第25話 岸辺百合香
ほしゆきさんがお休みの日は、二人でお散歩に出かけるようになった。
遅くなったけど、パパの家を探すっていうのが最初の目的だったから、ようやくそこに戻ってきた感じだ。
最初に、このお散歩を提案したのはほしゆきさんだった。
もうそろそろ、この近所を出歩いても大丈夫だろうって。
私にはそのタイミングが分からなかったけど、ほしゆきさんがそう決めたなら大丈夫なんだろうと思う。
あちこち歩いてみて、私が覚えている道を辿っていく。
って言っても、かなり記憶がおぼろげだから自信はない。
そもそもこの駅で降りたのだって、合ってるかどうかわからないし。
でもほしゆきさんは、それでもいいって言ってた。
歩き回ってピンとくるところがなければ、隣の駅に行けばいいって。
のんびりしてるなあと思ったけど、私もそれには賛成だった。
今はなんだか、そんなに急いで探さなくてもいい気がしてる。
パパに会いたいのは本当だけど……今の生活も悪くない、っていうか、かなり気に入ってるから。
ほしゆきさんのおいしいご飯を食べて、可愛いトラと遊んで、物知りな友花さんとお喋りして。
前の家で毎日つらい思いをしていた時に比べれば、天国みたいだ。
よく晴れた暑い空気の中を、ほしゆきさんと二人で日傘を差しながら歩く。
目に入るもの全部が新鮮で、楽しい。
住宅街には野良猫がけっこういるから、見つけるたびに写真を撮っていると、ほしゆきさんが不思議そうな顔をしていた。
いつもトラが家に来るのに、よく飽きないねって。
私にはトラは猫に見えないからなあ……って思うけど、ほしゆきさんには言えないから、友花さんに写真を送るんだって答える。
これは別に嘘じゃないから、いいよね。
夏休みに入っているのか、歩いていると子供の声が聞こえてくることがあった。
公園で楽しそうに遊んでいるところもよく見る。
そういう時、ほんの少しだけ、心がもぞもぞする。
学校の友達と会えなくなって、どれくらい経っただろう。
また会いたい、遊びたいって思う。
でも今は……もう少しだけ我慢だ。
きっとほしゆきさんがなんとかしてくれる。
きっと全部うまくいく。
お散歩を始めてからけっこう経った。
駅の反対側を歩くようになると、当てずっぽうに歩いているようで、不思議と足が向く方向みたいなものが決まってくるのがわかった。
頭の中の、自分でも意識できないような深い部分が何かを覚えているような。
なんとなく、あ、こっちだなって思う時がある。
そうやって歩いていくと、見覚えがあるような道に出る。
そこからまた、あちこち迷うんだけど。
それでもお散歩のたびに少しずつ、ゴールに近付いていっているような気がした。
はやる気持ちと、もう少しだけこんな毎日を続けていたいと思う気持ちがふたつ、同時に心の中にあるみたいで。
私はどっちつかずの宙ぶらりんみたいな気持ちで歩くことが多くなった。
そういえば、お散歩を始めてから変な夢を見るようになった。
具体的にどんな夢かは覚えてないんだけど……
何かを思い出しそうになるけど、思い出せない。そんな居心地の悪いような夢。
何度も何度も同じ夢を見た。
そのたびに全部忘れていた。
あまりいい夢じゃない気がした。
だからきっと、思い出さなくていいんだと思った。
ある日、いつものように歩いていると、ざっと見ている景色の中にすごい違和感みたいなものを感じて、思わず立ち止まってしまった。
知らないはずの場所に、知っている人がいる。
二度見っていうやつを、本当にしてしまった。
あの横顔。あの後ろ姿。
たぶん……パパだ。
「パパ……」
私が呟くと、ほしゆきさんはいつもみたいに振り返って、それから私の顔を見て、すぐに察してくれたみたいだった。
「行こう」
どうすればいいかわからなくて固まっている私の手を引いて、ほしゆきさんはどんどん歩いていく。
パパが見つかって嬉しいはずなのに、これ以上進むのが怖いような気持ちもある。
「高瀬慎太郎さんですか?」
「ええ……そうですが」
振り返ったその人は、やっぱりパパだった。
私がほしゆきさんの後ろから顔を出すと、最初はわからなかったみたいだけど、私がパパって呼びかけるとすぐに気づいてくれた。
