蒸気怪盗デッドマン

梶倉テイク

第1話 デッドマン・アウェイクン

 闇夜に女の息遣いと靴音が響く。

 息遣いの音は激しく、靴音はヒールが石畳を叩く音で鋭く、それでいて速い。

 歴史上類を見ない繁栄のただなかにある偉大なる帝国アンテルシアの暗がりに響く音だ。走っている女の音。


 いや。いいや、違う。

 逃げている女の悲鳴だ。女があげる助けてという祈りにほかならない。

 女はただ、逃げていた。

 誰も彼もが黄金の時代と呼ぶ、世界の最先端をひた走る眠らぬ重機関都市アンテルシアには何の危険もないはずだ。


 高級帝国紙アンテルシアタイムズの朝刊にある事件は、自分たちとは無関係で、ただただ未曾有の発展の栄華を甘受する。

 そのはずだった。


 幻想や恐怖は駆逐された。暗がりを賑わせる怪人など、御伽噺の噂話。都市伝説にほかならぬ。


「なのに! なんで、なんで、どうして!」


 だが、今、女は髪を振り乱し、スカートを必死に抱え、足を動かしていた。

 何かが追ってきている。

 そして、それは人間ではない。


 彼女を追う者、それは恐怖。必死の形相で逃げなければならないものは、死そのものだ。

 女は迫り来る死から逃げている。

 誰もいない。助けを求めても、だれも。

 ここには誰もいないはずだ。


 2ブロック先の機関工場の夜行駆動音は微かだがある。共鳴塔は、共鳴筒シリンダーを回し続け、瓦斯灯は、通りを明るく照らしている。


「なんで、なんで! あんたがここにいるのよ!!」


 女の叫びが路地に響いたとき、暗闇の中から男が現れる。

 土の臭いをさせた男だ。

 ボロボロの衣服を身にまとったその男は、言葉にならない唸り声をあげている。

 生者とは思えない熱を感じさせない青ざめた身体は、虫食いされたがごとく腐敗していた。

 どうみても死んでいる。


 事実、女の認識で言えば数か月前にこの男は死んでいた。

 葬式に参列し、確かに彼の入った柩が墓穴に収められたのを女は確認している。

 そのおかげで保険金を得ることができて、欲しかった宝石やブランドのバッグなんかを買ったりした。


 だから、間違いなく目の前の男は、かつて夫だった男は死んでいなければならない。

 では、この目の前にいる男は何者なのか。

 死んでいるのに生きているかのように動くこれは、なんだ?


