第13話 広野星行
あれは大学一年生の冬のこと。
確か十二月だったと思う。
研究室の片付けという名目のバイトを終えて帰る頃には、夜の九時を過ぎていた。
僕は当時、自転車通学をしていた。
夜の駐輪場は閑散としていて、粒の大きい砂利を踏む自分の足音だけが、やけに大きく響いていたことを覚えている。
しんと空気の張り詰めた、呼吸をする度に鼻が痛くなるほど寒い夜だった。
広い駐輪場を歩いていると、自分の足音に混じって、何か変な音が聞こえてきた。
足を止めて耳を澄ますと、それは鳥の鳴き声だと分かった。
僕の自転車に近づくほどに、声は大きくなる。
駐輪場には雨よけの簡単な屋根があるから、そこに巣でも作っているのだろう。
そう思っていたのだけれど。
近づくにつれて鳴き声は、足もとから聞こえてきた。
見ると、
生まれたてという感じではない。羽も生え揃っていて、ひと目で雀だと分かる。
僕が近付いても逃げないから、まだ飛べないのだろうなと思った。
自転車の鍵を開けて、ハンドルを押す。
ちらりと僕はまた、足もとを見た。
雀は鳴き続けている。
次に上を見上げた。
トタンでできた簡素な屋根があり、その外から照明の白い光が見えている。
そこに巣があるかどうかは、ここからでは分からない。
僕は自転車を止めて、雀を拾い上げた。
それは逃げようともせずに、僕の手の中で鳴き続けている。
僕は自転車にまたがり、コートのポケットに雀をそっと入れた。
自転車を漕ぎながら、流れる夜の街灯を見るともなしに見ていた。
不思議なことに、その時僕の頭の中は空っぽだった。
これからどうしようか、なんてことは何一つ考えていなかった。
飛べない雀が鳴いていた。
十二月の夜は寒かった。
僕はそういった外的要因に従って、自動的に動いている人形のようだった。
家に帰った僕は、そこでようやく冷静になった。
雀って何を食べるのだろう。
というか、飼うつもりなのか?
自問してみると、そんなつもりはないという回答があっさり返ってきた。
そもそもこのアパートはペット禁止だ。
じゃあどうして拾った?
一晩中あそこにいたら死ぬと思ったから。
……我ながら、あまりにも短絡的だ。
当時の僕は親の仕送りを断って、わざわざ極貧生活を送っていたから、スマホやネット環境などは当然なかった。
だから、拾った雀に対して何をどうすればいいのかも分からなかった。
なんとなくスプーンで水を飲ませて、少しでも暖かくなるように菓子箱にティッシュを敷き詰めたものに雀を入れて、それでその日はもう、寝てしまうことにした。
翌朝、僕は雀の鳴き声で目を覚ました。
いる。
生きている。
……そりゃいるに決まってる。夢じゃないんだから。
その時、初めて僕は焦った。
一晩明けてニュートラルに戻った頭の中で、今の自分には何の覚悟も用意もないことを悟った。
悩んだ末に僕は雀を箱ごと抱えて、近所のペットショップを訪ねた。
「あの、雀を拾ったんですが」
開口一番、僕がそういうと、ペットショップの主人は一瞬
「ああ……餌はすり餌をやるといいよ。七分のやつ」
「いえ、僕のアパートでは飼えないんです」
「……」
主人は、なんとも言えない表情で沈黙した。
じゃあ拾うなよとか、俺にどうしろって言うんだとか、そんなことを考えていたのだろうと今では思う。
それでも彼はそんなことは一言も口にせずに、少ししてから言った。
「すり餌代、三千円。払ってくれるなら飛ぶまで面倒見るけど」
「払います。お願いします」
僕は雀の入った箱と紙幣を三枚、カウンターの上に置いた。
金と、小さな命が、同じ台の上に乗っている。
ああ、その光景の、なんと情けなく見えたことか。
自分が今している最低な行為を客観的に突きつけられているようで、みじめな感情で胸がいっぱいになった。
見ろ。これが偽善だ。
何の責任感もなく身勝手に動物を拾って、金でその責任を他人に押し付けている。
僕はこんなことをしている自分がひどく矮小で、愚かな存在に思えた。
「君、学生さん?」
「はい」
「どこに住んでるの?」
「すぐ近くの……青空荘っていう……」
「ああ……あそこね」
それで話は全て終わりだった。
主人は雀を店の奥に運んでいき、僕は店を出て大学に向かった。
あの雀がその後どうなったのか、ちゃんと飛べたのか、それとも死んでしまったのか、今となってはもう何も分からない。
これは後で知ったことだが、基本的に鳥の雛が落ちていた場合、拾ってはいけないのだという。
巣立ちの練習をしていて、近くに親がいるのだとか。
人が保護すると、野生に帰すのが難しくなるのだとか。
色々と理由があるらしい。
つまりあの時の僕の選択は、完全に間違っていたのだ。
拾ってはいけなかった。
同情してはいけなかった。
僕がしたことは決して正しいことなんかじゃなくて、薄っぺらいエゴと無知による行動に過ぎなかった。
……でも。
今でも度々あの日のことを鮮明に思い出す。
『あの夜、僕が拾わなかったら、あの雀は死んでいただろうか』
そう自問することがある。
答えは出ない。
もう何もかもが過ぎ去った話だ。
でも。
『僕がしたことは本当に愚かな行為だったのだろうか』
言い訳のようにそう自問することもある。
無責任だったのは疑いようもない。
見ず知らずの他人に尻拭いをさせたことも、紛れもない事実だ。
その点においては、議論の余地もない。
でも。
僕の行為は果たして一つの命を救ったのか?
それとも余計なお節介で、ただ親鳥から雛を引き離しただけだったのか?
……答えはいつまでも出ない。
きっと僕は、あの時の僕の行為を精算したいのだと思う。
あの時に生まれたマイナスを、ゼロに戻したいのだ。
そのためには、落ちている雛を見つけても拾わない、というだけでは足りなくて。
救うべきものを、今度こそ責任を持って、最後まで面倒を見る。
それ以外に方法はなかったのだと思う。
あの日、僕の心に刻まれたみじめな感情は、そうでもしなければ精算できないくらいに深いものだった。
だから僕が彼女に手を差し伸べたのは、自分の過去の精算のため……だったのだろうと思う。その時はほとんど無意識だったけど。
こびりついてしまった自分に対する強烈な嫌悪感を、払拭するため。
僕は僕のために、彼女を幸福にしたいと思ったのだ。
拾ってしまったからには、最後までやる。
中途半端な気持ちではなく、自分の人生を賭けてでも。
だから、僕が今していることは誇れる行為でもなんでもない。
日本の法律に照らし合わせれば犯罪行為に該当する、ただのエゴなのだ。
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