと知ったのは、そう。

 永遠が存在しない事を知った日。

 幸せで……両手いっぱいに抱きしめられると思っていた、想い。

 だけど。

 あの日にはじめて気がついた。

 手に入れようともがいても……零れ落ちていくものが、どうしても存在するという現実。

 『大人』になったあの日。

 心とか、体とか。

 大人になるとは……そういうものではないということを悟らされた。

 ―――痛み。

 感覚で『知る』のだ。

 そして……幸せだった『少年』の日々が、二度と戻らぬという事も。


 ―――二年前。



「おったんじょーびおめでとー♪」

 ぱぁっ、と花でも飛び散りそうな笑顔を見せてそう言ったのは、淡い栗色の髪をセミロングに伸ばした美少女。ブラウンの瞳をにっこり笑わせて、自分より頭一つも高い少年に、満面の笑みを見せる。

「あ……サンキュ」

 やや戸惑いの色を浮かべながらも、それでも嬉しそうにして、金髪を揺らしショウが答えた。玄関扉を開けたとたん、これである。いくらいろんな意味で出来が良い、動じないなどといわれている彼でも、さすがに面食らったようだ。

 そんな様子を知ってかしらずか、美少女……聖は、早く早く、とショウをせかす。

「ははっ、めっずらしく気張っちゃったよ。食べきんないかもー」

 居間に行く途中、苦笑しながら聖がそういう。

 今日は、仕事も早いということもあり、ショウのバースデーを祝おうと聖が画策していたらしい。

「あ……」

「どぉ? がんばったっしょ」

 机の上には、二人分にしてはかなり多いだろう、手作りのバースデーケーキを筆頭に、ショウの好物からチキンまで、まるでクリスマスの如く馳走が並べられていた。

「一人で用意したのか……? 大変だっただろ」

 苦笑してショウが聖を見る。聖は、んー、と首を横に振り。

「そーでもない。なんかやってたら楽しくなっちゃって……チキンまで焼いちゃったし」

「うーん、食べきれるかどうかな……ま、がんばってみます」

「そーしてね♪」


 案の定残ってしまった食事を終えて……それでも予想よりはかなり減った……ソファーでごろごろくつろいでいるところに、手早く後片付けを終らせた聖がやってきた。

 隣を開けて、座るように目で言う。

 ちょこんと腰掛けた聖を抱きしめようと手を伸ばしたら、それより先に、珍しく聖が擦り寄ってきて。

「お?」

 手のやり場に困った。

「どうした? 珍しいな」

「んー? まあ……たまにはね」

 こつん、と頭を俺の肩口に預けて、目を閉じる聖。

「まあ……いいけどな。嬉しいし」

 ぎゅ、と、聖の肩に回した手に少し力を入れて、抱き寄せる。

 体温が心地いい。

「……ショウ君……」

 聖が、薄く目を開いて俺を見つめる。何か言いかけるように口を開いて……また閉じられる。

「聖?」

「ううん……なんでもない、ごめん。いいや…………」

 聖がまたうっすらと目を閉じかける。

 俺は、そんな聖の唇に一度、口付けて。

「言いかけてやめる、ってのはなしじゃないのか?」

 目元にもキスを落とす。

「ん……や、別にほんと、気にしないでって…………」

 頬にも繰り返す。

 もう一度唇にキスをして……今度は、ゆっくりと。

「んっ……ぁ……」

 深い口付けで漏れる吐息は、甘く、神経をくすぐる音色。

「ちょ……ショウ君っ」

 首筋に移動しはじめた俺の唇を引き離そうと、聖がもがく。

「……ダメ?」

 瞳を見つめて問い掛ける。ちょっと困ったようにして聖が。

「……ここじゃ……や……」

 可愛い仕草で呟き、首に手を回してくる。

「じゃ……ベッド行こうか」

「ん……」

 ひょい、と抱き上げると小さく頷いてくる。もう一度聖に深いキスをして。

「今日は……ずいぶんサービス良いな?」

「今日は…………特別なの」

 言って、ぎゅっと、抱きついてきた。



 照らされた道は……二本あった。


 だるい身体をベッドに投げ出したままで、少しだけ考えた。

 今……ここであたしがショウ君の傍を離れなければ……

 その道を素直に、選ぶ事が出来たなら。

 たぶんきっと……あたしは幸せだったから。

 今までが幸せで……手放すのが辛いのだろう。

 隣のショウ君が、規則正しい寝息を立てていることを確認して、あたしはそっと、ベッドを抜け出した。