 わからない。

 わからないゆえに、女は逃げている。

 だが、まるで女の命を狙うように執拗に追いかけて来る様は、まさに怪人フリークス

 映画やゴシック・ロマンスのように、死から起き上がった怪物そのままに女を襲う。


「いや、いやよ! せっかく、もうすぐ幸せになれるのに!」


 どうして今更現れるのか。

 この国のすべてを司る偉大なる女王陛下マジェスティではない彼女にはなにひとつわからない。


 助けを求めても、誰も来ない。

 女の慟哭と断末魔の悲鳴が響き渡り、暗がりにはただひとつの声が残った。


「ああ、もうすぐだ」


 男の声だ。

 漆黒の中で響く声は、男のもの。

 どこか掠れたようはそれは、静かに、何かの到来を予見している。

 いいや、あるいは、待ち望んでいるのか。

 それ以上、声は響かず、動く死体も、逃げる女も一様に消え失せた――。


 ●


 ――数年前。

 世界の先端への道を歩き出した、偉大なりし女王の治める蒸気機関都市アンテルシア。

 世界を震撼させた大戦の復興が発展に変わって久しく、灰色雲と排煙と霧が覆う都市は、未曾有の進化を遂げていた。


 日の沈まぬ街。

 人々は、アンテルシアをそう呼ぶ。

 日夜、蒸気機関が稼働し続けるこの都市では、夜ですら暗がりに闇はない。


 しかし、すべてではない。

 狭く、高い建物に囲まれ、蒸気管が縦横無尽に走る路地裏は暗い。


 大人では通ることすらままならない場所もある。

 ストリートチルドレンが、人を襲うときによく利用される。

 新しいスリの形。

 黄金の世紀の副産物。


「だああ、くそ、ついてねえ!」


 今、路地裏を走る男は、そんな副産物に襲われたばかりだった。

 雨の降りしきる通りを通らず、こんな複雑に張り巡らされたパイプ屋根の裏通りを通ったせいでゴミとわずかな小銭しか入っていない財布はあえなく子供に奪われた。

 豪雨は都市に闇をもたらす。

 暗がりに潜む数多の者にとって居心地のよい暗夜ゆえに、もはや男――ジェイク・B・ドイルには子供を追う事もできない。 


「くそ、この雨のせいで! ファックだ、チキショー!」


 このアンテルシアに季節外れの豪雨が振り続いていた。

 煤で汚れた石畳を洗濯してやろうとでもいうのか、土砂降りは降り始めてから一向に止む気配がないどころか、強くなっていくばかりである。


 窓を叩く雨粒は灰色に濁り、銃の乱射のような音をさせながら地面をたたく。

 水たまりとなった雨水は都市の最果てたる下水道へと流れてゆく。

 ジェイクは、舌打ちとともに、裏通りを出て表通りへと帰還する。

 土砂降りの雨に打たれるのはほぼ同時だった。


 一瞬のうちに、びしょぬれになる。

 ぬれねずみもかくやといったものだ。

 普段ならば人でにぎわう大通りには人っ子一人いない。

 ここにいるのは、雨を気にしない自動人形か、隠れる場所もない浮浪児ばかりだ。

 食うに困った浮浪者の女が、雨に体を打ち付けながら通る男を捕まえようと躍起になっている。

 しかし、成果はない。


 当然だ。

 こんな日は、家で大人しくしているか、アーケードで買い物でもしているかだ。

 賢くあればこんな日に外出などしないが、さして賢くもないジェイクは、この場にいるただひとりの人間として豪雨の中を走る羽目になっていた。


 淡い瓦斯灯ガスとうの光では、一寸先も闇しかない。

 そんな中を子供に財布をスラれ踏んだり蹴ったりだ。


 心情として、もうさっさと帰りたいしそうしている。

 暖かくはないが雨風はしのげる我が家へと帰るべく、ジェイクは急いでいた。

 だから、ジェイクは道端に倒れている何かに気がつかなかった。

 当然のようにジェイクは足を引っかけた。


「げぇ!?」


 雨と風のおかげで、バランスなぞとれるはずもなく。そのまますっ転ぶ。


「最悪だ……ったく、なんだこんなところにごみをすてたやつは」


 悪態をつきながら、足を引っかけた原因を見ると、ボロボロの布をひっかぶった何者かがそこにいた。

 物取りか、あるいは闇夜の怪人にでもやられたか。こんな夜にはよくある話だ。

 見た限り全身血塗れでずぶ濡れだ。

 死んだようにぴくりとも動かない。


