29. 命を奪い、奪われて。

 いつの日か、泣いていた幼いユスティーナを慰めたことがあった。チャイルドスクールに通い始めた頃であったか。


 周りの子にはママがいるのに、どうして私にはいないの。スクールの運動会や発表会に、私だけ執事が代わりばんこで来るなんて淋しい。


 恐らくスクールで友人になにか言われたのだろう。一歳から会ったことのない母親について、彼女が悲しみを露わにしたのはあのときが最初で最後だったはずだ。


 ルイは彼女の小さな背中をさすってこう言った。


「ユナが泣いてると、僕まで悲しいよ。ユナには家族がいるじゃないか。そうでしょう?」


 僕自身には本当の家族は誰一人としていないのに。そういう醜い心情も含めての言葉だったと思う。


 彼の本心など知らぬユスティーナは、彼をじっと見て、さらに泣いた。


「ルイは……ルイは、ユナの家族じゃないの? ユナは、ルイも家族だと思ってるのに」


 ユスティーナのぐしゃぐしゃの泣き顔を見て、宥めていたはずのルイもつられて泣いた。


「ありがとう。僕の初めての家族になってくれてありがとう」

「どうしてルイも泣くのー! ユナももっと悲しくなってきたじゃんー!」


 二人で抱き合ってわんわん泣いた記憶。


 シェルマンの話を聞いた後、あの日のことを思い出そうとしてもセピア色がかって見える。母親がいないことを慰めていたルイの母親こそが、彼女から母親を奪った張本人だったと知ったのだから、あの記憶はもう鮮やかなものではない。


 体調不良を理由に、執事としては異例だが先に帰国した。どうやって帰ったのか覚えていないが、恐らく体調を崩したルイの代わりにシェルマンが諸々の手筈を整えてくれたのだろう。


 いつもの御者が心配そうにワゴンまで来て声を掛けてくれたところから意識が薄っすら残っている。


 足を引き摺って自室に戻り、しばらくベッドに座り込んだ。それからようやく帰国報告をしなければならないことに気付き、ベンジャミンの元へ向かった。


「ルイ。御者から体調不良で帰国したと聞いたが大丈夫か?」


 情報が早い。ユスティーナを置いてきてしまったことを謝りつつ、ルアーナの話を聞いたことは隠した。言葉の端々すべてに気を配り、怪しまれないように注意しなければならない。


 けれども彼は案外鈍く、普段通りのやりとりをして退室した。彼が兄のロマンについて話すとき、


『兄上は心の機微を感じ取れるお方だった。私とは違って、な』


 というようなことを言うように、鈍感さには自覚があるようだ。兄に対する劣等感も十分に持ち合わせた彼は、堂々とした王ではなく、ただのひとりの弟に感じられる。


 ルイの心はこんなにも傷ついているのに、傷ついていることを理由には出来ない。今まで通りを装って、執事としての職務を果たさなくてはならない。


 ユスティーナは口数の減ったルイを心配したが、「なんでもないですよ」の一言でかわし続けた。


 生活や環境を変えられないことに辟易したルイは、せめてもの変化として髪を思い切り切った。執事として坊主には出来ないが、これまでと違い、耳に掛ける髪はない。


 元来よりコンプレックスだった赤毛は、バーベット王国で老婆に言われたことをきっかけに、見ただけで吐き気を催すものになった。ペリドットの瞳を視認するのも嫌で、鏡はほとんど見ないようになった。


 当然、城中の誰もがルイの異変に気付いた。しかし何度尋ねてもはぐらかす彼の様子に、これ以上の詮索はやめようと皆が思った。ただひとり、ユスティーナの祖母、すなわち前王の妃であるミシェルを除いては。


 彼女は足が悪く、杖をつきながらルイの部屋を訪れた。ひとり部屋に篭っていることの多いミシェルが、いち執事の自室まで足を運ぶなど前代未聞だ。要件も分からぬまま、招き入れる。


「ご足労いただきありがとうございます。僕の部屋のティーを切らしているので、ただいま持って参りますね」

「ティーはいらないわ。私はお茶をしに来たのではない、あなたとお話しに来たの」

「僕と、ですか? なにかお困りのことでも」


 ミシェルには専属のベテラン執事がついているため、これまで彼女と話したことはほとんどない。ましてや二人きりなど、ルイが幼いときに少々遊んでもらった程度だ。


 緊張するルイに、彼女はおしとやかに微笑んだ。歳を取って、顔に皺が増えたとはいえ、王族らしく気品漂う振る舞いだなと思う。


「どうして髪を切ったの? 素敵な髪だったのに」

「ええと……気分転換です」

「確かにルイは、最近なんだか気分が優れないようだものね。そういえば先日バーベット王国に行ったのだったかしら」

「はい。ユスティーナさまに同行し、バーベット王国にてコンサートの鑑賞へ行って参りました」

「そのときに、辛いことを聞いてしまったのね」


 何食わぬ顔で放たれた言葉の意味に気付いたのは、思わず頷いた後だった。


「……えっ?」


 間抜けな表情を晒すと、ミシェルは悲しそうな笑顔を浮かべた。


 ルイのほうに手を伸ばし、「近付いてちょうだい」と言う。おずおずと歩み寄ったルイの頭を、彼女は優しく撫でる。


「殿下⁉︎」

「辛かったでしょう。隠し事をしていた私たちに、失望や怒りも抱いたことと思います。私たち家族の口からあなたに真実を伝えられなかったこと、本当にごめんなさいね。けれどもそれは私たちの愛ゆえだと理解して欲しいの」


 明確な肯定はしていないのに、ミシェルはルイが母親の真実を聞いたという前提で話している。


 今「なんのことですか」ととぼければ、真実を聞いた事実を隠し通せるかもしれない。そう思ったが、彼女の瞳を見上げて、諦めた。ユスティーナそっくりの藤色の瞳は深みがあり、嘘などでは騙せないと悟ったからだ。


「ベンジャミンは鈍いけれど、人の心をじっくりと考えられる子なのよ。あなたの心情を思えば、すべてを話さないことが最善だと考えた」

「なにがあったのですか。どうして僕の母は、ユスティーナさまの母を……」

「ルアーナの婚約者であったロマンを、事故のようなものだったけれど殺したのは、ムヒカ・アーレンバーグ。ルアーナの兄だった。彼はバーベット王国の悪党に買収され、仕えていたベンジャミンを暗殺しようとした。両国の国民のほぼすべてが、ムヒカのことなど知らないけれど」


 自分の血の繋がった、母とその兄がエングフェルト王国の王族二人を殺害したなんて。混乱して鼓動が速くなっていく。ミシェルの優しい手に、つい涙が溢れてしまう。


「なぜ、伯父上の存在を公表しなかったのですか」

「彼のことを発表するなら、バーベット王国のことも発表しなければならないから。当時関係は良いとは言えなかったから、隣国としてそれ以上関係を悪化させるわけにはいかなかった」

「そんな外交上の理由で何事もなかったように振る舞うなんて、僕には出来ません。今ではバーベット王国と良い関係を築いていますが、僕なら隣国との関係なんてそのときに断絶してしまったと思います」

「当然、私たちだって許せなかった。けれどね、豊かなバーベット王国と関係を断つことは、エングフェルト王国の民までも危険に晒すことになる。私たちの感情で、国民を危険な目に遭わせるなんて王族として言語道断でしょう」


 許せなかった、と言った彼女の声は弱々しく震えていた。家族の命を奪った者の血縁であるルイの頭を、家族の命を奪われたミシェルが撫でる。どれほど奇妙な光景であるだろう。

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