#5 新たな軌跡

私の頬を流れたその涙は、地球の引力に逆らう事もせずゆっくりと舞い降りていく。涙が降りた先には1枚の写真が用意されていた。その写真は古びたようにボロボロで、扱い方を誤ればすぐにでも破けてしまう程に満身創痍な様相をしている。


その見た目とは裏腹に写真の中心には、屈託のない笑顔を浮かべた1人の子供が写っている。女の子にも見間違うような可愛らしい男の子だ。


私の涙は、その男の子に向けられたものだった。




春が終わり雨が続く。今日も大粒の雨が集団を成して降り注ぐ。風の気まぐれで私の部屋の窓ガラスへと導かれた雨粒達は、部屋の明かりを受け、砕け散る宝石のように7色の光を返している。


私の存在を無いものにしたあの夢を見て以来、自分の存在について考える日々が続いている。将来の夢とか、やりたい事とか、それなりに思考を巡らせてはみるが、どれも腑に落ちる答えは返って来ない。考え込んでも埒が明かない事に、多少の苛立ちを覚えつつ、私は考える事を放棄した。


やる事を失った私は、窓の外で悲しそうに項垂れている桜の木と対峙した。春を過ぎた途端、誰からも注目を浴びなくなった事がそんなにも悲しいのだろうか。だとしたら、注目を浴びること無く生きていく事の方が、余程、楽なのではないか。そんな事を問いかけてみる。もちろん、答えなど返って来ない。だけど、一つだけある事を思い出した。


あの後、彼女はどうなったのだろうか。2冊目、3冊目とまだまだ先があるようだが、どんな事が記されているのだろうか。


いてもたっても居られなくなった私は、休み時間になった小学生が校庭に駆け出していくように、高揚した気持ちを抱えながら真っ直ぐ本棚へと向かう。1冊目を手に取り、続きのページを探す。


しかし、彼女は自身の覚悟がどの様な結果を招いたのかまでは記していなかった。そんなあっさりと、歯痒い結末で終わってしまいたくない私は、最後のページまで痕跡を探す。だか、見つけられたのは裏表紙に書かれた「工藤 香奈」という名前だけだった。恐らくは彼女の名前だろう。



拍子抜けした私は、「仕方ない」と心の中で唱えつつ、1冊目と2冊目を差し替える。2冊目を手にした所で、薄れていた高揚感が再燃する。


「香奈さんの日記じゃないなら、誰が書いたんだろう。」


この疑問は直ぐに解決する。


2冊目を手にした私は、猫が自分の寝床に戻るように窓辺の椅子へと向かい、膝を抱えてノートを開く。


最初の1ページには、この2冊目を書いた人物が自身の存在を記すに至るまでの事が書いてあった。


「2012年5月18日

長谷川 拓馬 25才


オレは今は建設業で働いている。家族は息子がひとり。名前は翔太。年は5才。来年には小学校に行く。気付けばこんなに成長してるからビックリする。


この部屋に引っ越してきたら1冊のノートがあって、それを読んだ。前に住んでた高校生が書いた日記だったけど、その子も自分の事を話す相手がいなくて悩んでたみたいだった。


その子みたいになるつもりは無いけど、自分を見つめ直す良いキッカケだし、翔太が大きくなった時に小さい頃の翔太の話も残してあげられると思って、ガラじゃないけど日記を書いてみることにした。」


長谷川 拓馬という男が、この2冊目を書いたらしい。2才になる子供がいるようだが、婚約者については書かれていない。文字を書きなれていないのだろう。不揃いな言葉達が並べられている。


次のページには、彼の生い立ちが記されていた。


「オレが5才のとき、母親が死んだ。後でじいちゃんに病気だったって教えてもらった。父親はどうしようもないクズでロクに仕事もしてなかったから、オレはじいちゃんの家に引き取られた。」


いきなり重い話が綴られている。


「じいちゃんとばぁちゃんは、オレを大切にしてくれた。でも、オレが中学2年の時にじいちゃんが、次の年にはばぁちゃんが死んでしまった。その後は施設に入れられて生活していた。」


彼は幼い頃から、血族を失っているらしい。両親共に元気でいる私は、恵まれているのかもしれない。いや、間違いなく恵まれている。


「その頃からオレは、学校の不良グループとよく遊ぶようになった。毎日、施設の門限も守らずに夜中まで遊んで、友達の家に転がり込んで学校に行く、そんな生活をするようになった。


そんな生活がずっと続くと思ってたけど、そうはならなかった。半年くらいして、友達はみんな、高校受験の勉強って言って遊ばなくなった。勉強が嫌いだったオレは、高校に行く気もなかったし、1人でゲーセンに行ったりして時間を潰すようになった。」


彼は帰る場所を失い、友との時間も失っていた。私は、群れをなす羊のように、友達が高校・大学と進学するからという理由で進学してきたが、そこに目的もなければ理由もない。だから、入学と同時に目的を失い、延いては、自分の居るべき場所を見失う。


