第26話 広野星行

 僕と二人だけで話をしたいということで、高瀬さんが百合香ちゃんを書斎に連れて行ってから、数分が経っていた。

 ただ場所を案内するだけにしては長いから、きっと親子二人だけで話したいこともあったんだろうと思う。

 手持ちぶさたを紛らわすために緑茶に口をつけてから、僕は喉が渇いていたことに今更ながら気づいて、一人で苦笑した。

 百合香ちゃんの父親と話すということに、かなり緊張していたらしい。 


「お待たせしました」


 それからほどなくして高瀬さんが戻ってきた。

 彼は向かいの椅子に腰掛けると、改まったように深々と頭を下げた。


「まずは、お礼が遅くなって申し訳ありません。百合香を助けてくださったこと、本当にありがとうございます」

「いえ、そんな」


 そもそも最初に百合香ちゃんに声をかけたきっかけ自体が、あまり純粋な動機によるものではなかったので、僕は思わず恐縮してしまう。


「百合香から少し話を聞きました。色々と良くしてくださったそうで」

「とんでもない。自分にできることをしただけです」

「なんでもお料理が得意だとか……毎日食事が楽しみだと言っていました」

「得意というほどでは。たまたま、僕の味つけを気に入ってくれたみたいで」


 高瀬さんは僕が謙遜していると思ったらしく、意味ありげに微笑んだ。

 自分としては全くそんなつもりはないので、恥ずかしくなってしまう。


「まだお若いのに素晴らしいことです。私は……昔から家事全般がてんで駄目でしてね、自炊もしたことがないんです。結婚してからも、掃除に料理に洗濯に……全部妻に任せきりでした。時代錯誤だと自分でも分かってはいたんですが」

「いえ……今でも、そういうご家庭はそれなりに多いと思いますよ」


 自嘲気味に話す高瀬さんに、適当なフォローを入れる。

 そういえば百合香ちゃんからは、両親が離婚する前の生活の話はほとんど聞いたことがなかったから、こうして父親である高瀬さんの口からそれが語られるのを聞くのは少し不思議な気分だった。


「私は昔から仕事人間で、家庭のことにはほとんど関わってきませんでした。百合香ともどう接すればいいか分からずに、距離を置いてしまって」

「えっ? でも、百合香ちゃんは本をよく読んでもらったと言っていましたが……」

「読み聞かせのようなことをしたのは、百合香が本当に小さな頃だけです。自分で本を読めるようになってからは、私は本を貸してあげるくらいで。そうやって本さえ与えていれば、あの子は一人で静かにしていましたから……子供と接することから逃げていたんですよ、私は。妻に愛想を尽かされて当然の、駄目な父親でした……」