 ならば、何か金目のものでも探ってやろうかとなどと欲が出てくる。

 スッ転ばされた借りを返してもらうというわけだ。


「女……? いや、男か」


 ボロボロの布をとってやると女と見まがうほどに端正な顔が出て来た。

 そこらの高級娼婦でもこんな奴はいないというレベルの美貌であり、目を開けて笑顔を浮かれば、何人も虜になったことだろう。

 ただ右目付近にまっすぐ走った傷だけが、その容貌を損なっているのだけが残念なところだった。


「ま、死んでるなら関係ないわな。さて、金目のものはっと……」


 そんな欲を出したのが悪かった。

 死んでいると思っていた何者かが実はまだ生きていてジェイクの足をしっかりとつかんで離さないなんてことが起こるなど、想像だにしていなかった。

 尋常ではない握力に挟まれてしまえば、彼には振りほどくすべがなかった。


「うわ!? おい、こら生きてたのか。離せ。まだなにもしちゃいねえよ!」

「たすけ、て……くれ……」


 そうして呟かれた一言。助けを求める声が響いた。

 雨音よりも微かな声は、不思議とジェイクの耳にしっかりと届いてしまった。

 助けて、などという、最悪のワードが、だ。


「シット! なんて日だ! おばあちゃんの教えを破るわけにはいかんってのに!」


 聞こえてしまえば助けないわけにはいかない。

 悪態をつきながらジェイクは、男をぼろ布ごとを抱えると、来た道を戻り始めた。


 ●


 ――仕事は迅速に。

 相棒であるケインが、いつも言っている小言を聞いて、昔のことを思い出してしまった。

 仕事前にそれはいけないと思う。

 過去を振り返るなど、仕事前に縁起が悪すぎる。


「どうかしましたか?」


 不意に動きを止めたジェイクに相棒であるケインが問う。


「いいや、何でもねえよ」


 頭を振り、ジェイクはシャベルを持つ手に力を籠めて墓場へと入っていく。


「さて、やるか」


 そうしてとある墓を掘り始めた。

 少しずつではあるが、堅い土が掘り起こされ深い穴が出来上がっていく。


「最新機器を使えりゃ楽なんだがなぁ」


 黄金の時代と呼ばれる世紀に、シャベルで穴を掘るなどということをする者は少数だ。

 普通ならば、蒸気機械の類を使う。

 それらを使えば、容易く穴を掘ることができる。

 数十年前を知る者ならば、未曾有の大発展の歴史を懐かしむことだろう。


 手作業のすべてが機械にとってかわられ、より効率的になっていった。

 洗濯機関の登場により、ご婦人方が洗濯で水の冷たさや手荒れを気にすることもなくなった。

 ラジオを使えば遠くのことでも間近のことのようにわかるし、蒸気機関車に乗れば数時間のうちに隣の町や別の国にまでいけるようになる。


 だが、ジェイクは、そんな便利な時代になったというのに穴を掘る行為に蒸気ドリルの類は使わずにいた。


 ――自分の手で行う掘ること。


 それがジェイクの相棒ケインがが提唱するアナログな美学であった。

 相棒は変な奴だ。ジェイクは常々思っている。

 しかし、相棒であるケインと組んでからは仕事でより稼げるようになった。

 ならば、少しくらいは尊重することもやぶさかではないのだ。


 ただし本心としては、そんな美学ものなど糞くらえ。

 わざわざシャベルで掘らなくとも、最新機械を使えばすぐにすむことに変わりはないし、いつでも愚痴を言いながら蒸気ドリルなどの最新機械に夢をはせる。


 最新機械は良い。

 力もいらない、すぐ終わる。

 使わない手はないだろう。

 音が気になるなら、最近では駆動音の小さなものもある。


 この国、特にアンテルシアでは、そんな最新が溢れているのだから使わないやつは馬鹿だ。

 しかし、美学を大事にするジェイクの相棒のケインはそういった最新式を嫌う。

 蒸気機械を極力使わない。

 それはふたりがコンビで動くと決めた際に、ケインから提示された条件のひとつだった。


 幸いなことに最新鋭の機関を使わずとも肉体的に恵まれているジェイクにかかれば、固められた土はいともたやすく掘り起こされ、その下にあるお宝への道を開いてくれる。


 ここ重機関都市アンテルシアは、世界でも有数の最先端機関都市だ。