 ゆっくりと……ずれてゆく道。


 ショウ君を起こさないように、そっと。

 身支度を整えた。

 ……たぶん…………ここへはもう、戻ってこれない事を知っていても。

 あたしは。


 選んだ道は、翳。


 書置きを一枚、ダイニングの机に残す。

 そのまま部屋を後にしようとして……やっぱり、一度だけ、ショウ君の眠っている部屋へ足を運んだ。

「ショウ君……」

 小さく。

 あたし自身、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、呟く。

 顔を覗き込んだら、いつもよりも全然、子供っぽい顔が覗いてた。

 ショウ君の顔にかかった髪をよけて。

 一度だけ、キスをして。

「…………大好き」

 呟く。

 はじめて知る。

 好きだと。感じるその時……涙がこぼれる事があると。

 少しだけ、目を瞑った。

 こぼれる涙を抑えるために。

 ここで……引き返すわけにはいかないから。

 部屋を出る、その時に、もう一度だけ振り返って。

「バイバイ……ショウ君…………」

 最後に、あたしが……はじめて愛した、その人の名前を口にして。

 部屋を出た。


 月明かりに照らされた道は、狂った月が抱く道。


 家を出て、夜明け前の道を、公園へ向かって歩いた。

 ことさら……ゆっくりと。

 名残惜しんでいるのはあたし。

 君が傍にいない事。

 ―――独りに、戻る事。

 愛しい、とはじめて感じた。

 皮肉な事に……消える事を決意して、君の前から姿を消す、その日に。

 身勝手な行動の、罰だろうか。

 頭上に輝く月は細く、まるで狂っているかのようで。――その痛みはまるで……嘲るような、ルナティックムーンの――制裁。

 愛しさを抱えて、あたしは…………


 それでも君から、離れていく。




 目が……覚めた。

 夜がまだ、明け始めたばかりだ。もう一眠りできる。

 自然と聖の温もりを腕が探して……冷たいベッド。

「!?」

 勢いよく振り返り、がばっと身を起こす。

 ―――いない……

 ベッドは冷たかった。時間がたってるって事だ。

 ――――まさか…………


 ――嫌な、予感がした。


 ベットから飛び降りて、部屋を飛び出す。

「聖!」

 家中探した。

「聖!?」

 地下も、二階も、全部見て。……何処にもいなくて。

 途方にくれて、ダイニングに戻ったら……はじめて、机の上の紙切れに気がついた。


 聖の、字……


 ショウ君へ

   勝手な事して……ごめんね。君がこれを読んでるのなら、

   あたしはもう、君の傍にいないでしょう。

   怒ってるかな、でもね、あたしも色々考えて……こうする事にしました。


 怒ってなんか無い。

 怒ってないから、傍にいてよ。

 聖……


   本当に、ごめんなさい……


 謝らなくていい。

 どうして謝るんだよ。

 わかんないよ。

 やだよ……


   今まで、一緒にいてくれて、ありがとう。

   嬉しかった……幸せだったよ。


 違う!

 幸せになんか、まだしたりないよ!

 まだ……俺、なんにもしてないのに……


   あたしのことなんて、覚えてなくていい。

忘れてくれていいからさ


 聖……ここにいて…………


   幸せに、なってね。


 やだよ。聖、おいてかないで。

 俺……一人で耐えられるほど、強くなんか無い。

 なあ……聖?

 なんで? どうして?

 俺、なんか気に食わない事した?

 言ってよ……わかんないよ。

 わがまま言ってくれていいし、俺のこと困らせてかまわない。

 傍に……いてくれる、それだけで……いいから…………

 愛してる。

 愛してる、聖。

 絶対、絶対にそれだけは、誰にも負けないよ。

 聖…………


   ばいばい……ショウ君。

       ――――愛してる。


「っ……!!」

 総天然色だったはずの視界が、モノトーンに変わる。

 滲んだ視界には、形あるものはなんにも、映らなかった。

 手紙も、俺自身も……聖も。




 その日から、俺が聖の行方を知ることは無かった。

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