彼もまた、逸れた羊のように自分の居場所を探していたのかもしれない。


「だけど、毎日そんな事してたら、とうぜん、金が無くなる。


気付くとオレは、万引きをするようになっていた。

最初は安いお菓子だったけど、だんだん感覚がマヒしてきて、万引きするのが当たり前になっていた。

そんな時、久しぶりに友達の家に遊びに行った。そいつは元々運動できるのもあって、スイセンで高校に受かっていた。

でもオレは、昔から、そいつが運動できるのは親が金持ちだからだと思ってた。

そいつはいつも新品の道具を持ってたし、部活道具以外にも最新ゲームとか流行りの漫画全巻とか、とにかく、何でも持っていた。


そんなやつの家に行ったオレは、ユウワクに負けてしまった。そいつがトイレに行った隙にそいつの財布からお金をぬすんだ。


でも、そういう悪い事って言うのは、直ぐに見つかる。

1週間くらいして学校に呼び出しを受けた。施設の担当者と一緒に行ったのを覚えている。


その担当者が俺のために何回も頭を下げて謝っていた。それを見たオレは、「この人は何でオレのために謝れるんだろう?」って思った。


それ以来、オレは施設に帰らなくなった。」



こうして淡々と、彼の告白も含めた経歴が続く。詩織とは違うが、彼もまた、私とは違った世界観で生きていた様だ。書き並べられている事柄のどれを取っても、私の人生には到底起きえなかった出来事ばかりだ。


私にもこんな歩み方があったのだろうか。そんな事を考えながらも、私は既に彼の言葉に呑まれていた。


「そんなこんなで、いつの間にか中学を卒業。当然、高校には行かない。日雇いのバイトをしながら稼いだお金でクラブに行ったり、パチンコに行ったりする生活をしていた。やっぱり最初は、友達だったヤツらが高校で勉強している時間に、自分は安い給料でバキバキになりながら働いている事に、悔しさというかそんな感情があった。でも、それも1か月くらいしたらすぐになくなった。どうせ、勉強は嫌いだったし、学校に行っても寝てるだけになるくらいなら、自分で稼いだ金で遊んでる方が何倍もいい気がしていた。


18になって、酒を飲むようになった。そこから俺の人生はくるっていった。


まず、この頃になるとオレは、ほとんど働いていなかった。全ての事がどうでもよくなってた。

当時付き合っていた玲奈に金をせがんでは、昼はパチ屋、夜はクラブ、その後、クラブで捕まえた女と朝帰り。そんな日々を送っていた。玲奈も元々はクラブで捕まえた女だった。何回かあって、部屋で飲むようになって、いつの間にか付き合っていた。今思うと、こんな生活をしていて特定の女と付き合うのはおかしいと思う。でも、オレには玲奈と付き合う必要があった。

それは、翔太の存在だ。この時、既に玲奈のお腹の中に翔太がいた。だから、一緒に暮らしていかなければいけなかった。


こんなことを書いているけど、父親らしい事は一つもしていない。翔太が生まれる瞬間に立ち会うどころか、生まれた事すら知らなかった。そんな翔太を玲奈はキャバ嬢やりながら育てていた。」


ここまで読むと、私はあまりの苛立ちに耐え切れず、一度ノートから眼を離した。彼もこのノートの読者を憤慨させるつもりで、このような事を書いている訳ではないと思うが、それにしても酷かった。


気分転換にコーヒーを手にすると、いつの間にか雨は弱まっていることに気が付いた。


どこにもぶつける事が出来ない憤りも、雨の打つ音だけがかき消してくれる。でも今は、雨音だけでは物足りない程の胸のザワつきを感じる。私はそれを熱めのコーヒーで飲み込み、彼の話に戻る。


「でも、ある時、幼稚園から電話が来た。時間は夕方4時くらい。その電話で起きたオレは、知らない番号って事もあって、出なかった。


その日もクラブに行く予定で夕方まで寝てた。起きてカップ麺食って、出かける。今思うとホントにクズな生活。


でも、その日は違った。30分置きくらいに電話がなってた。どうせ、携帯代未払いとかそういう系だと思ったオレは、1回だけ出て、払えないって言って切ろうと思った。



夜7時くらいに、また電話がなった。

さっそく、言ってやろうと思って、タバコを消したオレは電話に出た。


「あ、今、金ないんで……」


「もしもし、ひまわり幼稚園のものですけど、お迎えは何時頃になりそうですか?」


こんな感じで、オレの予想とは違って、幼稚園からの連絡だった。


「あ、玲奈に聞いてください。」


「お母様にお電話お掛けしているのですが、お出にならないようですので、旦那様にご連絡差し上げました。」


この時のオレは、息子が行ってる幼稚園の名前も連絡先も知らなかった。全部玲奈がやってたからだ。もちろん、送り迎えも。でも、この日は、何故か玲奈が迎えに行ってなかった。」

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