 世界の先端を行く機械技術と学術、狂気的な碩学らが凌ぎを削り、日々その姿を変えていく最新の巨人。

 ここは、その都市の中にある誰もが訪れる最果てだ。


 人も物も集まるこの都市そのものの終着点。

 ミッドガンド地区に存在するヴェルナー集合墓地。

 そう墓場だ。

 人が人生の最後に訪れる場所である。


 どれほど機械文明が発達しても、人の死というものは逃れられるものではない。

 幻想を排して久しく、人々が妖精や巨人、怪物、神を忘れたとしても死を敬う気持ちは失われていなかった。


 しかし、ジェイクからしたらそんなもの、やはり糞くらえだ。

 ジェイクの仕事は、墓を開き、死体を手に入れることであった。

 つまりは、死体泥棒であった。


 死体を掘り起こし、医者や碩学に売るのである。

 このアンテルシアでは、人の価値あ低いが、死体の価値は高い。

 最先端都市をさらなる発展へと推し進める実験に死体は用いられる。

 合法、非合法問わず、人体実験をするには、死体はとても良いサンプルになるのだ。


 死体ならば表立って誰も文句を言わない。

 今日の発展を黄金の鍍金と称し、鍍金の下の鉛の名として死体があげられるほどにこの都市を支えている。


 それほどまでに死体の需要は高い。ジェイクのような死体泥棒――ケイン曰く、怪盗――は大忙しだ。

 バルックホルンヤードですら、目の前で遭遇するなどといった下手な仕事さえしなければ、逮捕しない。

 盗みは罪であるが、死体はこの都市の発展に必要であると彼らもまた理解しているのだ。


「お、あったあった。へへ、ちょろい仕事だぜ」


 掘り進めているうちに棺桶へとたどり着く。

 あとはその棺を開き、中の死体を手に取って、穴を綺麗にふさぐ。


 それが出来ればジェイクの仕事は終了だ。

 死体を抱え墓地の外で車を待たせているケインの下へ戻れば、美味い酒にありつける。

 新しくできたパブに行くか、あるいは新大陸から来た酒場に行ってみるか。

 どこぞの猫探偵が広めた大衆酒処なども良いかもしれない。


 悪法、禁酒法が改定されて久しく、この都市には多くの酒が集まる。

 飽きることはない。

 浴びるほど飲んでも、なくなることはない。


「さて、今日は何に――ん?」


 今夜の酒に思いをはせ、いざ棺を開いた。

 だが――。


「なに?」


 死体は、そこにはなかった。

 確かにそこに死体があった証拠だけはそこに残っているが、死体だけが存在しない。

 持ち去れられている。

 手持ちの瓦斯灯であたりを照らしきちんと確認した。


「おいおいおい、どういうこったよ、これは!」


 だから、ここが先を越されたなどとはないはずである。

 よく見るとある痕跡を見つけた。

 ありえないからこそ見逃していた痕跡。

 まるで墓から這い出した何かが、去っていったかのような足跡があった。


「まさか自分から抜け出した? んなわけねーわな。くそが最悪だ」


 なんにせよ、今日の酒はなしということだ。

「別の墓を暴くか? いや、駄目だ」


 そんな時間はない。

 シャベルで掘り進めていた弊害だ。

 ジェイクは、舌打ちしながら穴を綺麗に埋めなおす。


 誰が見ても再度掘り起こされたなどと思わないだろう。

 穴を掘る、穴を埋める。

 昔からのジェイクの特技だ。

 穴を埋め終えたジェイクは憤然としながら墓地入り口の車へと乗り込む。


「どうでした?」


 隣のケインがキーを回し、車を出す。

 よくもまあそんな器用なことが出来るとジェイクはいつも思う。

 まあ、今夜はそれ以外にも思うことが多いのだが。


「どうもこうもない。なかった」

「なるほど。今日の稼ぎはなしですか、甲斐性なしでね」

「うるせーよ。ったく、どいつだ。俺らの縄張りで」

「さて、もしくは何かが起きているのかも」

「ケッ」


 楽しそうに言うケインには悪いが、そんなことは起きてほしくもない。


「寝る」


 ジェイクは、そういってシートを倒し、目を閉じた。

 ケインが走らせる車の音と振動が耳を打ち、眠りに落ちていった。

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