宵闇散歩
嶋野夕陽
不思議な内線
とある介護施設での話だ。
東京の介護施設というのは、結構な確率で介護のために建てられていないことがある。
私が勤めていたところも、元々はどこかの社員寮だったと聞く。
バブルの時代ににょきにょきと建てられて、今は使われていない建物が、東京にはたくさんあるのだ。
古い建物であるから、昔は使っていたんだけどね、みたいな設備があちこちに点在している。
例えば仕組みも理論も良くわからない、空気を清浄にしてくれる装置。ほかにも、制御盤が事務所にしかないような、錆びついた空調機なんかがそれだ。たまにがたんと天井がはがれて空調機ごと降ってきたなんて話も聞くから恐ろしい。
廃墟にある『危険・立ち入り禁止』という張り紙は伊達ではないのだと思う。
しかしまぁ、実際に私がなんかしらの被害にあったことはないので、真実のほどは定かでない。
しかし今からする話は本当だ。
なにせ私が体験した話なのだから。
私が勤めていた介護施設は3階建てだった。各階に25部屋。中庭に面したコの字の外側に並んで部屋がある。
私が気になっていたのは、2部屋ごとに部屋側の壁に設置された電話であった。
はじめのうちは、ナースコールの仲間かと思っていた。
しかし一向に誰も使用する様子がない。では一体何のためにあるのかと、先輩職員に尋ねてみたところ、なんだかわからないという返答が帰ってきた。15年も務めている人がわからないというからには、誰にもその用途はわからなかった。
私もその時はそれ以上気にすることなく、話を切り上げた。長々と雑談できるほど、日中の仕事は暇ではない。
夜勤を頻繁にやっていると、夜の闇があまり怖くなくなってくる。
私はもともと怖がりであったはずなのに、今ではすっかりふてぶてしく仕事をするようになっていた。もしかすると、長く務めるうちに、人の死に向き合うことが増えてきて、死を以前より身近に感じるようになったことが、私をそうさせたのかもしれない。
ある夜勤中、やることが無くなってぼーっとしていて、ふと以前聞いたその内線のようなものが気になった。立ち上がって廊下へ歩いて行き、一番端の受話器をはずし、耳に押し当ててみる。
さーっというノイズのような音が走っている。
まだ電気が通っているということなのだろうか? そうだとしたら電気代の無駄だなぁ、と思った。
受話器を外してみても、プッシュするボタンなどは見当たらない。おそらくこれは、どこかからの連絡を受ける限定のものか、受話器を上げた時点でどこかに勝手につながるタイプのものなのだろう。
そのまま耳に当てていると、何かノイズ以外の小さな音が受話器から漏れていることに気がつく。どこかにつながっているのかもしれないと思い、しばらくの間そうしていたが、何が聞こえてきているのか判別することはできなかった。
「なんだこれ」
少し気持ち悪かったので、強がって口に出すと、天井に取り付けられたスピーカーがざざっと変な電子音を出した。
それにびくついて受話器を置いた直後、ナースコールが鳴る。ディスプレイを見ると、夜中にいつも呼び出しをする入居者のお爺さんだった。
雰囲気にのまれかけていた私は、日常に戻った気がしてホッと一息つく。PHSをとって「ただいまうかがいます」と返事をした。
いつも用事もなく呼び出されるので、少し煩わしく思っていたが、今回に限ってはありがたかった。
【怖いもの見たさ】という言葉がある。
ホラーを見たり聞いたり読んだりする人なんて、大抵その【怖いもの見たさ】に背中を押されているはずだ。
かくいう私もそうで、この一件以来、夜勤の度に必ず受話器を一つ耳に押し当ててみることに決めた。
最初はドキドキしながら聞いていたのだが、すぐにその気持ちも萎んだ。最初の内線と違って、2つ目以降のものからは、サーっというノイズの音が聞こえてくることもなかったのだ。
1分ほど様子を見て、普通に受話器を戻す。
折角決めたからと思い、夜勤の度に同じようなことを繰り返していたが、その後はみんな同じような結果だった。
そんなことを繰り返しながら、ぐるっとコの字を一周まわって最後の受話器のところまでたどり着いた。最初のものからは、広いフロアを挟んで反対側だ。
ドキドキもせず、期待もせずに、何の気なしに耳に押し当てた受話器だったが、なんとその日は、最初の日に聞こえたあのノイズが聞こえてきた。
誰もいない廊下の奥を見たり、天井を見たりと、そわそわしながら、耳にそれを押し当て続ける。
しばらくそうしていると、受話器の先からがさごそと音がしてきた。やはりどこかと繋がっているようだ。何を言っているのかは前回同様聞き取れない。
息をひそめて待っていると、やがて一言聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「なんだこれ」
それを皮切りに、受話器の向こうから同じ声が繰り返し繰り返し流れてきて、その音はどんどん大きくなっていく。
「なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ」
慌ててガチャンと受話器を置いて、つばを飲み込む。
聞こえてきたのはおそらく私の声だった。
恐る恐る、最初の内線があった場所に目を向けると、廊下の電球がちかちかと明滅している。それに合わせて、何か影のようなものが踊っているようにも見えた。
気のせいだ、何かがいるはずなんかない。
キーンと耳鳴りがする。一つ手前の蛍光灯がチカっと怪しく瞬き、踊る影が大きさを増したように見えた。
その時、私の胸ポケットからPHSの音が響いた。
ディスプレイに映っているのは、いつものお爺さんの部屋番号だった。
明滅する電球から遠いその部屋に、私は駆け足で飛び込んだ。呼んでいたお爺さんが「随分急いできたねぇ」と私に声をかける。私は「ご用事はなんでしょう?」と尋ねると「ここの支払いってどうなってるんだっけ」といつもの質問が飛んできた。
やり取りを数往復繰り返し、お爺さんをベッドに寝かしつけて、部屋の外に出る。
中庭を介して、先ほどの廊下に目を凝らす。
そこの蛍光灯は、確かに明滅をしていたが、もはやそこに怪しい影は見えなくなっていた。
話はこれで終わり。
それから私は呪われて不幸になったわけでもなければ、誰かが突然亡くなったという話もない。廊下の電気はただ寿命でちらついていただけだし、内線から音が聞こえてくることは二度となかった。
今ではその施設は取り壊されて存在しないし、あのとき何が起こっていたのかは、もう誰にも分らない。
ただ私がほんの少し、前より臆病になった、これはそれだけの話だ。
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