人魚

 少年の身体が波に呑み込まれる。

 木の葉の様に、滅多矢鱈に右へ左へ奔流に弄ばれる。

 例え意識があったとしても、手も足も出ない。

 何処にいるのか、何処に向かわされているのか、上も下も分からない、まるで打ち捨てられた人形のように昏い激流に流されていた。



 その昏い海に一つの光が現われた。

 昏い海に相応しくないその眩い光は、波に翻弄される少年の身体を追いかけ、並走した。


 光は人魚だった。


 人魚は激しい波に苦心しながら少年の身体を抱き抱えると、岩礁に上がり少年を横たえた。



 少年を助けた人魚は、意識のない少年を前にして狼狽えていた。

 こんなことは初めてで、というよりもこんなに近くで人間を見るのが初めてだった。


 「どうしよう…人間に関わってはいけないと、お母様に言われているのに…」

 目を覚ます前に帰ってしまえばいいと、そのまま海に戻ろうとしたが、そういえば少年は無事なんだろうかと思い直す。

 ソロソロと少年に近づき、気がついたらどうしようと震えながら少年の口元に手をあてる。

「大変!!息してない!」

 人魚は大声を上げて更に狼狽えた。

 どうしよう、どうしよう、こういう時はどうしたらいいんだろう…

 お母様にどうしたらいいか聞きたい。

 でも駄目。

 きっと怒られる。

 人間に関わってはいけないと言われているのにどうして助けたりするのか、どうしていつもそうなのかと、眦を釣り上げてお説教されてしまうに違いない。

 お母様には聞けない。

 誰か、誰か、聞けそうな相手はいないだろうか…

 キョロキョロと辺りを見廻す。

 人魚が何をやっているのかと、魚が集まってきた。

 「ねえ、魚さん。人間が息をしていないの。私、どうしたらいいの?」

 

 

 「エラで呼吸するから、息してなくていいんだ。」

 「耳元で大きな音でも立ててみなよ。」

 「もう夜遅いからね。人間は眠いんだよ。夜に寝るものなんだ。」


 

 魚たちは好き勝手なことを言うが、どれもこれも信用出来ない。

 そもそもそんな賢いものもいない。

 人魚は人気があって、たまにしか話し掛けてこないから、こうしていい加減なことを言って、からかうのだ。

 ものを知らない人魚だって魚たちの言ってることが、何だか胡散臭いのは分かる。

 お母様みたいに賢いものはやっぱりいない、一人で何とかしないと…


 キョロキョロと辺りを見廻すと、あるものに目が止まった。

 「貝殻…」

 震える手で、それを拾う。

 人魚の血肉には、不老不死の力があるとお母様に聞いた。

 だから、人間は人魚を狙っていて、関わってはいけないのだと…

 恐る恐る貝殻を手首にあて、引いてみるが上手くいかない。何度目かでようやく血が流れた時には手首が傷だらけになっていた。

 少年の口元に血が流れる手首をあて、様子を伺ってみるが、全く反応がない。

 「やっぱり駄目なの…?」

 不老不死になるくらいだから、どうにかなるのではと思った人魚は、途方に暮れて少年を眺めた。

 ふと見ると、少年の口元から血が流れている。

 「全然飲めてなかったの?飲み込まないと駄目よね、きっと…」

 人魚はまじまじと少年を観察し、流れる血をそろそろと指で口の中に戻してみるが、元通り流れてくる。

 お腹を押したり、喉を突付いたりとやってみるが、少年の冷たい身体と、肌の白さに焦りが増すばかりだ。

 焦燥に駆られて、傷だらけの自分の手首に口をあて吸い込んだ。

 少しばかり気分が悪くなりながら、少年の口に自分の口をあて、血を流し込んだ。

 ついでとばかりに、少年の鼻も摘んでみる。

 人魚がどうにかしなきゃと慌てふためいているのを、魚たちがバシャバシャと、囃し立てる。

 人魚が何か必死になって集中しようとしていると、ちょっかいをかけて邪魔するのだ。

 嫌われているのだろうか、嫌がらせをするのは本当に止めて欲しいと、人魚はいつも辟易しているが、実際の所は人魚が初対面の人間と初めて口付けするのが気に食わないのだった。

 事情など知る由もない人魚は、こんなことで騒ぎ立ててお母様の告げ口するものがいくらでもいるだろうと、神経を逆撫でするギャラリーに集中を乱されながら、何度も少年の口に血を流し込んだ。


 こくり。


 「あっ!!」

 

 少年の喉から嚥下する音が聞こえた。

 確認の為もう一度と、血を飲ませてみるがやはり小さく、こくりと飲み込む。

 もしかしたら大丈夫かもしれない…

 人魚がじっと観察していると、けほっけほっと、少年が咳込んで苦しげに蹲った。


 人魚が少年の背中を擦ってみると、やっと気付いたように、目を瞬かせる。


 「君は…?」

 少年が掠れた声で聞く。

 咳込んでいた為に眦にも、睫毛にも涙がたまる。

 その目が、人魚の顔を捉え、その下半身に向かい、さらに目を瞬かせて長い睫毛に溜まった涙を弾いた。


 「人魚…?」


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