 予想外の話に、僕は驚いていた。

 てっきり、百合香ちゃんはベタベタのお父さん子で、とても仲が良い家族だったのだとばかり思っていたけど……実際は、父と子の触れ合いが希薄な、そんな家庭だったのだ。

 しかし、よく考えれば離婚という結末を迎えていた時点で、そういった何かしらの原因があったと察するべきだったのかもしれない。


「実は今、新しい事業を立ち上げる準備をしていましてね」

「はあ」


 突然の話題の転換に、僕は思わず間の抜けた返事をしてしまった。


「その準備もようやく一区切りついて、今はちょうど空白期間といいますか」

「ああ……それで今日は」

「ええ、ちょっとした用事を済ませて、帰るところでした」


 なるほど、彼が平日の昼間に出歩いていた理由はそれだったのかと納得する。

 本当にタイミングが良かったらしい。


「それで、立ち上げのメンバーの一人と今、お付き合いさせて頂いてまして。事業が安定したら、再婚も考えているんです」

「それは……おめでとうございます」

「ありがとうございます。……でも、彼女が望まない限りはきっと、私はもう子供は作らないでしょうね。私は子育てには向いていないと思い知りましたから」


 そこでようやく僕は、高瀬さんが言わんとしていることに気がついた。

 彼はもう新しい人生をスタートしている。

 これから新事業を立ち上げるし、再婚も考えていて。

 おまけに、子育ては無理だと宣言している。

 つまり……百合香ちゃんを預かることはできない、と。

 遠回しにそう言っているのだ。


 普通なら、血の繋がった実の娘が大変な状況なのに何を自分勝手なことを、といきどおる場面なのかもしれないけど……

 僕は全くそういう気持ちにはなれなかった。

 そもそも既に離婚は成立していて、彼は親権を手放している。その時点で百合香ちゃんとは、言ってしまえば他人同士なのだ。

 そんな彼が百合香ちゃんを家に置いておけば、最悪の場合、未成年者誘拐の容疑で逮捕されるかもしれない。

 つまり、高瀬さんはただ血がつながっているというだけで、その立場は僕と何一つ変わらないのだ。

 新事業の立ち上げに、再婚と、どちらも面倒事を抱えるわけにはいかない状況で。

 彼が百合香ちゃんを引き取れないというのは、冷静に考えれば当然の話だった。


「あの、お話の途中ですみません」


 でも、だからこそ、僕はそこで割り込む。

 そんな昔の貴族の会話のような、遠回しの表現で済ませていい話ではないからだ。


「僕はあまり察しがいい方ではないので、具体的に言葉にして頂きたいんですが……高瀬さんは、百合香ちゃんを預かるのは難しいと考えていると……そう受け止めても差し支えありませんか?」

「……ええ。おっしゃる通りです。一日二日ならともかく、これからずっと、となるとさすがに……卑怯だと思われても仕方ありませんが」

「いえ、高瀬さんのご事情はよく分かります。その上で……どうすれば今のこの状況を解決できるか、お知恵を借りることはできませんか?」


 もう関係ないから、こっちにも事情があるから……その言い分は全く正しいけど、僕だってせっかくの機会を、はいそうですかと見逃がすわけにはいかない。

 ようやくここまで来たのだ。

 申し訳ないけど、多少強引にでも高瀬さんにはこの件に関わってもらう。


「そう……ですね。私もそういったことには詳しくないのですが……やはり児童相談所に事情を説明して、指示を仰ぐしかないのでは」

「ですが、児相で保護してもらえるのは最長で二ヶ月です。二ヶ月以内の調査で、百合香ちゃんを家庭に戻すかどうかが決まります。ちなみに虐待の相談対応の中で、児童養護施設に入る子供は三パーセント程度です。今の百合香ちゃんには虐待による外傷などはありません。本人の証言のみで、三パーセントという狭い門を抜けて児童用語施設に入れるとは、とても思えません」

「……よく、調べていらっしゃるんですね」

「出会ってからずっと、百合香ちゃんのことだけを考えてきましたから」

「ですが、他に我々にできることなんて……」

「例えば、百合香ちゃんの母親の実家に預かってもらうというのは?」

「それは難しいと思います。妻の……彼女の両親は、一人娘である彼女に非常に甘いと言いますか……娘が自分の子供を虐待していたなんて、とても信じないでしょう。仮に信じてくれて、百合香を預かってもらえたとしても、結局のところ親権は母親にありますから。法的な手段に出られたらどうしようもないと思います」

