第59話 私の身にも

 だけどこんな状況におかれながら、私の頭の中ではある光景が広がっていた。

「もうもちません、チュチュ様! 我々の魔力では到底追いつかず……!」

 ――誰の視点だろう。たくさんの人がいる。顔が真っ青になった女性達が、小さなベッドを取り囲んでいる。

 中で横たわるのは一人の赤ちゃん。その肌は真っ白で血の気が無く、今にも呼吸がかき消えてしまいそうだった。

「……“器”から夥しい量の生命力と魔力が失われています。このままだと、夜を待たずロマーナ姫はお亡くなりになるでしょう」

 聞き覚えのある声に、誰かが息を呑む。

「器自体を治すことができれば良いのですが、その為には莫大な量の魔力が必要となります。ですが、我々が治療を施している間にロマーナ姫の生命は終わりを迎えるでしょう。……打つ手がありません」

「そんな! それではあまりにもロマーナ姫が可哀想です!」

「しかし他に方法が無いのです。そして、これは決して前例の無い症例ではない」

 そうだ、この声はティカさんだ。私は今、百年前の彼女の視点からこれら光景を見ているのである。

「ごく稀にいるのです。魔力を溜め込む体質でありながら、器が不完全なまま生まれてきてしまう者が。そういった子は皆長く生きられません。残念ながら、ロマーナ姫はもう……」

「……」

「チュチュ様」

 ティカさんの視線が部屋の奥へと向けられる。暗がりから出てきた母は、私の知っている姿よりも若かった。でも髪は乱れ、頬はこけ、かなり憔悴しているように見えた。

「お辛いとは思いますが、ご決断を。せめて最期は、ロマーナ姫とご一緒の時間を……」

「いいえ、最期になんてさせない」

 だけどお母様はきっぱりと言い切った。小柄なその身のどこにそんなエネルギーが残っていたのだろう。彼女は細い足で地を踏みしめると、まっすぐな目でティカさんを見た。

「まだ方法はある。そうでしょ?」

「……まさか命の石の核を使うと? しかしチュチュ様、あれは我々の手にも余る劇物でございます。我々魔女も勿論、赤子であるロマーナ姫が耐えられるはずがありません。それどころか、どんなバケモノと化するやも……」

「膨大な魔力は、我々が間に入って魔力の量を調節すればいい。ウーミャ、鍵の用意はできている?」

「はい、人数分揃えてあります」

 ウーミャと呼ばれた輝くような美貌の女性が、十二本の鍵を差し出す。リンドウさんのお母様だ。

「まずロマーナの“器”に、十二の仮想的なドアを作る」そのうちの一本を取り出し、お母様は言う。

「それからこの鍵に私達の魔力を込めて封をすることで、命の石から流れてくる力を抑えるの。理論上はそれで器の修復に足る魔力を補えるはずよ」

「危険です。煮えたぎった油を氷の塊でどうにかしようとするようなものですよ。あまりにも無謀過ぎます」

「だけど、このまま手をこまねいてもロマーナは死んでしまう」

 お母様の手が、まだ薄い私の髪に触れた。

「……私は、この子が笑った顔すら見たことが無い。どんなことに怒って、どんなことに悲しむのか。誰を愛して、どんな景色を好きになるのか。何も、何も知らないの」

「……」

「私はこの子の未来を失いたくない。……勝手だとはわかっているわ。だけどみんなお願い。どうか、ロマーナを助けて……!」

 ……最後のほうの声は、涙に震えていた。驚いた。私は、お母様が泣いた所なんて一度も見たことが無かったから。

 しばらくティカさんは、黙ってお母様を見つめていた。けれど一つ息を吐くと、短い杖を取り出しくるりと円を描く。お母様の胸元から真っ赤な塊が浮き出てきた。

「……私達の魔力では届かずとも、深淵より来たる枷の核ならば容易にロマーナ姫の器を直せるでしょう」

 ティカさんが、赤子の私に向き直る。

「ですが、ゆめゆめ期待はなさらぬよう。命を奪われるだけならまだしも、二目と見られぬ地獄の化身に成り果てる可能性もございます」

「大丈夫よ。うちは広いから、ある程度の大きさまでなら住まわせてあげられるわ」

「もう生き延びたらそれでよろしいと。懐が深い」

「ええ。どんな姿になってもロマーナはロマーナですもの」

 お母様の指先が、私の頬をくすぐる。だけど泣く力も無い小さな私は、何の反応も返すことができなかった。

「……」

 お母様は、少しだけ寂しそうに微笑んで。

 そうして、キッと顔を上げた。

「さあ、やるわよ。皆、位置について」

「ええ、ええ、やりましょうとも。かわいいチュチュの頼みだもの」

「ねぇ、こんなにロマーナ姫は愛らしいわ。大きくなったらきっとチュチュ様に似た美人になるわよ」

「上手くいくさ。この子の成長は、我らの生きる楽しみにもなろうぞ」

「そうね。私の娘とお友達になってくれたら嬉しいのだけど」

 赤ちゃんの私の周りに、魔法使いの人たちが集まってくる。みんな色とりどりの鍵を私に掲げ、呪文を唱える。真っ赤な光が、小さな体を包んで――。


 突然私の意識は現実に引き戻された。くらりと目眩がしたのを、なんとか踏ん張って堪える。……私は、何を見たの?

 さっき見た赤が目の奥を刺す。違う、ヴィンの胸からほとばしる光だ。ああ、彼は自らを犠牲にしてムンストンを封印しようと――。


 ――自らを、犠牲にして?


 考えることができなくなっていた頭が回り出す。目に映るもの全てが遅くなったように感じる。呼吸は短くなり、心臓は早鐘のようだ。

(……そうよ、私は)

 足を踏み出す。伸ばした両手でヴィンの腕を掴む。目を見開いた彼を思い切り後ろへ引っ張り、私が前へ出た。

 鍵束を取り出す。片っ端から開ける。――やっぱりだ。段々と混ざって赤になる魔力は、放たれる側からムンストンに巻きついた鎖へと吸収されていた。

「私が行く!」

 かつて命の石の核により繕われた私の器には、鎖に呼応する魔力が残っていた。

「ムンストンと共に地獄に落ちるのは、私でいい!」

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