髪を切ってメガネをかけた効果は、けっこうあったみたいだ。
パパに名前を呼んでもらったら、それまでの怖いような気持ちは全部なくなって、嬉しい気持ちでいっぱいになった。
それから私たちは、パパの家にお邪魔することになった。
パパの家はそこからすぐ近くにあった。
本当に、ゴールまでもう少しだったんだ。
涼しい部屋の椅子に座って、冷たいお茶を飲む。
暑い中を歩き回って喉が渇いていたからおいしい。
でも、ほしゆきさんは緊張してるのか、お茶を飲むどころじゃないみたいだった。
私が家出をしてほしゆきさんと出会ったことを、順番に説明していく。
私が新しいお父さんとママにひどいことをされていた話をしたら、パパは信じられないような顔をしていた。
まあ、三人で一緒に暮らしていた時のママは、物静かで優しかったからね。
「百合香……すまないが、広野さんと二人で話したいことがあるんだ。百合香はこっちの部屋で、本でも読んでいてくれないか?」
パパが立ち上がってそう言うから、私は頷いて椅子から降りた。
私にはあまり聞かせたくない大人同士のお話っていうのもあるんだろう。
そのままパパに案内されて、本棚がたくさん並ぶ部屋に入った。
前の家でよく本を読ませてもらった、パパの部屋にそっくりだ。
っていうか、あの時の本棚ごとこっちの家に持ってきているんだから、そっくりなのは当たり前なんだけど。
懐かしくてキョロキョロしていると、パパが腰をかがめて内緒話をするみたいに顔を近づけてきた。
「百合香、あの、広野さんとは……その……」
心配するような顔と、どう言えばいいかわからないような様子を見て、私はパパが私に何を聞きたいかがなんとなくわかった。
「ほしゆきさんはいい人だよ。美容室に連れて行ってくれたし、この服だけじゃなくて色々買ってもらったし。メガネもね、一緒に作りに行ったの。自分でもわからなかったんだけど、目が悪くなっちゃってたのに気づいてくれたんだよ。それにね、料理がすごく上手くて、いつもご飯が楽しみなの」
パパはきっと、見ず知らずの男の人が私を家に連れ込んでいたことを心配しているんだろうと思った。
私がほしゆきさんに変なことをされていないか、とか。
友花さんも心配していたくらいだから、パパが心配するのはよくわかる。
だから私はパパを安心させるために、ほしゆきさんのいいところをいっぱい話す。
困っていた私を助けてくれたこと。
ご飯を作ってくれて、勉強も教えてくれて、私がちゃんと生活できるようにあれこれ頑張ってくれたこと。
「このスマホは友花さんっていう、ほしゆきさんの……彼女さんに買ってもらってね、友花さんとはお友達になったの。ほら、猫の写真とか送ったりして」
ついでに、ほしゆきさんが私に手を出すような人じゃないっていうことを強調するために友花さんの名前を出して、ちょっと盛った説明をしておく。
元彼女さんだから、完全に嘘じゃない……よね?
他にもトラのこととか、とにかく今の生活のことをたくさん話した。
私が楽しそうに話すのを聞いていたパパは、そのうち安心したみたいに笑ってくれて、私も安心した。
「そうか……いい人に助けてもらったんだな」
「うん。すごくいい人」
「そうか……よかった……本当に」
それからパパは私の頭をそっと撫でて、部屋を出ていった。
本棚の本はどれでも読んでいいって言っていたから、適当に一冊手に取って、ソファに腰掛ける。
ほしゆきさんの家のソファと違って、ふにゃふにゃの柔らかいやつだ。
紙のカバーをちょっと外して本の表紙を眺めて、それからページをめくって読み始めたけど、パパとほしゆきさんがどんな話をしているのか気になって、内容がなかなか頭に入ってこない。
ごろんと寝転がったりしながら文字の大群を眺めていると、だんだんまぶたが下がってきた。
歩いてちょっと疲れていたところに、ちょうどいい涼しさの静かな部屋、そして頭に入ってこない本。
こんなに条件を揃えられたら仕方がない。
私がそのまま眠ってしまうまで、それほど時間はかからなかった。
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