「確かに……」


 百合香ちゃんの父親に会えれば、そのコネクションでどうにかなるのではないかと淡い期待を抱いていた案も、正論であっさりと吹き飛ぶ。

 まあ、僕だってそういう想定はしていた。

 それが甘い期待だったということも理解している。

 しかし、その現実を直接叩きつけられると……やっぱり心に来るものがある。


 万策、尽きたのだろうか。


 いや、そんなことはない。

 どんな状況だって、考えることを止めない限り、道はあるはずだ。

 まっすぐに、直線で解決を目指すから大きな壁に阻まれる。

 ならば目線を変えて、回り道をする必要があるのかもしれない。


「あの、百合香ちゃんの家の住所を教えて頂くことはできませんか?」

「住所、ですか?」


 突然の僕の質問に、高瀬さんは意外そうな顔をした。


「……一応、理由を聞いても?」


 高瀬さんは少しだけ表情を固くして、僕にそう問い返す。

 離婚した相手のものとは言え、今日会ったばかりの人間に個人情報を教えるのは抵抗があるのだろう。

 いくら百合香ちゃんを保護しているからと言って、あくまでも僕は彼らとは無関係の他人なのだから、それも当然だ。


「百合香ちゃんが虐待を受けて家出をした……というのは、百合香ちゃん本人の口から語られたことが全てです。それがどれだけ正しいのか、確かめる必要があると僕は思っています」

「直接家に行って、話を聞くと?」

「はい。どんなことでもそうですが、一つのソースから得た情報だけでは全体像は掴めません。自分の目で確かめてみたら、想像とは全然違っていたなんてことはよくある話です」

「なるほど……それは、一理ありますね」

「僕の勝手な希望としては、話を聞いてみたら実は百合香ちゃんの誤解で、本当は虐待なんてなかったと……まあ、これはさすがに楽観的に過ぎるかもですが、それでも百合香ちゃんが命を脅かされていると考えるほど深刻な事態ではない、という可能性も十分にあるんじゃないかと思うんです」


 もしもその楽観的な想像が正しかったとしたら、思っていたよりもずっと簡単に決着が着く。

 新しい父親が百合香ちゃんに対して行ったことの話があまりにも具体的だったから、児童相談所への連絡は必須かもしれないけど……それでも、児相を交えて家庭に戻っても問題なしとなれば、それこそが一番良い解決になるはずだ。

 可能性がある以上、確かめなければならない。


「わかりました。そういうことならお教えします」

「ありがとうございます。……できれば、高瀬さんにもご一緒して頂ければ心強いのですが……」

「……申し訳ありません。先ほども言いましたが、今は……」

「いえ、分かっています。ダメ元で聞いてみただけですので」

「自分の娘のことなのに、無関係のはずのあなたに全てお任せすることになってしまって、本当に……」

「いいんです。お気になさらず」


 本音を言えば、多少無理をしてでも一緒に来てほしい、という気持ちではあったけど……でもまあ、下手に元夫である高瀬さんが顔を見せることで、変に話がこじれる可能性もなくはない。

 僕は高瀬さんから聞いた住所をスマホにメモして、間違いがないことを確認した。


「それで……重ねてのお願いで申し訳ないんですが、今日と明日だけ、百合香ちゃんを預かって頂けませんか?」

「……今日と明日、ですか?」

「ええ。なるべく早く行動した方がいいと思いますので。明日、さっそく行ってみようかと」


 これに関してはついさっき、「一日二日なら」百合香ちゃんを預かっても構わないという意味の言質を取ったばかりだ。

 舌の根も乾かない今なら、まず断られることはないだろうという打算があった。


「なんとも、アクティブですね……さすがお若い。ええ、構いませんよ。寝具も余分にありますし、今夜は百合香は家に泊まらせることにしましょう」

「ありがとうございます」

「いえ……本来なら、逆の立場であるべきなんですから」


 それはまあそうなんだよなあ、と心の隅で思いつつ、僕たちは席を立った。


 今日と明日は高瀬さんの家にいてもらうという話を百合香ちゃんに説明するために、高瀬さんに案内されて書斎に向かうと、そこにはソファの上で静かに寝息を立てている天使がいた。

 その安らかな寝顔を見た僕と高瀬さんは顔を見合わせて、互いに笑みを浮かべる。

 説明は、百合香ちゃんが起きてから父親にしてもらえばいいだろう。


 明日か、もしくは明後日、この家に百合香ちゃんを迎えに来た時に、晴れやかな気分でいられますようにと願いながら……

 僕は久しぶりに、一人きりで帰路についた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る