第56話 乾いたままの欲望が
青の鍵を施錠し、茶色の鍵を解錠する。これに宿るは引き合う力だ。魔力を行使し、離れた距離にいた先生と先生を思いっきりぶつける。耳障りな衝突音と共に飛び散る破片。金属の焦げる匂いがしたから、どこか回路を焼いたのかもしれない。
間髪入れず左から鞭に似た何かが迫る。だけど黄緑色の鍵を使おうと胸に当てた瞬間、自分の心臓が大きく鼓動した。
――やっぱり、ここが限界らしい。三本までが、私の扱える魔力の限界、
今私が使っているのは、茶色の鍵と感覚を強くする水色の鍵、そして速度を上げる黄色の鍵である。ティカさんのお陰で三本までは自在に魔力ををコントロールできるようになったけど、四本目はダメだ。命に肉薄してしまう。
「ロマーナ様!」
ヴィンの声が聞こえると同時に、私に迫る鞭の動きが止まる。先生の体が崩れ落ちた。見れば、脚の裏側の関節部が壊されている。
「まずは僕がムンストンを破壊します! ロマーナ様はトドメを!」
「分かった、やってみる!」
トドメとあらば炎の魔法が良いだろう。茶色の鍵を閉めて赤い鍵を回す。ヴィンが私の背後に回り別の先生に剣を突き刺す間、最高火力で“容れ物”を焼いた。
「ア……グァ……ゴ……」
炎の中から、赤黒い肉塊が這い出してくる。金属すら溶かす局所的な炎は、しかしその生体には無意味なものだった。あるいは、呼吸すら必要ないのかもしれない。
先生の自我は、別の容れ物に移動しようとしていた。だけどその容れ物もヴィンと私で壊してしまう。息が苦しくて咳き込んだ。考え無しに炎を使うのは良くないだろう。
闇から無数の害意が向けられている。鞭が飛んでくる。どす黒い光が肌を掠める。おぞましい粘液が降ってくる。
(いいえ、負けないわよ!)
生命が脅かされる言いようのない気持ち悪さに、私は歯を食いしばった。
(ヴィンといる私は無敵なんだから!)
着実に数は減っている。少し背が高過ぎるぐらいだった先生達の姿は、今やブクブクとした肉塊に膨れ上がっていた。よし、このままいけば……!
「ア……ガアアアアアア!!」
「ぐっ!?」
突然倒したはずの先生が起き上がり、ヴィンに掴みかかった。反射的に切り倒すも、別の方向から放たれた電撃が彼の身を貫く。
「しまっ……!」
「ヴィン!」
闇の中で崩れ落ちるヴィンに駆け寄ろうとする。だけどそんな私の行く手を塞ぐ影があった。
「ムンストン先生……!」
「いい加減にしてください、ロマーナ姫」
落ち着いた声だった。それが尚更、神経を逆撫でした。
「あなた方が何を考えているかは知りませんが……所詮、無駄なことです。どう足掻いた所で、この肉体が滅び消滅することはありえないのだから」
「いいえ、誰にだって必ず終わりは訪れる! 先生だって同じよ!」
「また根拠の無い無駄な推論を……」
「現に今だって失ってるわ!」私は身を乗り出した。
「自分の体と意識を切り取っては増やして! 全部の自分がてんでバラバラで! 本当は先生だって、一人だった時の自分がどんな人間か思い出せないんじゃない!?」
「……」
ぴたりと先生の動きが止まる。不思議に思っていると、ボコボコと側頭部から不恰好な赤黒い肉の塊が生えてきた。先生はおもむろに金属の手でそれを掴むと、ぶちりと嫌な音を立てて引きちぎった。
「ロマーナ、来なさい」落とした肉を踏み潰し、先生は何事も無かったかのように続ける。
「共に生きるのです。今なら、額を床につけ俺の血を啜れば許して差しあげましょう」
「誰が……誰がそんなことをしてまで許しを請うものですか!」
「吠える、吠える、吠える。そう、あなたはそれがいいのです。真摯の怒りこそ、私の目に映る唯一の真」
「……!」
――聞く耳を持たない。いや、届かないのだ。たとえ私がどんな言葉を吐いたとしても、先生はさっきみたいにゴミのごとく捨ててしまう。迷いを、躊躇いを、もしかしたら後悔と名付けられるかもしれない感情を。
腸が煮えくりかえった。――なんてずるい人だ。この人は、今までもそうやって自分に不都合な言葉や思考を潰してきたのだ。
床に落ちて血を流す肉の塊は、動かない。自らの肉体に戻る意志すら見せない。
「……先生は、いっぺん一つの体で全部受け止めたほうがいいわ」
悲鳴を上げて私に飛びかかってきた左側の先生二体を、緑の鍵で吹き飛ばす。速度を上げる黄色の鍵は施錠し、茶色の鍵を取り出した。
「さっき切り捨てたその部分も。他の体に残してきた自我の一部も!」
自分の出せる魔力をフルに使って、動かなくなっていた肉の塊達を操る。それら全ての引き寄せる先を、目の前の先生に定めた。
煩わしそうに先生の八本ある腕の内二本が動く。だけど、後ろから迫った剣が鮮やかに切り落とした。黄緑色の鍵によって魔力を回復したヴィンだ。
「先生――いえ、イリュラ・ムンストン!」
声を張り上げる。ヴィンが素早く倒してくれた先生の中身から、自我の肉体を引っ張り出す。
「あなた、とっても可哀想な人よ! 人を貶めて、傷つけて、肉の塊になってまで不老不死の魔法使いになって! だけど全然満足していない! そうでしょ!?」
ぼこり、と肉の塊が生まれる。即座に切り離そうとした先生だったけど、ヴィンの剣に阻まれた。
肉の塊が増えていく。ずしりと重たく彼の体を地面へと近づける。
「私には分かるわ! 今のあなたじゃ、どうやったって幸せになれない! 国を思うがままにして人を捩じ伏せて、私の手足をもぎとって側においても! あなたの欲望は、ずっとずっと乾いたままだわ!」
「……」
「あれもこれもどれもそれも! 欲しい欲しいってワガママばっかり言って迷惑かけて! あなたアレでしょ!? 手に入れた瞬間に満足してるだけで、本当は別にどれも欲しくなんてなかったんでしょ!」
醜い肉塊が熟れすぎた果実のようにいくつもぶら下がっている。先生は何か言おうとしたけど、唇にあたる部分にできた夥しい数の膿が潰れるせいでそれもできなかった。そんなあまりにも人からかけ離れたその姿に、私はふとある確信を抱く。
「……先生には、きっと宝物のように大切にしたいものなんて一つも無かったのね」
「――!」
凄まじい咆哮が私の身を襲った。でももうそんなものは怖くない。私はヴィンの壊した容れ物から最後の肉塊を引き剥がすと、ムンストンに狙いを定めた。
どこにも行き着けなかったあの人が哀れだと思った。幸福を知らない子供のようだと思った。だけどいずれにせよもう手遅れで、ここで終わりにしなければならないのである。それに、多分今この人に必要なのは……。
「さあ終わりにするわ、ムンストン!」
呼吸を整える。私を阻もうとする者は、今や誰一人としていなかった。
「ここから先は……時間をかけて、一つの体で考えなさい!」
そして私は、あらん限りの魔法と力で最後の自我をムンストンの体に叩きつけた。
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