第8話 広野星行
百合香ちゃんと暮らすようになってから、通勤時間やバイトの空き時間を使ってスマホで調べ物をすることが増えた。
当然、調べているのは百合香ちゃんに関係することで……具体的には、虐待や児童相談所、そして誘拐についてだ。
残念ながらというか、予想通りというべきか、僕が今やっていることは完全に未成年者誘拐罪にあたるらしい。
未成年である百合香ちゃんが僕の家に泊まることに同意していたとしても、その保護者が同意していなければ罪になる。
つまり僕は『親が子供を育てる権利』を侵害しているというわけだ。
百合香ちゃんの母親は子供を育てる気なんてなさそうだけど……法律ではそうなっているので、そうなってしまう。
個人的にはそんな法律は間違っている、と言いたいところだけど、まあ様々なケースがあるだろうから一概に言えない。難しいところだ。
ついでに調べてみると、どうやら離婚した本当の父親が百合香ちゃんを保護したとしても、罪になる可能性があるらしい。
つまり、今後百合香ちゃんが運良く父親を探し当てることができたとしても、問題は何も解決しないかもしれない、ということだ。
これは百合香ちゃんには言わない方がいいだろう。
現在進行系で自分が犯している罪に向き合ってばかりでは気が沈む。
前向きに考えるべく児童相談所について調べてみると、残念ながらこちらも気が沈むような結果となった。
仮に僕が児童相談所に通報すれば、百合香ちゃんは緊急的に一時保護される可能性はある。
そうなった場合、施設で暮らすことはできるが、あくまで一時保護だ。
その期間は最長で二ヶ月。
二ヶ月以内の調査で家庭に戻っても問題ないと判断されれば、百合香ちゃんは家に戻されることになる。
母親はともかく、義理の父親は百合香ちゃんの通学を禁じるくらいだから、相当に支配欲や独占欲が強いはずだ。
百合香ちゃんを取り戻すためなら、調査に対して全力で潔白を偽るだろう。
そして幸か不幸か、百合香ちゃんの体には虐待を証明するほど大きな傷はない。
唯一目立っていた膝や手の怪我も治りつつある。
虐待の決定的な証拠がなく、百合香ちゃん自身の訴えがあるだけ。これではいかにも頼りない。
さらに、虐待の通報を受けて実際に一時保護されたケースは全体の十パーセント程度、一時保護から家に戻されず施設に入った子供は三パーセント程度しかいないというデータも出てきた。
古いデータだし、ネットの情報を鵜呑みにするのも危険だけど、光明が遠ざかっていくような感覚は拭い切れない。
手詰まりだ。
イチかバチかの賭けに差し出すには、子供の人生はあまりに重く尊い。
僕にできるのは、時間を稼ぐことだけのように思えた。
今は全ての道が塞がれているように見えても、もっと考えれば、誰かに相談すれば、時間が経過すれば、何か良い道が見つかるかもしれない。
それが現実逃避に限りなく似ている行為だと知りつつ、僕はスマホをポケットに入れた。
もうすぐ新宿だ。
◆
「広野くん、最近ちょっと変わった気がするねえ」
事務所でシフト表とにらめっこしていると、突然後ろから話しかけられた。
振り返るとそこには、洒落たスーツを着た男性が立っていた。
肩くらいまでの長髪に白い肌、鼻が高くて目が細く、いつも笑っているような顔をしている。
「
僕は慌てて立ち上がった。
楊さんはこの現場のマネージャーだけど、いつも軽いフットワークで色々な場所を飛び回っている。
「顔合わせに行っただけだからね。あんなのオンラインでやりゃいいのに。相変わらず非効率的だよ、本社の連中は」
「あー……結構そういう人多いですからね、年齢が上の方は……」
楊さんはバイト一人ひとりにも気軽に声をかけるような人だけど、その中でも僕はなぜか特に気に入られているようだった。
「そんなことより広野くん、最近いいことでもあった? 明るくなった……って訳じゃないけど、なんかエネルギーが満ちてきた感じがするねえ」
「そうですか? あったかくなってきたからかな。僕寒いの苦手なんで」
「相変わらずとぼけるのが上手いけど、表情の相から全体的に柔らかさを感じるね。ふーむ……守るべき大切な存在……ひょっとして恋人でもできた?」
鋭い。
いや恋人とは全然違うんだけど、言っていることが完全に的外れという訳でもないのが怖い。
なんなんだろうこの人。副業で占い師でもやってるのかな?
まあ確かに最近、僕は百合香ちゃんのことばかりだ。
食事も、娯楽も、生活の全てを百合香ちゃん中心に考えるようになってきている。
僕はもともと自分というものに、あまり意味を感じていなかった。
将来なんてどうでもよかったし、だからこんなバイトを二十九歳にもなって続けている訳で。
人生に行き詰まったらそこで死ねばいいかなーなんて漠然と考えていた。
でも今は、百合香ちゃんがいる。
彼女を幸せにしなければならないと勝手に思っている。
これはある意味、呪いに近い何かだ。
「いやそういう訳じゃないんですけど……ちょっと心境の変化があったというか」
「なるほど? それじゃあ今ならさ、真面目に考えてくれるかな、例の話」
「正社員……ですか」
そう、僕はもう二年くらい前からずっと、正社員にならないかと誘われていた。
確かに正社員になれば生活は格段に安定するだろうし、社会的にも胸を張って生きられるかもしれない。
その代わり、休みは減る。
給料は増えるが、責任も増える。もちろん仕事も増える。
それらを天秤にかけた結果、責任ってのは嫌だなあという結論になる。
でもきっぱり断るのもなんだか申し訳ない気がして、僕は誘われるたびに、のらりくらりとかわしてきたのだった。
僕はいつもそうだ。考えたくないことを後回しにする。
手遅れになってから気がつく、なんてことは幸いにして今までは無かったけど。
これからも無いとは言い切れない。
「……正社員って、給料どれくらい増えるんですかね」
僕がひとりごとのように呟くと、楊さんは細い目をパッと見開いて、驚きと笑顔が同居したような表情になった。
「おっ、今までにない反応。お金欲しくなってきた~ん? いいよー正社員は、君の場合だと三十万くらいは増えるよー将来的には」
「詐欺師みたいな言い回しですね」
「完全に嘘って訳じゃないんだけど……まあ現実的な話をすると十万くらいは増えると思うよ。他にも様々な福利厚生があるし、はっきり言ってメリットはバイトの比じゃないとボクは思うね」
「休みが減るのがなあ……」
「有給もあるよ」
「それ、あるけど取れないやつですよね」
「でもお金欲しいんでしょ?」
「うーん」
以前の僕なら、やはり責任が増えるのを嫌って言葉を濁しただろう。
身軽でいたい。身軽であることこそが、僕を構成する重要な要素だ、なんて思っていた部分もある。
でも今は、百合香ちゃんという重しが生活の中心に居座ってしまった。
それは本当にちょっと洒落にならないくらい重くて、でも、今までに感じたことがないくらい、毎日が充実している。
『世界が輝いて見える』なんて言葉は僕には無縁のものだと思っていたけど、案外そんなことはないかもな、なんて思える程度には。
今の給料でも生活はできる。
でも、収入が増えれば、百合香ちゃんのためにしてあげられることも増える。
彼女のために選択肢を増やしてあげられるかもしれない。
「えっと、前向きに検討させて下さい」
「おお……ちょっとボク感動しちゃったよ。長年の説得がついに実を結んだかとね」
「まだ決めた訳じゃないんで……」
「うんうん、今は焦らなくていい。じっくりと、しかしきっちりと前向きに、いいかい、前向きにね、考えてね。いやー君の心を溶かしてくれた彼女さんに感謝だな」
「だから彼女ではないんですが……」
ハッハッハと笑いながら去っていく楊さんには、僕の呟きは届かなかった。
しかし、正社員か。
新卒の、前職のことを思い出して嫌な気分になるばかりだったはずなのに、こんな風に考えられる日が来るとは思わなかった。
とはいえ……
返事を保留にした理由もまた、百合香ちゃんなんだよな。
楊さん、僕が正社員になった後逮捕されたりしたら、がっかりするだろうなあ。
本当にどうしたものか。
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